西行は、保延6年(1140)10月15日出家する。以後、都周辺を転々と移動するが、この年末、まず庵を結んだのは東山であった。新年を迎える準備を考えているのであるが、全く生活環境が異なり、どのような準備をしたらよいのか迷っている様子である。
取り上げた<和歌-1>では、具体的に如何に対処されたかは触れず、皆目不明である。ただ、これまでとは様変わりした準備をされたようではあるが。『西行物語』(桑原博史 全訳注)では、<和歌-1>と並び、次の歌が挙げられている。
参考までに付記します。≪昔思ふ 庭に浮き木を 積みおきて 見しにもあらぬ 年の暮かな≫(大意)昔のことを思い出しながら、庭に薪ならぬ浮き木(修行)を積んでいて、昔とは全く異なる準備をしたことよ [注:薪/浮き木を積む:仏教用語]。<和歌-1>の内容を示しているようです。
<和歌-1>
年暮し その営みは 忘られて
あらぬさまなる いそぎをぞする (『西行上人集』310)
東山は、都に近く、昔の仲間たちが頻りに訪ねてきていた。恐らくは歌会も頻繁に催されていて、出家前とはほとんど変わらぬ生活を送っていたかと思われる。諸々の事柄を振り捨てて出家した身としては、内心割り切れない思いがあったのではないでしょうか。同年冬には鞍馬の奥に庵を結び移りますが、早速、寒冷の山奥で厳しい事態に遭遇します。
<和歌-2>
わりなしや 氷る筧(カケヒ)の 水ゆえに
思い捨ててし 春の待たるる (『山家集』571)
和歌と漢詩
ooooooooo
<和歌-1>
詞書:世を遁れて東山に侍りしころ、年の暮に人々参(マウ)で来て述懐し侍りしに、
年暮し その営みは 忘られて
あらぬさまなる いそぎをぞする (『西行上人集』310)
[註] 〇忘られて:“忘られで”と、“て”は、清音と濁音いずれの読みもあるが、ここでは、清音を採った(注*参照); 〇いそぎ:準備。
(大意) 年暮れて、在俗のころの準備事は忘れられて、以前とはまったく違ったかたちの準備をすることにするよ。
注*:窪田章一郎『西行の研究』。
<漢詩>
準備新年 新年の準備する [下平声一先韻]
亹亹欲年暮, 亹亹(ビビ)として年(トシ)暮(クレ)んと欲(ホッ)するに,
遑遑忘古伝。 遑遑(コウコウ)として昔の伝えは忘れる。
即時臨設法, 即時に設法(タイサク)に臨(ノゾ)む,
迎接穏新年。 穏やかなる新年を迎接(ムカエ)できるように。
[註]〇亹亹:ずんずん時が進むさま; 〇遑遑:忙しく慌ただしいさま; 〇古伝:在俗時にやっていた準備事; 〇設法:対応策を講ずる; 〇迎接:迎える。
<現代語訳>
新年を迎える準備
時は移り、年は暮れようとしているが、
せわしない年末 これまでどのような準備をして来たかは忘れたよ。
直ちに新たな対応策を工夫することにより、
穏やかな新年が迎えられるように準備をする。
<簡体字およびピンイン>
准备新年 Zhǔnbèi xīnnián
亹亹欲年暮, Wěi wěi yù nián mù,
遑遑忘古传。 huánghuáng wàng gǔ chuán.
即时临设法, Jíshí lín shèfǎ,
迎接稳新年。 yíngjiē wěn xīnnián.
<和歌-2>
詞書:世を遁れて鞍馬の奥に侍りけるに、筧(カケヒ)氷りて水参(マウ)でござりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるをきゝてよめる。
わりなしや氷る筧の水ゆえに
思ひ捨ててし 春のまたるゝ [山571]
[註]〇参(マウ)でござりけり:流れてこなかった; 〇かく侍るなり:このままの状態である; 〇わりなしや:いたしかたのないことだ、辛いことだ; 〇出家直後、保延六年冬頃の作か(川田順『西行』) 。
(大意) 致し方のないことだ、筧の水が氷ったことで、思い捨てた筈の俗世の春が待たれるとは。
<漢詩>
变故 变故 [上平声十一真韻]
真豪無辦法, 真(マコト)に辦法(ヤリヨウ)が豪無(カイム)だよ,
水管結冰晨。 水管(カケヒ)に結冰(ケッピョウ)した晨(アシタ)。
欲待融冰季, 融冰(コオリノトケル) 季まで待(マ)つことになる,
曾棄暖氣春。 曾(カ)つて棄てた暖氣(アタタカ)き春まで。
[註] 〇变故:思わぬ出来事; 〇豪無:少しも…ない; 〇辦法:やり方、手段; 〇水管:筧; 〇冰:氷。
<現代語訳>
思わぬ出来事
真に何とも仕様のないことだ、
朝に 筧の水が氷っていた。
氷の融ける時期まで待たねばならない、
曽て棄ててきた 俗世の暖かな春まで。
<簡体字およびピンイン>
变故 Biàngù
真豪无办法, Zhēn háo wú bànfǎ,
水管结冰晨。 shuǐguǎn jié bīng chén.
欲待融冰季, Yù dài róng bīng jì,
曾弃暖气春。 céng qì nuǎnqì chūn.
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【歌の周辺】
これまで読んできたように、出家に至る間にも、義清は個性的な多くの歌を残しています。その才能はさて置き、いかなる“環境”で育ち、花開くに至ったかは、常々、興味の対象として胸の底に蟠っていました。先(閑休-457)に少々触れましたが、改めて“歌人西行誕生”について 整理していきたいと思います。
義清(ノリキヨ、西行)は、出家前、14,5歳の頃、閑院流徳大寺家の祖・左大臣実能(サネヨシ)の許に家人として出仕します。徳大寺家にあっては、実能自身そうであったが、実能の父・公実および兄・実行、並びに子息 (猶子?)・公重(キミシゲ)ともに歌人であり、歌人的雰囲気が強かったであろうし、その影響は計り知れないものがあったと思われます。
先に(閑休450) 紹介した、洛南鳥羽の離宮・仙洞御所における菊の会において、義清に参加を呼び掛け、誘ったのは、実能の子息・公重であった。恐らく公重と義清は同じ年頃であったでしょう。事ほど左様に、実際の作歌活動にあっても、義清は、徳大寺家の一員としての作歌活動に参画する機会がしばしばあったであろうと想像されます。
一方、その頃、義清は、藤原俊成(18歳)と親友の契りを結んでいます。藤原俊成は、義清より4歳年上である。晩年、西行は、自歌合『御裳濯河歌合』および『宮河歌合』を編んでいますが、それぞれ、藤原俊成および定家にそれらの判者をお願いしています。
【井中蛙の雑録】
〇後年、藤原定家が編んだ『百人一首』81番に、後徳大寺左大臣の名で次の歌が撰されている:
ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる
作者・後徳大寺左大臣とは、本名 藤原実定(サネサダ)である(拙著『漢詩で詠む百人一首』参照)。実定は、実能の孫で、俊成の母違いの甥に当たる。歌世界での徳大寺家の活動ぶりが伺い知れます。併せて徳大寺家に身を置くことによる義清の作歌活動の広がりが思われます。
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