柴田賢龍密教文庫「研究報告」

ホームページ「柴田賢龍密教文庫」に掲載する「研究報告」の速報版です。

智証大師と『瑜祇経』

2015-04-17 21:22:58 | Weblog
智証大師と瑜祇経

―円珍・高向公輔共作『佛母曼拏羅念誦要法集』の事―

ホームページ『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に新しく「北極星と北斗七星の密教化」(仮題)と題して星宿法の成立史等に関する論稿を製作していますが、その過程で『大日本佛教全書』27(智証大師全集第三)と『日本大蔵経』41「台密章疏一」に収載する『佛母曼拏羅念誦要法集』に記す七曜各別真言の本説が気になり当書を通読して、当書の主要部が『瑜祇経』(金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経)の「金剛吉祥大成就品」からの抄出である事が判りました。『佛書解説大辞典』等の仏典解説類にその事は記されていないようなので、ここに撰述者と内容に付いて簡単に述べておきます。
当書に付いては題名をやや異にするものの安然撰『八家秘録』巻上の「佛眼佛母法二」に、
「佛眼佛母曼荼羅要集一巻〔珍和上、高大夫と共に集む〕」
と記載されている本と同じであると考えられます(大正蔵55 p.1119b)。
仏教全書本は京都「花山観中院御経蔵」本に依る高山寺蔵本を底本とし、大蔵経本は石山寺蔵本を底本とし対校に大通寺本を用いています。又仏教全書本は尾題に「佛母念誦法要集」、大蔵経本は同「佛母曼荼羅念誦法要集」と記されています。『秘録』の注記に云う「高大夫」とは慈覚大師円仁の弟子であった湛慶阿闍利(817―80)の事であり、すぐれた学識を有していましたが宮中での不祥事に依って還俗し、高向公輔(たかむこのきんすけ)を称して讃岐守に補任しました。『三代実録』の陽成天皇元慶四年(880)十月十九日の条に「散位従四位下高向朝臣公輔」の卒伝があります。公輔は還俗しても仏法の研鑽に努めていたらしく、その学識は当時の天台僧の珍重する所でした。
その事を示す一例として大正蔵20『宗叡僧正於唐国師所口受』の「慈覚大師(所伝の)大随求印」の夾註に「讃岐守の安然に伝う」と記されています(寛治七年(1093)写の対校甲本)。台密の碩匠五大院安然が讃岐守高向公輔から随求法の伝授を受けていたのです。「珍和上」即ち智証大師円珍も、慈覚の弟子として同門である公輔の学識を恃(たの)んで此の『佛母曼拏羅念誦要法集』を共作したのでしょう。
さて本書はその題名が示すように仏眼仏母尊の念誦供養法を明らかにしようとした撰述書です。但し此の仏眼尊は胎蔵曼荼羅遍智院の尊では無く、『瑜祇経』の「金剛吉祥大成就品」に説く「一切佛眼大金剛吉祥一切佛母」(略して仏眼仏母/金剛吉祥)であり、此の仏眼尊は金剛薩埵の所変身である事が経に説かれています。又その像容は高山寺明恵上人の念持仏であった有名な国宝の仏眼仏母画像に於いて経説の通り忠実に描き出されています。本書の主要部は「金剛吉祥品」からの二箇所の抄出であり、その前後に加筆して以って一部の仏眼仏母法次第の体裁を整えています。
二箇所の抄出部の中、先ず前の部分に付いてその内容を概説します。始めに「爾の時に金剛薩埵は復一切如来の前(みまえ)に於いて、又一切佛眼大金剛吉祥一切佛母心を説く」と云って此の「心(真言)」の功能を説き、続けて「時に金剛薩埵は一切如来の前に於いて忽然として一切佛母身を現作して大白蓮に住す」以下に、一切仏母の一切支分より出生した無数の諸仏が「一字頂輪王を化作(けさ)」し、次いで此の頂輪王の請願に応じて仏母金剛吉祥は「根本明王」を説きます。此の「根本明王」とは諸尊法に広く用いられる仏眼大呪の事です。更に此の真言の功能を説く中で、「一切宿業重障・七曜二十八宿も破壊(はえ)すること能(あた)わず」と述べて、別して七曜二十八宿の障碍(しょうげ)に対する効験を記しています。此の事は平安時代中後期に成立した密教の星宿法に於いて、一字頂輪王(釈迦金輪)と仏眼仏母が果たす役割を考える上でも示唆に富んでいます。この後で仏眼印を説いて抄出前部は終わります。
抄出後部は「画像曼拏羅法」であり三重の八葉蓮花を以って構成されます。その要点は中台に本尊仏母、その前の蓮葉に「一切佛頂輪王」を安じてから右回りに残り七葉の各蓮葉の上に「七曜使者」を旋布します。是が初重の蓮花であり、第二重蓮に「八大菩薩」、第三重に「(八)大金剛明王」を画きます。又これらの諸尊が愛染王と同じく「皆師子冠を戴く」事は『瑜祇経』の著しい特徴を示していて、本経の成立背景を検討する上で重要な手懸りと成っています。
