西行は、都周辺を離れる初めての修行の旅に出ました。先達・能因法師の奥州・歌枕の旅に思いを得て、陸奥に向かいます。能因に倣い、春に都を発ち、秋に白河の関に着いた、その折の感慨を詠い、関守の番小屋の柱に書き付けたということです。
西行の心を捉えたのはやはり小屋の廂から漏れた月影でした。遥かな遠国で見る秋の月に、来し方に逢った諸々の想いが重なり、去来したことでしょう。
<和歌-1>
白河の関屋を月の洩る影は
人の心を留むるなりけり [山1126]、新拾遺集九
白河の関を過ぎ、信夫(シノブ)というところまで来た。都を出て逢坂を過ぎるまでは、白河の関に関してさほど思い入ることはなかったが、能因も通って来たというその跡を辿って、ここまで来たのだと思うと、感無量である。自分の心が、能因の心と一つになれた思いがして詠んだ。
<和歌-2>
都出でて逢坂越えし折までは
心かすめし白河の関 [山1127]
和歌と漢詩
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<和歌-1>
[詞書] 陸奥国へ修行して罷(マカ)りけるに、白河の関に留まりて、所柄(トコロガラ)にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折何時なりけんと思い出(イ)でられて、名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書き付けける
白河の関屋を月の洩る影は
人の心を留むるなりけり [山1126]
[註]〇陸奥国:奥州; 〇罷りけるに:下ったときに; 〇白河の関:歌枕。旧関址は福島県白河郡古関むら旗宿。西行が通ったのは旧関。 〇所柄にや:場所柄である; 〇名残り多く:そのまま過ぎ去りがたく; 〇関屋:関守の番小屋; 〇洩る:“関”の縁で「守る」との掛詞; 〇留むる:関に“人を留める”と“人の心を留める”の掛詞。
(大意) 白河の関所の庇を洩れる月の光は関を守っており、その冴えた月の光には心が引き付けられる。
<漢詩>
白河関秋月 白河関の秋月 [上平声十五刪 -平声十三元通韻]
懷往時緣白河関, 往時の緣を懷(オモ)う 白河関(シラカワノセキ),
秋風引誘別乾坤。 秋風 別の乾坤(ケンコン)へ引誘(イザナ)う。
漏房簷光保関卡, 房簷(ヒサシ)に漏(モ)れる光 関卡(セキ)を保(マモ)り,
清徹月華留我魂。 清徹(サエワタ)る月華(ゲッカ) 我が魂を留(トド)む。
[註]〇往時:往時。昔; 〇緣:昔、能因法師が訪れた縁を思っている;〇乾坤:天地、世界;〇房簷:軒先; 〇清徹:澄み切った、冴えわたった; 〇月華:月の光。
<現代語訳>
白河関に見る秋の月
白河関では昔 能因法師が訪ねてきた縁を思う、
秋風が渡ると別世界の感を深くする。
軒先に漏れてくる月光は関を守り、
冴えわたった月の光は私の心に留まる。
<簡体字およびピンイン>
秋季白河关 Qiūjì báihé guān
怀往时缘白河关, Huái wǎngshí yuán báihé guān,
秋风引诱别乾坤。 Qiūfēng yǐnyòu bié qiánkūn.
漏房檐光保关卡, Lòu fángyán guāng bǎo guānqiǎ,
清彻月华留我魂。 Qīngchè yuè huá liú wǒ hún.
