柴田賢龍密教文庫「研究報告」

ホームページ「柴田賢龍密教文庫」に掲載する「研究報告」の速報版です。

金沢文庫の光宝方聖教について

2010-05-23 15:41:23 | Weblog
金沢文庫の光宝方聖教について
(「金沢文庫」とあるのは正確には金沢文庫保管重文称名寺聖教の事です)

光宝方(こうほうがた)は醍醐寺座主光宝(1177―1238)を祖とする三宝院流の支派ですが、東密三十六流の一つに数え上げられている事からも分かるように鎌倉時代中後期には相当大きな勢力を有していました。しかしその後は精彩を欠き、同じ三宝院流の中でも道教方や憲深方が近世に至るまで盛んに伝法がなされたのに比較して影の薄い存在になりました。
現在では相承の印信を別にすれば一般には「光宝方聖教」と云えるものは知られていないのですが、称名寺聖教の中には印信・血脈類以外に偽撰書を含めて相当な数の光宝撰述書があり、現時点で九部の存在が確認できました。その中の二部は信憑性の高い諸尊法口伝集であり、一部は大納言阿闍利仁済(にんせい ?―1204)の口決、今一部は遍智院僧正成賢(せいげん 1162―1231)の口伝です。若し本格的な精査を行えばかなりな分量の光宝方聖教を復元できる可能性があります。此の事は謙順(1740―1812)の『諸宗章疏録』が光宝の撰述を全く取り上げていない事を考える時、驚きに値すると言っても過言では無いでしょう。

光宝方聖教暫定目録(光宝撰述目録):
1. 整理番号252.14『本尊界会法』
2. 整理番号325.2『諸尊法』(仮題)仁済口・光宝記
3 .整理番号116.8.1~5『秘要抄』成賢口・光宝記
4. 整理番号342.12『潅頂式』(仮題)
5. 整理番号289.38『酉酉(だいご)水丁(かんじょう)口決』
6. 整理番号292.31『酉酉〔座主〕』
7. 整理番号298.41『酉酉大事〔深秘々々〕』
8. 整理番号322.77『酉酉第三重口伝』
9. 整理番号338.46『秘密抄』
(No.5~9は偽撰の可能性に付いて注意すべき史料です。)

