禁制!)北花園さな競馬ブログ

競馬日記です!!難易度高いかも知れません!

全死について考える

2020-04-22 00:16:43 | livelove日記

積もる話しはある。例えばだ。君が代と言う曲があるけれど、あの曲の中身は当然、主体の)

君が代

とあって、最後に

苔のむすまで

と、こう綴る。いや、中身(道中)も、

道中:さざれ石の巌となりて、

とあって、小さな石ころが大きくなって、とうとう大きな岩をなるさま、これを言い当てるけれど、自分の道と言えどさもあらず様、簡単にはことを運ばない。それは、最初に小さな一歩とし歩み出して、小さな草っぱらに足跡を残す、まあその積み重ねによって自分の歩む道これが遠くでき、まあ草原(田んぼ脇、に歩む道が出来上がる。これは実はなんと途方もないような実際で、その歩むことによってできる道が、通り通ることで小さな石っころができ、さらに歩み続けると、それはとうとう大きな岩が出来上がるさまを持つように、歩みと言うは積もるものなのだっ!っと、こうあるわけだ!それは、単なる少しの努力の為せる技ではない。

 

こう考えると、君が代の言う、(とうとう

苔のむすまで

と言う極地は、それは差ながら自らの人生(歩んだ道、っを忍ばす最高傑作の自分に出会うわけだけれど、この出来上がる最高傑作の自分と言う存在に対し、真っ逆さまに全ひっくり返すようなことを運ばせると、自分と言う事態は、そのまま)真っ逆さま、天地が入れ替わるように覆される。要は、自分と言うものが”全死”こうあるわけだ!

 

いやいや、この君が代と言う曲のまあ全部で、

君が代は~

千代にいぃ八千代に

さざれ石の巌となりて

苔のむすまで

と、こうあるので、例えば、

千代に八千代に

と言う、年月を思わせるような部分においても、まあ何ごとはない自分を思わせていることはある。さざれ石の巌となりて、もそうあって、結びに苔がむすまでと言う極限は、まあ僕には分かるけれど、そうはなかなか果てぬ自分と言う存在を思うわけである・・。(かなり高レベルか!? 自分とは、そう言う途方もない存在なわけだ。

 

前に、僕が図書館で(とある一存で)松尾芭蕉の「奥の細道」を借りて読んだときに、まあ名句、

五月雨を集めて早し最上川

と、歌ってこの「奥の細道」の問いと答えを乗せるように、あっているけれど、まあ前にアメバのブログで言ったかもしれないけれど、物事と言うはこの句があるように、僕的にはこうあって、

さな:塵も積もれば山となるのだ!

こう、言い表すことができる。要は、少しずつの積み重ねで(とうとう、大きな自分へと導くのだ、っとする名句(自分)である。これが、他もない自分の在りかだとすると、このまあ全部をひっくり返すような事態に、もしあほうが直面するならば、そのあほうはいや斯く全死の如く砕け散って、果てるわけである・・。(真横にちょっと大きくなった女子(OL、がいてふと合った時に、それは突然起こるものだ!(要は、小さいおんなのこのまあ少しずつの成長にも似ているわけだ。

 

今時代的なことを書くわけだ!こつこつ積んで大きくなる自分がいるとすれば、それをひっくり返す自分と言う大馬鹿を演じると、そのものは大撃破される如く、木っ端微塵に砕け散る!いや、ほどほどどうあるか。

ではまた~!(笑う 全死はおっかないものだ!



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