ニッポン放送「報道部畑中デスクの独り言」はジュリーのライブに行ってきたというもの。
関西ではニッポン放送は夜なかでないと電波が入りません。なので私は畑中デスクを知らなっかったのですが、ジュリーのファンだったとJ友さんから教えて頂きました。J友さんより、久しぶりのジュリーメモリーズです。
J友さん⇒『思いだしましたが、90年代頃?に畑中さんの沢田研二特集の10分程度の番組がありました。テープに録ったりしていましたが、今はもう有りません。畑中さんが今もジュリーファンでいてくれて嬉しい👏 』
J友さんより⇒『ナベプロ時代のジュリーはラジオに出まくっていました。』
『ニッポン放送のてっちゃん(いまにてつおさん)
文化放送のみのもんたさん(亡くなりましたね)
TBSの大沢ゆうりさん達は午後一時からの帯番組で、いつもジュリーの新曲が出る度にゲストに出て、持ち上げてくれて、ジュリーもよくしゃべっていました!あの頃はラジオ局をはしごしていましたね。
特に夜ヒットで新曲を歌う日は、昼にニッポン放送に出るのが定番でした😄🎶 』
またラジオ番組でジュリーの生の声が聴きたいです。
コメ欄でいただいたので、やっぱり今日はこれが聴きたい!久し振りに。
父の日ではないけれど。
85年7月。渡辺プロから独立して、「渡り鳥はぐれ鳥」から1年のブランクを経てテレビ復帰した沢田研二の舞台はホームグラウンドと夜のヒットスタジオでした。「遥かに遠い夢」と佐野元春がその歌詞に感動した「灰とダイヤモンド」を歌唱。ジュリーの後を受けて最後に歌ったのは当時の音楽界のトップに君臨していた安全地帯でした。司会の井上潤さんが、「ジュリーねぇ」と声をかけました。歌い始める前の玉置浩二とジュリーが初対面。「実は玉置くんは、タイガースが旭川であったコンサートを小学4年の時に見てそれが音楽を始めるきっかけだった」と。「ジュリーは憧れの人だった」。順さんの仲立ちでジュリーと向かい合った。良い意味で誰にでも素っ気ない玉置さんですが、緊張が見て取れました。「ファンでした」。「頑張って下さい」とジュリーが微笑みながら手を差し出して握手をしました。
凄い場面を見ているなあと震えたのを思い出します。新旧スーパースターの邂逅でした。
11年後にアルバム「愛まで待てない」に玉置さんは曲を提供してくれました。ToyotaクレスタのCMソングで高橋幸宏さんも入れたセッションで「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を歌唱。長い繋がりになりました。
1985年夏。ライブ・エイドでフレディマーキュリーが復活したように、日本では夜ヒットで沢田研二が復活しました。40年前の夏。遥かに遠い夢です。
>ジュリーファン... への返信
コメントを有難うございます。
玉置さんに限らず、ある世代以上の人なら誰もがジュリーを見て聴いて、大きな影響を受けていると思います。
今夜のMステでも、布袋さんがジュリーの勝手にしやがれをあげていました。