1. 整理番号252.14『本尊界会法』
(内容)宝珠法。道場観の種子「ア(梵字:a)」、三昧耶形「駄都」、本尊「本尊界会」として、本尊宝珠の四方に宝部の四菩薩を観想する。
(奥書)
元久二年(1205)孟夏上旬、師伝に依り之を注す。
一宗の大事なり。専ら之を翰墨に載すべからず。只頑迷の性を養い、自行に備えんが為の文なり。一期の終りの十念の刻に法身之偈を唱えて火の中に投ず而已。
   求法沙門已潅頂阿闍利光宝
(コメント)
鎌倉時代初期の勧修寺の宝珠法としては斬新なものですが、発想自体に伝統説からの逸脱が感じられないので一応光宝の真撰とします。「師伝」の師とは恐らく勧修寺長吏成宝(1159―1227)でしょうが確認は出来ません。三昧耶形の「駄都」に付いてはHP『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス 13. 仏舎利を駄都(だど)と称する事について」にかなり詳しく解説してありますから参照して下さい。
2. 整理番号325.2『諸尊法』(仮題)仁済口・光宝記
(内容)勧修寺流仁済方の祖として知られる高野真別所の学僧大納言阿闍利仁済(本名尊海)の諸尊法に関する口決集ですが、写本の現状は欠失・乱丁が甚だしいと云えます。第一紙の冒頭に諸尊を息災・増益・調伏・敬愛の四種法に分類した目録が記されていて、その中の息災の部分だけが完全に残っていて「釈迦 聖観音 馬頭 十一面 准胝 不空羂索」六尊を列記しています。全体で二十余の尊法が取り上げられているようです。
(聖観音法の道場観の裏)
建仁元年(1201)三月廿一日、金剛峯寺新別所に於いて慥に此の説を伝う。
(奥書)
右、最極深秘の口伝等、建仁元年三月廿九日、金剛峯寺新別所に於いて面(まのあたり)に大納言阿闍利〔仁済〕より伝え奉り畢んぬ。
     阿闍利大法師位光宝
書き本に云く、
建暦元年(1211)五月六日、之を書き聚む。明師の口伝を以って私に類聚すること、偏に随身の為に専ら肝心を抽ける而已。法眼光宝。生年三十五。
弘安元年(1279)三月十日、書写し了んぬ。
     小野末資増瑜
延慶二年(1309)二月十四日、書写し了んぬ。
       良阿
(コメント)
光宝の師成宝僧正が高野山に於いて仁済から伝法潅頂を受け「灰中の印信」を授けられた事は真言事相史に於いて比較的よく知られている事柄ですが、仁済と光宝の師資関係に付いては従来ほとんど知られていませんでした。光宝も亦仁済からの伝法を遂げていた事を示す大変貴重な史料です。
書写奥書中の増瑜(1219―90頃)は卿阿闍利の通称で知られた真言小野流の学僧で、関東(鎌倉)に於ける鎌倉中後期を代表する碩徳の一人です。
3 .整理番号116.8.1~5『秘要抄』成賢口・光宝記
(内容)醍醐の遍智院僧正成賢から伝受した諸尊法の口決集であり、光宝方聖教の肝要を為すものです。元は興然阿闍利(1121―1203)の『四巻』に倣って巻物を面(おもて)裏とその上下に四分割して記した一巻の書でしたが(但し実際には「巻物二つ」であったらしい)、佐々目の守海法印が書写する時に現状の如く五巻(帖)に調巻されました。第五巻は建保五年(1217)十二月の醍醐三宝院に於ける光宝の伝法潅頂入壇の記録を別出したものです。
第一巻(面上の巻)は整理番号116.8.3であり、最初に全体の目録が記されています。此の巻には請雨経法以下五種の経法が収められていて、仁王経法の奥に以下の識語があります。「
承久元年(1219)二月三日、醍醐寺遍智院の禅房に於いて前権僧正〔成賢〕の御房より伝え奉り畢んぬ。
   座主権大僧都光宝」
第二巻(面下の巻)は整理番号116.8.4であり、六字経法以下宝珠法まで六種の尊法が収められています。元は最後に伝法潅頂の記があったらしいのですが、前述したように此の部分は守海によって別出されました。鎮壇法の奥に、
承久二年(1220)正月、遍智院に於いて之を伝え奉る。委細は別に在り。
     光宝 
と記しています。
第三巻(裏上の巻)は整理番号116.8.1であり、仏眼法以下七種の尊法が収められています。また第四巻(裏下の巻)は整理番号116.8.2であり、五大虚空蔵法以下六種の尊法等が収められていて以下の奥書があります。「
承久二年秋の比、伝受すること畢んぬ。
  座主権大僧都光宝
     一交了んぬ。」
