柴田賢龍密教文庫「研究報告」

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『匡房卿記』と真言記録

2009-07-03 06:42:58 | Weblog
先日「新発見の『匡房卿記』逸文」に対してニールス・グュルベルク氏からコメントが寄せられ、私も『国語と国文学』平成元年十月号に収載する氏の「岩瀬文庫所蔵『言談抄』と大江匡房」に目を通したりしてみました。私は日本史や国文学の専門の研究者では無いので大江匡房についても事典程度の知識しかありませんが、近日中に(今月末を目途に)この欄を使って『匡房卿記』と真言記録について少しく所感を述べたいと思います。(平成21年7月3日)

大江匡房(1041―1111)と真言記録
真言事相に関連して引用される匡房記に「即位潅頂」の淵源に付いて論じる際の『後三条院御即位記』(群書類従7)があります。即位潅頂とは天皇が即位する際に密教の印と真言を結誦して仏の加護を祈念する作法であり、又「四海領掌の大事」とも云います。この即位潅頂に付いて記した最初の記録が上の匡房作『即位記』であると主張される事があります。匡房は当時蔵人(くろうど)として治暦四年(1068)七月に行われた後三条天皇の即位式の始終を間近に見て、それを記録に留めた訳ですから文章自体は信用できます。即位潅頂との関連で引用される文章は、
新天皇は(小安殿から大極殿の高御座に向かう時に笏を持たず)手を結んで大日如来の如くであった。即ち拳印を結んでいた。
と云うものです。大日如来で「拳印」と云うと普通は金剛界大日の智拳印を指しますが、この場合もその意味でしょう。
次に純粋な真言記録の別記として『中御室御潅頂記』(続群書類従26上)があります。中御室(なかおむろ)とは白河天皇の皇子覚行法親王(1075―1105)のことで、寛治六年(1092)三月に仁和寺観音院に於いて寛意大僧都(1054―1101)から伝法潅頂を受けました。匡房の官位はその時正三位参議で左大弁を兼ねていましたが白河院から命を受けて此の仏事に立ち会い、恐らく日記に事の始終を記録したものが後に別出されたものと思われます。伝法潅頂に伴う施設荘厳と参仕の僧俗、また外儀の始終等が詳しく記されています。本文中に潅頂作法が終わってから行われる「歎徳」の文が掲載されていますが、是は勿論匡房の自作でしょう。考えてみるとその大半は散逸してしまったにしても、白河院の近臣として匡房が立ち会った真言供養や御修法(みしほ)の多くが匡房の手に依って詳しく日記に書き留められたに違いありません。
次に『江家次第』(新訂増補故実叢書23)に載せる仏事はほとんど顕教法会に関するものですが、巻第三の「御斎会」の条にわずかながら内論義に於ける「真言僧綱」すなわち後七日御修法(ごしちにちみしほ)阿闍利の加持香水に言及する事と、巻第十三の寛治七年(1093)「法勝寺薬師堂に於いて丈六観音を供養する次第」の条を挙げることが出来ます。此の条は密教の作法による開眼供養の次第が記されています。前条には永保三年(1083)の「法勝寺御塔(供養)会次第」が載せられています。此の塔は純粋な密教の塔なのですが(後文で説明します)、その供養は伝統的な南都の顕教法会によって行われました。
『朝野群載』巻第二には「帥江納言」作の永保五年(三年1083の誤り)十月一日「法勝寺御塔供養呪願文」を採録していますが、是に依って八角九重大塔の中尊が八尺の金剛界五智如来であり、内部の柱絵には金剛界曼荼羅の諸尊が描かれていた事、更には同時に供養された八角円堂が三尺の白檀の愛染明王を祀る堂であった事が分かります。
真言関係の史料が最も多くあるのは『江都督納言願文集』(六地蔵寺前本叢刊3、大日本史料各巻)です。尤も内容を通覧した訳では無く、ただ願文の目録を見てそう言った迄です。それでも少し目を通して気の付いた所を述べてみます。
(1)巻第一 天仁二年(1109)二月二十七日の「白河院(法勝寺)北斗曼荼羅堂」
安置の仏像が金輪仏頂(きんりんぶっちょう)、北斗七星とその眷族等であるから当然と思う向きもあるでしょうが、此の願文は非常に密教色の濃厚なものと成っています。即ち「龍猛(りゅうみょう)・龍智は八葉の花を踏み、瑜伽瑜祇、三密の水を潅ぐ」と云い、又「(阿)頼耶の門を排(おしひら)いて阿字の殿に入る」と述べています。
(2)巻第一 天永元年(1110)十一月二十六日の「真言寺に於いて多宝塔を造立せらるる願文」
「真言寺」とは小野の曼荼羅寺のことです。文中に「検校権少僧正(少は衍字)範俊は朕が宝算を祈らんが為に、朕が玉体を全うせんが為に、弘願を発して浄財を捨て、多宝塔を造り奉る」と云います。巻第一は「帝王」の願文を集成してありますから此の「朕」とは鳥羽天皇のことです。即ち曼荼羅寺検校の範俊が私財を用いて鳥羽天皇の奉為(おおんため)に寺内に多宝塔を建立したのですが、範俊が検校であったからには当時の別当が誰であったのか気になります。
しかし真言事相の面からもっと気になるのは続きの一文です。即ち「等身金色大日如来一体を居し奉る。四面皆,栴檀の香を出だして、虚空界の月に異ならず」と述べていますから、どうやら此の大日如来は一身四面の像であったらしいのです。四面大日自体は金剛智訳の『略出念誦経』巻第一に説かれていますから正統な由緒正しい教説であると主張する事も可能でしょうが、実際にはほとんど取り上げられることも無く、造像の記録も皆無に等しいかと思います(尤も中世後期以降の事はよく知りません)。私事で恐縮ですが、昔醍醐寺に勤めていた頃に曼荼羅寺の後身である随心院の方へ散歩に出かけ、近辺の草むした祠の中に四面大日が安置されてあるのを見て奇異の感を抱いた事を覚えています。ひょっとすると範俊が造立した多宝塔の由緒を伝えていたのかなと思ったりします。
以上、思いつくままに大江匡房と真言記録について記しました。今後も暇を盗んで『江都督納言願文集』や今回全く触れる事が出来なかった『江談抄』を読み、何か興味深い発見等があったら本欄に又報告します。(平成21年7月30日)