出家直後、都の周囲の山々で、東山から鞍馬にと庵を結んで過ごしてきた。いずれも満足のいく場所とは言えず、特に、鞍馬では、生活に支障をきたす厳寒に遭い、都の春に思いを遣るという経験をした。
北山には初夏の季節にもいたようで、病にかかり、「死出の山路」に一人でいることを想像する歌を残している。北山で幾年過ごしたかは不明であるが、早い時期に嵯峨に移動している。ここに読む歌は、嵯峨の小倉山の麓に庵を結んだ折の作である。
小倉山の麓近く、庵に住まい、鹿の鳴き声を快く聞くほどに、こころ穏やかな状況になったようである。
<和歌-1>
牡鹿なく 小倉の山の すそ近み
たゝひとりすむ 我が心かな [山436]
出家したとは言え、昔の仲間との交わりを断つわけでもなく、また隠れ住むわけでもない。なお都恋しさが胸の内に沸々として湧きあがり、世を捨てきれずに嘆いている西行である。これではならじ との反省の想いから、改めて初心に帰って、きっぱりと世間との繋がりを断つことにしよう と詠っています。
<和歌-2>
捨し折の心をさらに 改めて
見る世の人に 別れ果てなん [山1418]
和歌と漢詩
ooooooooo
<和歌-1>
[詞書] 小倉の麓に住み侍りけるに鹿の鳴きけるをきゝて
牡鹿なく 小倉の山の すそ近み
ただひとりすむ 我(ワガ)心かな [山家集436]
[註]〇小倉の麓:西行は出家直後、鞍馬や東山あたりに住んだが、その後(25,6歳頃)また嵯峨に移った。今も小倉の麓、二尊院の手前に結庵の跡という; 〇ただひとりすむ:「住む」に心「澄む」を掛けた。
(大意) 小倉の山の麓近くに庵を結んで一人で住んでいると、牡鹿の鳴く声が聞こえてきて、心が洗われて澄んでくる。
<漢詩>
心沈着 心 沈着(シズマ)る [下平声十蒸韻]
真想小倉麓、 真想(シンソウ) 小倉(オグラ)の麓、
結庵唯枕肱。 庵を結び 唯(タダ)に肱(ヒジ)を枕にす。
呦呦聞接近、 呦呦(ヨウヨウ) 接近(マジカ)に聞き、
婉婉覚心澄。 婉婉(エンエン)として 心の澄(ス)むを覚(オボ)ゆ。
[註]〇真想:本来の自己を全うしたいという思い、隠逸への希求; 〇呦呦:鹿の鳴き声; 〇婉婉:ゆったりと落ち着いたさま。
<現代語訳>
心静まる
隠逸への想いを胸にして小倉山の麓に住み、
庵を結んで 独り住み肘を枕に横になる。
ヨウヨウと、牡鹿の鳴き声が間近に聞こえて、
落ち着いて、心が澄んでくるのを覚える。
<簡体字およびピンイン>
心沉着 Xīn chénzhuó
真想小倉麓。 zhēn xiǎng xiǎocāng lù.
結庵唯枕肱、 Jié ān wéi zhěn gōng,
呦呦聞接近、 Yōu yōu wén jiējìn,
婉婉覚心澄。 wǎn wǎn jué xīn chéng.
<和歌-2>
捨し折の心をさらに 改めて
見る世の人に 別れ果てなん [山1418]
[註]〇捨し折:世を捨てた時; 〇さらに 改めて:心をもう一度新たに奮いおこして; 〇みる世:目前の俗世; 〇別れ果てなん:別れきってしまいたい。
(大意)世を捨てて出家した時の心を改めて思い起こし、世の人々とは、はっきりと別れきってしまおう。
<漢詩>
完成遁隱行 遁隱行を完成せん [下平声八庚韻]
我已実行元宿願, 我 已(スデ)に元(モトヨリ)の宿願を実行した、
重新回憶初志誠。 重新(アラタメ)て初めの志誠を回憶(オモイオコ)そう。
須傳夥伴我深意, 須(スベカラ)く夥伴(ナカマ)に我が深意(ムネノウチ)を傳えん,
然後完成遁隱行。 然後(ソコ)で遁隱の行(ミチ)を完成(ナシハタ)そう。
[註]〇重新:改めて; 〇回憶:思い起こす; 〇志诚:まごころ; 〇夥伴:仲間、同僚;〇深意:深い含み、深い意味; 〇遁隱:隠遁する; 〇行:道。
<現代語訳>
隠遁を果たす
私は元々抱いていた出家するという宿願を果たした、
改めて初心の想いを思い起こそう。
仲間たちに我が胸の内を伝えて、
そこで隠遁の道を完遂(カンスイ)しよう。
<簡体字およびピンイン>
完成遁隐行 Wánchéng dùn yǐn xíng
我已实行元宿愿, Wǒ yǐ shíxíng yuán sùyuàn,
重新回忆初志诚。 chóngxīn huíyì chū zhìchéng.
须传伙伴我深意, Xū chuán huǒbàn wǒ shēnyì,
然后完成遁隐行。 ránhòu wánchéng dùn yǐn xíng.
ooooooooooooo
【歌の周辺】
出家と遁世について:
出家とは、仏教関連用語として、一義的には、家を出て家族や氏族との血縁を断ち、仏教教団で受戒して、頭髪を髻で落として修行僧になることである。以後、身は教団組織に属していて、将来、僧衣・僧官の衣を身に纏う道がある。
遁世とは、家を出て家族や氏族との血縁を断つという点では、出家の意に重なるが、何らの教団組織に属することなく、山間での孤独な修行を積むことである。すなわち、教団組織の拘束から脱出して、心を自由な世界に遊ばせるという風雅な趣が感じられる。
西行は、遁世の道を行きつつあるように思われる。<和歌-2>では、一義的な意味での“出家”は果たしたが、ここで立ち止まって、隠遁の世界に進むよう、決意を新たにしたように読んで、漢詩としました。
≪呉竹の節々-12≫ ―世情―
これまでに世の中の大きな流れを”保元の乱” (1150)を経て“平治の乱”(1159)まで見てきました。西行の歌の遍歴の時間軸に比して、はるかに先を行く進行です。ここで立ち止まり、西行が出家(1140)後、都周辺の草庵を転々としていた頃から数年間の西行並びに周りの世の中の動きを整理しておきます。
鳥羽上皇が出家して法皇となる(1141)。法皇の意により、崇徳天皇が譲位し、近衛天皇が3歳で即位するが、この際、崇徳天皇は上皇としての資格なしとして、院政を敷くことができなかった。ここで保元の乱勃発の種が撒かれたことは先に触れた(閑休454~460)。
近衛天皇の母御、女御藤原得子が皇后となり、美福門院と号する。1142年1月19日、美福門院を呪詛したとして、待賢門院に仕える夫婦が流罪となる。何らかの闇を思わせるできごとではある。同2月26日、待賢門院璋子は、仁和寺法金剛院において出家します。院に仕える堀河局および中納言の局も出家する。 3月15日西行は、『台記』の著者・藤原頼長を訪れ、待賢門院結縁の一品教書写を務めたことは、先に触れた(閑休449)。『台記』は、西行の出家年齢を知る貴重な資料であった。
5歳の娘を葉室家の冷泉殿に養女として預ける。一方、妻は高野山麓の天野に出家する。
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