柴田賢龍密教文庫「研究報告」

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勝定房恵什と寛信法務

2010-02-03 21:17:13 | Weblog
勝定房恵什と寛信法務

仁和寺の恵什阿闍利(1060―1144―)は鳥羽院政期の真言学僧で本名(前名)を斉朝(最朝)と云い、『十巻抄』(図像抄/尊容抄)の撰者として有名です。『十巻抄』の作者に付いては保寿院流祖の平等房法印永厳(ようげん 1075―1151)の作とする説もありますが此の問題に関しては触れないでおきます。勧修寺の寛信法務(1084―1153)は顕密兼学の真言学僧として知られ、勧修寺長吏のみならず東寺長者・法務、東大寺別当という顕職を歴任しました。又師の厳覚僧都より小野法流の秘伝を写瓶(しゃびょう)され、後世勧修寺流の祖と仰がれています。
研究者の間でもあまりよく知られていないと思うのですが此の恵什・寛信両師の間には密接な繋がりがあります。具体的に云うと、寛信は真言事相に関して恵什から教えを受け、特に恵什が所持していた多くの珍しい真言聖教の書写を許されていたという事です。此の事は信憑性の高い数々の寛信識語(奥書)によって裏付ける事ができます。又是と関連して櫛田良洪著『覚鑁の研究』の第三章ノ一「実範とその周辺」に、
更に「三国真言伝法師資相承血脈」によると、「増蓮〔阿闍利〕―芳源〔阿闍利/安養房〕―寛信/実範」という系譜がのせられている。すなわち実範の師となった僧に芳源があって、石山寺修仁の法燈を寛信・実範が相承している。
と述べていますが(p.126)、此の血脈は元来「増蓮―芳源―恵什―寛信」とあって恵什が欠落したものと考えられます。即ち「石山流人師方(にんじかた)血脈」・「恵什相承胎蔵血脈」等何れも、
淳祐―真頼―雅真―暦海―修仁―増蓮―芳源―恵什
と連なる上、芳源の生没年は未詳とはいえ寛信が受法するのは年代的にやや不自然です。
さて寛信の識語を紹介する前に、行遍僧正(1181―1264)の口説を記した『参語集』の中に、恵什が仁和寺から勧修寺に移って寛信に授法した物語が記されていますから、それに付いて簡単に述べておきましょう(巻第一「勝定房の事」)。同書によれば、白河天皇の御子である中御室覚行(1075―1105)が仁和寺に入御した時に勝定房恵什を以って師範となされた。ところが同寺北院に於いて恵什が授法する時、弟子の覚行は母屋に坐し、師匠の恵什は一段低い庇(ひさし)の板敷きに座らされた。恵什は是を仏法の権威をないがしろにするものと考えて憤慨し、そのまま仁和寺を立ち去って戻らなかった。似たような話は守覚法親王と勧修寺の興然阿闍利にもありますが、世間の権威を意に介さない学究肌の学僧の心意気を示して興味深く思われます。さて寛信は常日頃「いくら身分が卑しくとも稽古と修行に優れた僧に親しんで教えを受けるべきである」と語り、恵什は是を洩れ聞いて勧修寺に移る決心をした。寛信は恵什を「天の与えた師匠である」と歓迎して、様々不審を問いただした等と述べています。
それでは以下年月日順に寛信識語を紹介します。

(一)金剛界連鏡秘密法(『金剛蔵目録』五の第80箱32)
本に云く、法務自筆の批なり。
天養元年(1144)暮秋(九月)、恵什闍利の本を以って写さしめ了んぬ。   寛信
康和四年(1345)八月廿日、高雄の弊房に於いて昨今両日の間に老筆を馳せ了んぬ。此の次第は後入唐僧正(宗叡)の作〔云々〕。秘すべし、々々。
     小野遺老栄―(海)〔生年六十八〕
 一校し了んぬ。
〈訂正〉「康四年」とあるのは「康四年」の入力ミスです。(平成23年3月4日)

(二)『覚禅鈔』の『随求(法)』の「形像の事」(『大正大蔵経図像』第五巻p.97b)
勧修寺法務(寛信)の視聴抄に云く、天養元年(1144)十二月七日、恵什闍利来たり語りて云く、随求八印の右四印は無能勝明王の印、左四印は無能勝妃の印なり。(以下略す)

