柴田賢龍密教文庫「研究報告」

ホームページ「柴田賢龍密教文庫」に掲載する「研究報告」の速報版です。

新出の洞泉性善の墨書貼紙

2011-03-11 01:45:54 | Weblog
新出の洞泉性善の墨書貼紙

1995年11月30日発行の『佛教藝術』第223号に収載されている林温「新出の八字文殊曼荼羅図について」は、平成七年度に重要文化財の指定を受けた個人蔵「八字文殊曼荼羅図」を紹介解説したものですが、初めの「伝来」の項に於いて本図表具の裏側に付された「旧表具を切り取ったと思われる」貼紙の写真とその墨書翻刻が掲載されています。
此の墨書は本図の改装後に供養導師の依頼を受けた江戸中期の著名な真言学僧である瓶原(みかのはら)貞福寺の洞泉性善(1676―1763)が記したものであり、性善の晩年の動静の一端を示す貴重な史料と判断して敢えて和訳して解説する事にしました。性善は醍醐寺に於いて主として報恩院流(三宝院流憲深方)の研鑽に努めて真言事相の碩学と仰がれるようになりましたが、また戒律にも造詣が深く後に東大寺の真言・戒壇両院の長老職を勤めています。
性善が世上よく名を知られているのは専ら『真言宗全書』に収載されている『三宝院流洞泉相承口訣』に依るものです。本書は題名にやや適切さを欠き、成立の由来を誤解している人が多いので一言して置きます。本書は明治・大正時代に活躍した仁和寺門跡浦上隆応(1856―1926)の編纂になりますが、内容の主要部である諸尊口決は智積院動潮(1709―95)の著作であり、それは宝暦年間(1751―64)に動潮が醍醐寺・東大寺或いは智積院において性善から受けた諸尊法の伝授を主な材料にしたと考えられる手鑑(てかがみ)・私記等です。潅頂部は性善の師僧であった醍醐安養院の運助僧正の著作であり、性善はそれを書写しただけで性善の口決ではありません(運助と性善は共に報恩院寛順大僧正の弟子です)。従って本書は動潮・運助作の隆応編になる変則的な三宝院流口伝集なのですが、動潮口決の本源は洞泉性善が醍醐に於いて相承した三宝院流の口決にあると云うので一応『三宝院流洞泉相承口訣』なる題名を付けたのでしょう。
〈翻刻文の和訳〉
(最初に別紙別筆で画題が記されています)
二四字マンダラ(梵字:matara)〔鼻祖真画〕   新勝院什物」
此の八字文殊の曼荼羅は是れ吾が曩祖遍照薄伽(ばが)の真蹟なり。而れば尤も尊重すべき者か。尓(しか)り。鳩嶺(はとがみね)新勝院の権律師重勝衲子(のうし)、不慮に之を感得せること冥助の致す所なれば衆人挙(こぞ)って称歎せり。奇なるかな。今歳(宝暦五年/1755)乙亥(きのとい)、季夏の天、老夫の之を携え来たりて云わく、院主若し所望あらば応当(まさ)に之を譲与すべし。且(また)他日来りて須らく賞労を受くべし〔云云〕。遂に之を閣(お)きて去り、復た来たらず。謂うべし、不可思議なりと。便(すなわ)ち軸の表紙を改め、開眼を予(性善)の手に乞う。固辞せるも免れず。仍って慎み挙(こぞ)りて之を供養し、聊(いささ)か其の縁起を記し了んぬ。
  宝暦五年九月十六日   瓶原苾蒭(びっしゅ)性善〔満八十才〕
(以上。翻刻は一部『佛教藝術』林論文と相違しますが注記を省略しました。ご了承下さい。)
〈語彙解説〉
○画題の「二四字」は勿論八字の事ですが、八字文殊を此のように表記するのは中古以来の伝統です。
○「鼻祖」は始祖・元祖の意で真言開祖弘法大師を指します。即ち大師の真筆であると云うのです。何でも由来のハッキリしない古仏・古写経等を宗祖や名の知られた祖師の御作と主張する此の種の説は、特に近世に於いては各宗寺院を通じて最もありふれたもので、寺院社会全般が通俗化した様相の一端をよく示しています。
○「新勝院」は後文に出るように男山(おとこやま)の石清水八幡宮の一子院です。正徳元年(1711)刊行の『山城名勝志』巻第十八では「五鳳集」なる書物を引用して、「男山には良い寺が沢山あるが、中でも新勝と云うのが一番である」と言っています。新勝院の什物になった経緯は本文に述べられています。
○「遍照薄伽」は弘法大師のことですが遍照金剛と薄伽梵(ばがぼん)を合わせた造語です。薄伽梵は梵語(サンスクリット語)bhagavanの音写で世尊と漢訳されています。
○「鳩嶺」は石清水八幡宮が鎮座する男山の異称ですが、その西寄りの一段と高い峰を指すという説もあるようです。
○「権律師重勝衲子」は当時の新勝院の院主であった事位しか分かりませんが、性善と親しい事からやはり真言律の僧であったのでしょう。「衲」は僧衣のことで衲子は僧侶の異称です。
○「瓶原」は山城国の南端の木津川沿いにあり(現在は木津川市加茂町)、奈良時代に聖武天皇が恭仁京(くにきょう)を構えた由緒ある場所です。南には九体仏で有名な浄瑠璃寺があります。性善は此の瓶原の貞福寺を私坊としていたのです。
○「苾蒭」は梵語bhiksuの音写であり、古い音写語である比丘の方が一般的です。真言僧は自らを金剛仏子と称し、律僧は苾蒭/比丘と称しますが、真言律の僧は状況に応じて使い分けます。

