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読書感想!(カント/純粋理性批判)

2019-07-07 22:05:02 | 読書
いあー、カント君の著書’純粋理性批判’これを読み進める(ただ、内容は語句の使い方が使えばいいってもんじゃなく、知らず闇雲に使っているのでまあ読みにくいわけだ!)。カント君は、この書物を書くに至り、この2文字、

:経験

これが少ない上で、書いている書物これであるとする。努力の有無を他人の評価に任せるのだ!しているカント君の言い分からすると、カント君は自分と他者この境界線はおろか、区別もつかないこれからのものなのだ。


まあ、ちょっとの図書を読んだ感想とするが、カント君は僕が前の記事で書いているように、友達とお喋りこれがしたい。カント君は、いつしかこの友とお喋りをし、経験値「1」これを稼いだ。ゆえに、これを在処に自分自身の存在や在処につき、このような本を持って持論を述べようと思ったのだろうが、いかんせん経験値これが全く足りないわけだ。カント君は、この経験値不足の自分に余り気が付かず、図書を通じ、我の言いたい事を言うが、当然カント君もドイツ人でありながら聖書は読んでいるはずで、真理と言う言葉を使いながらも、一つ”善”と言う概念、これを取ってみても、カント君にはこの”善”と言う代物、これが’善の概念これを確立する必要がある’としているように、その経験値不足のせいで、カント君は”善”と言う言葉さえ、辞書を引いて言葉の意味を確認しないと分からないような経験不足者なのだ!

いや、普通人間たるもの”善”と言う言葉は、あるだけで分かるものだ。分からないと言うなら、その者はまあカント君がこの世界に生まれ、その存在立場が、一向に理解できずに突っ走るしかないあり方、これを取っているからだ!カント君には、自分と言う存在だけではなく、取り巻いたこの世界、環境、宇宙に至るまで、実は不思議でならない。

言葉で、”善”と言うのがあるが、これは至って人間さんにとっては取り分け、獲得するにいや実は難しくはなく取得できるものだ。何故なら、人間さんにとってその生まれ、立ち位置、立場と言うのは、この世界に’ただいるだけ’こうあって成立出来る立場でもあるからだ。(この意味が分からないようなものは半端者)


いあー、この本の’快の感情の定義’と言う項を見ると、いあー実にこの者は、自分にある最重要かの欲求’快’についてもその’定義’これなしでは解けない問題と言う。
これは、何か?と言えば、当然僕が最初に言うように、この者カント君は経験この2文字が実に異常に足りない青年、これなのだ!(こんなものが現代持て囃されるとは、現代と言う時期はまあ異常に経験不足の輩が気張っているだけのアホな世界であるのは明白だ)

カント君が、この書物を表そうとしたのは、得てして何かのきっかけがあったからだが、いや何だか自分だけが知る何かの特筆事項これを授かったからなのだろう!自分を顧みて、自らの著書に自分の世界を表したのは、己の自己探求(ガリ勉だが、、)により得た、ガリ勉学習生にありがちな、ガリ勉自分と言う存在が、自身気に入ったからだ。いや、それをカント君は哲学者とこう呼び、その自ら掲げ出した哲学者人生を世間にお披露目しようと、ただ一人の自分の有様を見せたのである・・・。


まあ世間にもこう言った輩はいるものだ!必ず勘違いし、自己及び他者を眺めているだけだが、カント君もこれに実に勘違い、自分のこの著書で自らの頭の中を披露する!
僕から言わせると、完全大馬鹿で経験もしていない事項をあたかも知っているかのように錯覚、頭の中あるいはガリ勉でこさえた自分の想像・妄想を’これが世の真実だ!’と言わんばかりにカント君は、この著で表す。


ガリ勉(あるいはガリ仕事)も行くと、自分は大きな宝を見つけた!と錯覚するが如く、我を失うものだ!ガリ勉系の自意識これを持ってさぞ自分は出来た人間、こう錯覚する。


経験と言う言葉を用いれば、カント君は異常に器の小さい経験の少ない人間だ!”善”と言う意識や、’快楽’と言う言葉についてさえ、全くその印を知ることもない身分であるのに、自分は立派な人間とこう錯覚する。


それでは、著名な図書かカント君が表した’純粋理性批判’の感想は、これで!



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