(三)五秘密次第〔神日〕(『金剛蔵目録』十七の第285箱70)
恵什闍利の記に云く、天養元年(1144)十二月四日、光明山に於いて神日律師の草本を以って書抄し奉り了んぬ。本書は甚だ委しく存ずれば之を略抄し、四句賛は本に任せて指声し了んぬ。年八十五〔云々〕。彼の闍利、同七日に持ち来る。十二日に写し了んぬ。   権大僧都寛信〔六十一〕     (以上本奥書)
(別筆)「正平十年(1355)〔乙未〕正月廿三日、恵什阿闍利自筆の本に比校せしめ、違する所を直注せしめ了んぬ。(後文略す)   賢宝〔之を記す。〕」
〈コメント〉
神日(じんにち 860―916)は円城寺益信の潅頂弟子ですが、水尾(みのお)の玄静(げんじょう)から宗叡の伝を受法するなど広範な学識を有した真言学僧です。
恵什の識語の終りに年齢を書き記しています。是によって逆算すれば生年は康平三年(1060)になります。他に一、二点史料があれば是を確定できるでしょう。
恵什が光明山で12月4日に抄写した本を、わずか三日後の7日に寛信に手渡しているのに少し驚かされます。後代に賢宝が恵什の自筆本を用いて対校したと云うのも感心させられます。

(四)一字頂輪王儀軌音義(『弘法大師全集』第二輯第六巻p.531 原本は東寺観智院金剛蔵本)
天養二年(1145)首夏(四月)十三日、恵什闍利の本を以って之を写す。
   権大僧都寛信

(五)大仏頂広聚陀羅尼経巻第五(『金剛蔵目録』一の第13箱2-4)
(内題)大仏頂無畏宝広聚陀羅尼経巻第五
(尾題)大仏頂無畏宝広聚経巻第五
写本に云く、
天養二年(1145)六月十六日、恵什阿闍利の本を以って写し了んぬ。
     寛信
(以下の賢宝識語を略す)
此の経は慈覚大師の御請来なり。流布は頗る希(まれ)なるか。仍故(よ)って写し置く所なり。(是も賢宝の記か。)

(六)曼荼羅問答〔慈覚問う。法全(はっせん)答う。〕(『金剛蔵目録』十九の特第14箱16)
久安元年(1145)八月、恵什闍利の本を以って写し了んぬ。件の本は芳源阿闍利、之を書く〔云々〕。
     寛信     (以上本奥書)
文和三年(1354)〔甲午〕、勧修寺の三国竹林房に於いて書写し了んぬ。慈覚大師の作なれば彼の門流は殊に以って秘蔵す〔云々〕。門葉に非ずと雖も之を軽んずべからず。
     権少僧都杲宝

(七)金剛界次第法巻第三(『金剛蔵目録』五の第80箱34―3)
天養二年(1145)冬、恵什闍利の本を以って之を写す。
       権大僧都寛信〔六十二〕

(八)『覚禅鈔』の『迦楼羅法』の「勤修の先跡」(『大正大蔵経図像』第五巻p.478c)
法務(寛信)云く、〔恵什之を申す〕、故修理大夫(橘/旧姓藤原)俊綱の其の女(女婿の「婿」欠か)中宮大夫(源)〔師忠〕は上没後に是の如きの恐れを除かんが為に、先師芳源闍利を以って迦楼羅法を行わしむ。此の法は邪魔を除き寿命を延ぶる故なり〔云々〕。
〈コメント〉
年記はありませんが是も恵什が寛信に語った事を、後に寛信が引用したと解して問題無いでしょう。
文章に少し乱脱があるようです。修理大夫橘俊綱(1028―94)は関白藤原頼道の子ですが、讃岐守橘俊遠の養子に成りました。歌人として名を成したのみならず、作庭(造園)にも大変な才能があったようです。中宮大夫源師忠(1054―1114)が俊綱の娘婿であった事は、師忠の子師親の母親が「修理大夫俊綱の女(むすめ)」であるとされているので分かります(『尊卑分脈』第三篇の村上源氏の条)。
此の記事は亦芳源阿闍利と源師忠の関係を示して興味があります。

(九)随心院蔵の栄海撰『付法伝勘注』第三(『随心院聖教と寺院ネットワーク』第一集所載の牧野和夫論文p.88)
裏書に云く、
新渡の大仏頂タラニの序に説く、不空三蔵は北天竺亀茲国の人〔云々〕。彼の序に、那爛陀寺僧の天吉祥と智吉祥の二人は宗(「宋」か)朝に来り之を記録す、と。件のタラニの本は勧修寺に在り。恵什闍利、宋朝の本を感得して寛信法務に与え了んぬ。
〈コメント〉
是は寛信自身の言葉ではありませんが上に見た諸史料に照らして、やはり寛信の識語が元にあったと考えられます。

(以上)

近日中に此の記事の梗概を少し視点を変えてHP『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス」欄に掲載する予定です。(平成22年2月4日)
法流相承の問題点という観点から上記HPの「真言情報ボックス」欄に同じく「8. 勝定房恵什と寛信法務」と題して記事を書きました。一見して下さい。(平成22年2月14日)