(以上)平成23年3月11日


(追加記事)
石清水新勝院重勝律師の新史料

弘法大師の真筆と称する「八字文殊曼荼羅」を老夫から手に入れて是を修補し、瓶原の洞泉性善に開眼供養を依頼した新勝院の権律師重勝に関しては他に知る所がありませんでした。ところが最近の『佛教藝術』第312号に載せる泉武夫「黒漆八角宝珠箱の金銀泥絵像とその意味」の中に重要史料がありました。此の論文は京都の石清水八幡宮が所蔵する範俊僧正(1038―1112)奉納と伝える如意宝珠を納めた盒子(ごうす/ごうし)に描かれた金銀泥の絵像に付いて詳しく解説していますが、此の宝珠を所蔵していたのが他ならぬ重勝律師であった事を明らかにしています。
即ち「一 出現状況と由緒書」に於いて、此の盒子を収納する外箱の蓋裏に貼付されていた重勝記の由緒書が翻刻紹介されていますが、それに依って重勝が八幡宮の中で枢要な地位を占めていたらしい事が伺えます。下に此の由緒書を和訳して示します。
「此の如意宝珠は古神宝録の中ニ範俊僧正奉納ト之あり。去年七月請雨(しょうう)の時、霊験速やかなり。拝見容易ならざらしめんが為に、外箱を新調す。毎日修法の時、予(私)、用心すること之あり。宝朱(珠)の事、当宮に習(ならい/口伝)之あり。   御殿司松本
 宝暦九卯(1759)五月廿八日、権律師重勝」
前年の請雨法に言及していますが、是は重勝が(大)阿闍利として修法を行ったという事でしょうから、重勝は当時の石清水を代表する真言僧であったと思われます。また此の如意宝珠は重勝の所蔵か八幡宮の什物か判然としませんが、何れにせよ重勝が管領していたのです。更に重勝は松本坊の院主として山上御殿司の別当でもあったようです(泉論文の注2参照)。

(平成23年5月28日)


(追加記事の補説)
上記「由緒書」の和訳中に「御殿司松本」と記しましたが、泉論文の図1に写っている外箱裏の由緒書をよく見ると、「松」字とするのは誤りで「杉」の異体字である事が分かりました。重勝律師の本坊である新勝院は又「杉本坊」と称する由なので是で納得が行きます。
『石清水八幡宮史料叢書 一 男山考古録』の「新勝院〔附、杉本坊〕」の項に、
中谷坂路倉坊の東隣は杉本坊也。新勝院を相続して同名を名乗る。同所なればにや。貞治三年(1364)七月に検校に補されたる新善法寺永清法印が次男空助法眼、御殿司に補されて当院に住て、東谷新勝院と号せり。(中略)御殿司宗真、当院に住し、元応二年(1320)三月八日寂す。宗延又空助等、皆新勝院々主にて杉本坊と号せり。
と解説しています(年記、送り仮名など一部改変しました)。
(平成23年5月29日)