柴田賢龍密教文庫「研究報告」

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小野静誉方と随心院血脈

2014-07-17 21:05:07 | Weblog
小野静誉方と随心院血脈

小野僧正仁海の遺跡(ゆいせき)である曼荼羅寺は範俊以後百年余りの寺内状況を示す史料に乏しく確かな事は分からないのですが、鎌倉時代の深賢口・親快記『土巨(とこ)鈔』に依れば、範俊は同寺を上足の弟子である良雅や厳覚では無く白河法皇の御子である仁和寺御室(覚法)に譲ったのです。そして同寺経蔵(小野経蔵)に収納されていた「十二合」と称する範俊相承の法門(聖教)や道具類も、法皇御所である鳥羽殿の経蔵に移されてしまいました。しかしながら小野の法流を伝える人達は寺内、近辺で伝法を続けて法燈を護持し、とりわけ厳覚の弟子増俊(1084―1165)が建立した随心院は顕厳を経て第三世の唐橋大僧正親厳(1151―1236)の時代に寺家(曼荼羅寺)に有職(阿闍利)三口を賜る等寺勢の回復を果たしました。以後曼荼羅寺は随心院に依って代表されるに至り、同寺の由緒が現在にまで伝えられる事に成ったのです。従って随心院の法流は増俊―顕厳―親厳と次第相承されたのですが、実には親厳相承の法流は普通に云う「随心院流」血脈より幅の広いものです。
『密教大辞典』に載せる法流血脈譜には奇妙で信じがたい相承次第が多くあります。今の「親厳方」の項に出だす安祥寺流の略系もその一例です。それは、
〔流祖〕宗意 念範 仁済 成宝 淳寛(しゅんかん) 増仁 仁禅 尊念 〔方祖〕親厳 良印 真空 頼瑜 (以下略す)
と云うものであり、年代を考えれば理性房賢覚の弟子である淳寛(1101―50―)が成宝(1159―1227)から受法する事はあり得ません。それでは正しい法流血脈は如何と云えば、政祝の『諸流潅頂秘蔵鈔』の「安祥寺流内。唐橋親厳僧正方」に、
範俊 厳覚 宗意 淳観〔寛か〕 増仁 仁禅 尊念 親厳
と記されていて(『真言宗全書』27 p.348上)、こちらの方は信用できそうです。即ち淳寛は流祖の宗意から直接付法しています。東寺長者・法務・大僧正として著名な親厳は、随心院第二世の顕厳から法流・門跡共に相承して同院第三世と成りましたが、単に「親厳方」と云う時は何故か安祥寺流の伝法血脈を指すようです。
さて親厳は尊念から安流の相伝を遂げたのですが、尊念からは静誉方も受けていて、実には随心院の法流を考える時に此の静誉方の血脈が非常に重要です。『諸流潅頂秘蔵鈔』の「勧修寺〔小野〕 静誉方」の項目に於いて、
成尊 範俊 静誉 〔随心院〕増俊〔阿闍梨〕 禅然 尊任 道範 (以下略す)
なる血脈が示されていて、密大辞「静誉方(一)」の項も是を踏襲し、私も是を信じて拙著『日本密教人物事典』上巻の「増俊」の条第5項に此の血脈を掲載しました。
ところが『金沢文庫古文書』第九輯に載せるNo. 6512「潅頂口伝」血脈や随心院聖教52箱36号「(随心院流系図)」を参照する時、今の『秘蔵鈔』の血脈は誤りであり実には、
範俊 静誉 増仁 仁禅 尊念 親厳
のように訂正すべきであると思われます。増俊は静誉から付法していないようです。一方、親厳は尊念から安祥寺と静誉方の両流を受けた事が分かるのです。越前阿闍梨と称された静誉(1079―1145―)は、小野の血脈類によれば厳覚からも重受して範俊の法流を究めようとした事が伺えます。又『(醍醐寺)研究紀要』第一号所載の『伝法潅頂師資相承血脈』の範俊付法の条では「静誉」に「光明山」なる注記があって、中川(なかのかわ)実範上人終焉の地とされる光明山寺(京都府南部/廃絶)を活動の場としていた事が知られます。
さて親厳の師である尊念は上の「(随心院流系図)」によれば「近江僧都」と称し、亦増俊の付法資である顕厳の潅頂弟子と成っていますから、親厳にとっては師であると共に同門(法兄)でもありました。此の「(随心院流系図)」は特に親厳以後の付法次第が大変詳しく記されていますが、親厳の相承分としては静誉方と増俊の法流を挙げるのみで安祥寺流の記載はありません。
猶、「(随心院流系図)」は『小野随心院所蔵の密教文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその探求』の米田真理子「随心院蔵「随心院流系図」」に影印紹介されています。同「系図」の本奥書に、
 右当流血脈は旧記髣髴にして摩尼と燕石とを分たずと雖も、更に今案加減に非ず而已。
 至徳元年(1384)臘月(十二月)九日
と記されています(一部、文字等を改変しています)。
又、本稿に於いては煩雑を避けて随心院二世顕厳の事績に付いて言及しませんでした。顕厳の伝歴に付いては誤伝もあり、一般にほとんど知られる事が無いので、後日記事にしようと思っています。

(平成26年7月17日)