第五巻(潅頂の巻)は面下奥と裏下端の記を合わせたものであり整理番号116.8.5です。建保五年(1217)十二月二十三日に醍醐寺三宝院に於いて時に東寺二長者であった権僧正成賢から伝法潅頂を受けた時の記録ですが、終りに一括して潅頂印信が記されていて光宝方印信の亀鏡(模範)とすべき貴重な史料です。奥書は以下の通りです。「
写本の奥書に云く、
先師法印大和尚位〔光―〕の口決、自筆の本を以って書写し了んぬ。
御本は巻物二つ計り〔上下〕、面と裏と一巻の御書なり。事の様は勧修寺の四巻抄の如し。此の書は一巻なり。然りと雖も私の意楽(いぎょう)を以って五帖に之を書く。此の一帖に於いては写瓶に非ざるの外は輙(たやす)く写持せしむべからず。其の仁無ければ閉眼の時に火中に入るべし。
   求法沙門金剛仏子守海
時に嘉元三年(1305)十二月三日、守海法印御房自筆の本を以って金沢の宝閣に於いて書写せしめ了んぬ。
  三宝院末資金剛仏子剱阿〔廻季四十五〕
       一交了んぬ。」
4. 整理番号342.12『潅頂式』(仮題)
此の写本は大きく前後乱丁していますが欠失部は無いように思います。書き出しと思(おぼ)しき部分に「三摩耶戒儀式」と題されているので是を以って名称とすべきでしょう。元の本の裏書を本文中に字を上げて小字で書き込んであるので、余計に煩雑な感がします。
是は光宝が寛喜四年(1232)正月に宗禅律師に伝法潅頂を授けた時に使用した三摩耶戒次第であり、以下の奥書があります。「
本に云く、
寛喜四年正月廿一日〔心―、金―〕、宗禅律師、入壇を遂げ了んぬ。
同三月七日、宗禅律師に授け了んぬ。   光宝
寛喜四年正月廿一日、入壇を遂ぐ。醍醐寺三宝院の正流なり。大阿闍利は初度なり。殊に甚深の仰せを蒙れる間、宿縁尤も貴むべし。聊か物詣での間、三月七日に伝受し奉る。仍則、次第等を賜り書写せしめ了んぬ。   金剛仏子宗禅
建長七年七月廿五日、此の式を賜り書写せしめ了んぬ。
勧修寺慈恩(尊)院と校合せしむるに敢えて違わず〔云々〕
     覚宗、之を記す〔已上〕
       交点し了んぬ。」
5. 整理番号289.38『酉酉(だいご)水丁(かんじょう)口決』
外題に「酉酉水丁口決〔三宝院/秘事〕」、内題に「酉酉流大事等〔三宝院〕」と云います。
(内容)初めに伝法潅頂の三重印明の由緒に付いて記し、次いで各重の印明を挙げてそれに関わる口決を述べています。初度(初重)の「師資相伝の習」の中で、五輪塔婆の五大は空大が余の四大を摂する事に付いて図形的な説明を加えていますが、是は鎌倉時代後末期に至って三宝院諸流で製作された潅頂印明に関わる秘伝書の中によく記されている説です。
(奥書)
此の書は真宗の規模の大事、当流第一の深秘なり。輙く注文せしむべからずと雖も、廃亡を恐るゝが故に万事を顧みず書記せしむなり。命尽の時に於いては早く之を焚焼すべし。
建仁二年(1202)三月十一日、之を記し畢んぬ。
   金剛仏子光宝
時に元徳三年(1331)仲夏(五月)第七之天、金沢の勝地なる知足の梵宮に於いて師主阿公上人御自筆の本を賜り之を書写し畢んぬ。
   三宝院末資凞允
(コメント)
建仁二年は光宝が成賢から三宝院流の伝法潅頂を受ける十五年も前であり、又上記『秘要抄』潅頂の巻の記述を参照する時、到底光宝の真作とは考えられません。それでも潅頂印明口伝書として簡潔で要領を得た記述がしてあります。凞允奥書中の「阿公上人」とは金沢称名寺第二世の剱阿(1261―1338)を云うと思われます。
6. 整理番号292.31『酉酉〔座主〕』
(内容)最初に醍醐伝法潅頂の第三重印明を記し、次いで即身成仏に関わるよく知られた諸種の文を並べていますが、途中胎蔵五字明に付いて独自の見解を述べてかろうじて本書を価値あるものにしています。猶第三重の真言は常のアバンランカンケン(梵字avamramhamkham)にウン(梵字hum)を付加していますが、それに付いて特に説明(口決)はありません。
(奥書)
写本に云く、
延応元年(1239)九月七日
粗(あらあ)ら記し了んぬ。此の門人の内、唯一人に授くるの外は外見すべからず。努力々々(ゆめゆめ)。
   法印権大僧都光宝
正和二年(1313)二月十四日、先師上人并に俊公和尚の秘伝に任せて湛睿大法師に授け畢んぬ。
     剱阿〔在判〕
暦応五年(1342)四月十一日、先師阿公和尚の秘決を以って等印大法師に授け畢んぬ。
     湛睿(花押があります)
(コメント)