さて此の三重蓮花の曼荼羅に於いて注目すべき事柄として、七曜が中尊仏母金剛吉祥乃至その化作仏である頂輪王の内眷族と成っている点が挙げられます。その事は「金剛吉祥品」に説く「金剛吉祥成就一切明」が七曜の各別略真言から構成されている事とも符合しています(此の事に付いてはHP『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に掲載する「七曜九執真言の本説の事」第二章末部に於いて詳しく述べました)。即ち本尊仏眼金剛吉祥は七曜が代表する諸星の支配者とも、或いは本地とも考える事が出来ます。又『瑜祇経』が成立したインド的文化圏の世界に於いては、七曜乃至二十八宿の運行(働き)が社会と個人の運命にとって大きな脅威であると考えられていた事が伺われ、北極星(北辰)や北斗七星が中心の中国天文学の世界と大きな対照を見せています。
以上の『瑜祇経』からの抄出に依って本尊の性格とその曼荼羅は示されたのですが、修法次第としては本尊以外の諸尊の真言が必要ですから、続けて頂輪王と七曜・八大菩薩・八大明王の各別真言が記されています。ところが入唐八家の時代に於いては、北極星である北辰菩薩(妙見)や北斗七星を尊崇する多分に道教的な星祭りは盛んであったかも知れませんが、いまだ密教の星宿法は成立していませんでした。従って此の『佛母曼拏羅念誦要法集』に於いて七曜各別真言が記されている事は後の密教星宿法の成立を考える上で大変注目に価します。
それでは円珍と公輔は一体いかなる典籍を用いて是を記したのかが問題に成ります。七曜各別の真言は『大正大蔵経』第21巻に収載する四種の星宿儀軌に見る事が出来ます。それらは一行撰『宿曜儀軌』、金倶吒(こんくた)撰『七曜攘災決』、一行撰『北斗七星護摩法』、撰者未詳『梵天火羅九曜』です。此の中で智証大師と高向公輔の存命中に本邦に請来されていた事が記録に依って確認できるのは宗叡請来の『七曜攘災決』だけです。(『七曜攘災決』は宗叡の請来であろうという指摘を最初栃木県の小林清現師から頂戴しました。ここに改めて謝意を表します。)
即ち入唐請益僧であった宗叡(809―84)が帰朝して、貞観七年(855)十一月に東寺に戻って製作した『新書写請来法門等目録』に「七曜攘災決一巻」と記載されています(大正蔵55p.1111b)。禅林寺僧正宗叡は東密僧ですが、最初潅頂入壇の本師は智証大師円珍であり、又此の請来録に記載された「雑法門」は円珍の法兄である入唐留学僧円載法師(―838―877)の長安西明寺内の住坊に於いて書写されたものです。こうした事情を勘案すれば、智証が『七曜攘災決』を宗叡から借覧書写したとして何の不思議もありません。
『七曜攘災決』の作者である金倶吒の伝歴は、該書の始めに「西天竺国婆羅門僧金倶吒、之を撰集す」と記されている以外に知られる所は無いようです。本書にはインドには無かったはずの「北斗七星真言」(北斗総呪)や「招北斗真言」が記されていますが、是は金倶吒が中国の実情に合わせて書き加えたのでしょう。本書に記載された七曜各別真言の音写漢字を『念誦要法集』と比較するとほぼ同じであると云えますから、円珍と公輔は此の『七曜攘災決』によって七曜真言を記したのであると考えて間違いないでしょう。但し、金倶吒の書には七曜と羅睺星・計都星を合せた九執の各別真言が記されているのですが、『念誦要法集』は此の二星を採り上げていません。それは仏眼曼荼羅の三重蓮花葉の上に此の二尊が存在しないのですから当然でしょう。
弘法大師が請来した『瑜祇経』に対する最初の詳細な注釈は、台密教理の大成者と目される五大院安然(841?―915?)の三巻の疏(『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経修行法』三巻)によって為されました。安然は智証大師円珍よりは一世代後の人ですから、恐らくそれより早く智証大師もそれなりに『瑜祇経』に対する関心を抱いていたのです。智証はその代表作に挙げられる『菩提場経略義釈』(一字頂輪王経疏)五巻の撰述から明らかなように
一字頂輪王に深い関心を寄せていましたから、それとの関連で『瑜祇経』所説の仏眼仏母に興味を持ったのかも知れません。

(以上)