<和歌-2>
[詞書] 関に入りて、信夫(シノブ)と申すわたり、あらぬ世のことに覚えて哀れなり。都出でし日数(ヒカズ)思ひつづけられて、「霞とともに」と侍ることの跡、辿(タド)り参(マウ)で来にける心ひとつに思ひ知られて詠みける。
都出でて逢坂越えし折までは
心かすめし白河の関 [山1127]
[註]〇関に入りて:関を越えて奥に入って; 〇信夫:岩代国信夫郡、福島市付近; 〇あらぬ世のことに覚えて:昔のことのように思われて、能因を懐かしんだもの; 〇霞とともに:能因の歌による; 〇心ひとつに:能因の心とひとつに; 〇かすめし:能因の歌の「霞とともに」を踏まえている。
(大意)都を出て逢坂山を越えたころまでは、ただ心をかすめるだけの白河の関であったが、能因の辿った跡を夢中に辿ってきて、今、その関を越えたことである。
<漢詩>
至陸奧地 陸奧の地に至る [下平声十二侵韻]
北白河関紅葉, 白河関を北して 紅葉の林が目に入る,
倣師時処秋正深。 時(トキ)処(トコロ)ともに師に倣(ナラ)い秋正に深まった。
発都至過逢坂嶺, 都を発って逢坂の嶺(トウゲ)を過ぎる至(マデ)は,
只不過是僅留心。 只だ僅(ワズカ)に心に留(トドメ)たに不過是(スギナカッ)たが。
[註]〇師:能因法師。
<現代語訳>
陸奧の地に至る
白河関を過ぎて、紅葉の林が見えるようになった、
春に発ち、秋に来たという能因の行程に従い、秋も正に深まった。
都を発って逢坂の峠を越える頃までは、
さほどに気に留めていなかった白河の関なのだが。
<簡体字およびピンイン>
至陆奥地 Zhì lùào dì
北白河关红叶林, Běi báihé guān hóngyè lín,
仿师时处秋正深。 fǎng shī shí chù qiū zhèng shēn.
发都至过逢坂岭, Fā dū zhì guò féngbǎn lǐng,
只不过是仅留心。 zhǐ bùguò shì jǐn liúxīn.
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【歌の周辺】
西行は、1147年(30歳)と1186年(69歳)の頃に、修行等の為、2度に亘って陸奥に赴いている。初度の旅は、能因の歌枕の旅に倣ったもので、再度の旅は、戦災で焼失した奈良・東大寺大仏殿の再建に必要な“金”の勧進のためであった。まず、初回旅の歌から読みます。
西行が倣った能因の歌というのは下記の歌である。能因38歳 (1025)、春霞の頃 都を発って、奥州の入り口・白河の関に着いた時には秋になっていた、随分長い旅であった と感慨を詠っています。
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関 (『後拾遺集』巻九・羇旅)
西行が長途の陸奥の旅を志すに、能因歌枕の旅の影響が大きかったことは、取り上げた両歌の“詞書”から推して明らかである。なお、この旅程は、後に、芭蕉が踏襲し、俳句で綴った紀行書『奥の細道』が成っているようで、特筆に値しよう。
≪呉竹の節々-13≫ ―世情―
閑話休題-472に至る稿において、保元(1156)・平治(1159)の乱および帝位をめぐる争い等々、世の動きを概観してきました。以後の歴史の流れを追うと、“権力”の中心が都・京都から関東(鎌倉幕府開府1192)へと移っていきます。
西行の陸奥の両旅の時期は、その権力移行過程と重なるように思われる。ここで、奥州の歴史の話題を挟み、西行の旅の歌の理解に役立てつゝ、追々、世の中の動きを見ていきます。
陸奥・胆沢(イザワ)は、蝦夷の辺境地域として位置づけられていたが、征夷大将軍・坂上田村麻呂による胆沢遠征により、阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷連合軍が破れ(804)、胆沢郡が建てられた。これを機に、陸奥地方が律令国家に取り込まれたようである。
田村麻呂により胆沢城が造営され、808(大同3)年、鎮守府が多賀城から移され、以後150年にわたって古代東北経営の拠点として機能した。現在、「胆沢城跡」として国史跡に指定されている。
【井中蛙の雑録】
〇 能因(988~1051?)は、歌枕の土地を訪ねて全国を行脚、歌学書『能因歌枕』の著書がある。中古三十六歌仙および百人一首歌人の一人。能因の上掲の歌には、面白いエピソードがある。能因は、作歌後、暫く公の場から姿を隠し、日光浴して日焼けした後、“修行のため陸奥を旅して来ました”と言って、本歌をお披露目した と。