光宝の入滅年時に付いて醍醐の『伝法潅頂師資相承血脈』に「暦仁元年(1238)四月十四日入滅」と云う事と、潅頂真言が上記『秘要抄』潅頂の巻に記す正説と相違する事、更に取り立てて法流の相承と関係する内容でも無い事などから、鎌倉後期の比較的早い時期に誰か光宝方の学僧によって撰述された書と考えられます。
剱阿識語の「先師上人」は称名寺開山審海(1229―1304)、「俊公和尚」は鎌倉東栄寺開山源俊(1215―82)を云うのでしょう。写本の筆者湛睿(1271―1346)は称名寺の第三世長老です。
7. 整理番号298.41『酉酉大事〔深秘々々〕』
(内容)潅頂印明に付いての口伝書。
初めに「最秘口決」なる書を多用して金剛・胎蔵両界の概説を述べ、次に三重印明を挙げています。此の印言は普通の醍醐の伝とは異なるものですが、その中に「五智和合の外五古印」と云う風変わりな印もあります。それから改めて三宝院の三重印明を出して各種の法文を引用しています。此の三重の各重を『大日経(疏)』の三句法門に配当していますが教理的な説明はありません。
(奥書)
此の書は真宗規模の大事、当流第一の深秘なり。輙(たやす)く注文せしむべからずと雖も、定めて廃忘(はいもう)を恐るゝが故に、万事を顧みず書記せしむなり。朝暮、頚に懸けて片時も身より放つべからず。命尽の時に於いては早く之を焚焼(ふんしょう)せよ。穴賢(あなかしこ)々々。
建保二年(1214)八月十二日、之を記し畢んぬ。
  金剛仏子光宝〔御判あり〕
正和二年(1313)二月十一日、先師開山并に俊公和尚の秘口を以って湛睿大徳に授け畢んぬ。
      剱阿〔判あり〕
暦応五年(1342)四月七日、先師剱阿和尚授くる所の秘決を以って等印大法師に授け畢んぬ。 湛睿(花押)
(コメント)
光宝が遍智院僧正成賢から三宝院の伝法潅頂を受けたのは建保五年十二月である事、また光宝自らその潅頂印明に付いて記した『秘要抄』第五巻(潅頂の巻)を参照する時、このような冗長な記述が光宝によって成される筈もないと思われる事、内容の上からも三宝院の嫡伝を記しているとは考えられない事などにより、光宝に仮託した偽撰の書であると云えるでしょう。
8. 整理番号322.77『酉酉第三重口伝』
当書はNo.7『酉酉大事〔深秘々々〕』と『酉酉第三重口伝』の合本ですが共に題下に「金剛仏子栄宝」と記されています。本文は大きく乱丁していて、この為に『称名寺聖教目録』の奥書は両書が入れ替わっています。又写本の写真帳の文字が大変見づらいので本文は読むのをあきらめました。『称名寺聖教目録』も参照させて頂き奥書だけを載せます。
(『酉酉大事〔深秘々々〕』奥書。但し光宝の分は省きます。)
酉酉異等は信(まこと)には蘓悉地の事なり。塔印に口決あり。内縛、或いは外縛なり。或いは内縛、或いは外縛、内外心□処に任せる許(ばかり)なり。仍って秘するなり。
 永和四年(1378)二月廿六日、栄宝に授け了んぬ。
     権大僧都栄済〔御判あり〕
(『酉酉第三重口伝』奥書)
永和四年二月十八日、栄宝に授け了んぬ。
     権大僧都栄済〔御判あり〕
(コメント)
『酉酉第三重口伝』に付いてはその撰述者も内容も分からないのですが、やはり光宝方で相伝されたものなのでしょう。栄済・栄宝の師資に付いてもよく知らないのですが、栄済僧都は勧修寺の慈尊院法印栄尊(1213/23―1303)の付法資栄済と同一人物かとも思われます。
9. 整理番号338.46(外題)『秘密抄』
(内題)『駄覩法口決』
表紙の題下にキイン(梵字hiyim)と記されていて、No.5『酉酉水丁口決』の奥書中にも名の見える凞允の所持本であった事が分かります。
(内容)醍醐の舎利法即ち駄覩法に関する口決書であり、前半部に於いては『秘抄』の「駄都」道場観の文を「仰せ云く」としてかなり詳しく説明し、後半部では修法次第に付いて各種の秘密口伝を挙げています。
(奥書)
建仁二年(1202)十月七日、遍智院権僧正の御口決を以って私に之を注し了んぬ。未入壇の人に於いては名字を聞かすべからず〔云々〕   金剛仏子光宝
(コメント)
奥書の建仁二年という年時はNo.5『酉酉水丁口決』と同じであり、その点に幾分興味を抱かせますが、既に述べたようにあり得ない事です。
内容的にはそれ程冗漫の感を与えず、鎌倉初期の緊迫感がかろうじて余韻を保っているようです。鎌倉後期の比較的早い時期の製作になるものでしょう。


(以上)