ちっちの闘病記として、
書き残しておくべきことも、
もう残りわずかになってきました。
わたしが見たもの。
ひとつも、忘れたくない。
どんなに悲しくても、忘れたくないのです。
どんなに苦しくても、
なにもかも、全て、憶えておきたいのです。
長くなってしまいますが、
もしよろしければ、お付き合いください。
ちっちの、最期。
これが生前最後の写真になりました。
ちっちはもう一晩中、目をつぶることが
ありませんでした。
ただ、時折、信じられないくらい
優しい瞳で、
わたしを見ていました。
あの日、7月6日 8時30分の少し前、
K病院に電話を入れました。
診療時間は9時からでしたが、
もう、先生たちは病院にいるだろう、と思って。。。。
ちっちはもう、一刻の猶予も許されないように見えました。
K先生に往診をお願いすると、
「発作の診察やその他の処置をするにしても、
器材が整っているほうがいいから、
連れてこれるなら連れてきてください」
とのことでした。
ちっちは、
もう、どんな小さな緊張でも、
発作を起こしてしまう状態でした。
お水を飲ませようと、意識の朦朧としたちっちの口元に
お水のお皿を近づけたときでさえ、
そのお水がちょん、と、あごについた
その些細な衝撃でさえも、
発作の要因となってしまいました。
ちっちの発作は、
もともと荒い呼吸がさらに荒くなり、
前足をぐん、とつっぱらせ、上半身を起し、体を小刻み震わせる
というものでした。
足に力が入らないのか、つっぱらせた前足は、
伸びたまま徐々にハの字に広がっていき、
それが限界に達したところで、
ちっちはトスンっと、また布団の上にうつぶせにつぶれてしまいました。
目は黒くなり、
緊張に見開かれていました。
よだれを流して暴れまわる、
というほどの強い発作ではありませんでしたが、
これをもう昨日の夜からずっと繰り返していました。
ちっち、
ちっち、
だいじょうぶだよ、
おねえちゃん、ここにいるよ
だいじょうぶだよ、
おねえちゃん、ここにいるからね
その日それから、何度言うことになったかわからない
その言葉を、
わたしはただただ繰り返し、
ちっちの額を撫でるしかありませんでした。
キャリーバッグにちっちを移そうとした時も、
予想通り、発作は起きました。
わたしは、バッグのふたはあけたままにし、
ちっちの体がつぶれないようにして
(先生に、呼吸をしやすい状態を保って、と言われていたので)
バッグごと膝の上に乗せて車を発進させました。
病院についたのは、8時35分くらいだったと思います。
待合室を素通りして、すぐに診察室に通されました。
K先生はちっちを見て、
まず、貧血がひどいこと。
つぶれた姿勢で横になっているのは、
少しでも呼吸をしやすくしようとしているのだということ。
わたしは昨日の朝までは、シリンジでごはんを
あげていました。
その時は少しも気にならなかったちっちの口臭が、
その日の朝、病院に連れていこうと
抱えあげたとき、急激に強くなったことに気づいていました。
明らかに、内臓が悪くなっている証拠でした。
それから、
抗けいれん薬の説明。
抗けいれん薬は大きくわけて2種類。
麻薬系のものと、脳の働きを弱めて痙攣をおさえる薬。
薬の名称も聞いたのですが、その時はメモをとる
余裕がなく、あとで改めてもう一度聞こう、
と思ったのを憶えています。
あとで、、、、、。
それはもう、意味のないことになってしまいました。
「麻薬系のものは、今の状態で使うと、
そのまま昏睡に陥って、目覚めない可能性がある。
だから、どこまで効果があるかわかりませんが、
脳の働きを弱めて、痙攣をおさえるほうの薬を注射します」
K先生はそう言いました。
K先生には、いざという時、安楽死のことまで
お願いしてありましたが、
先生の口からその言葉が出ることは、
とうとう一度もありませんでした。
その時、今母が越谷の病院に取りにいってくれている
座薬のことが頭をよぎりました。
(※なぜふたつの病院をかけもちしているかは、ここでは
省きます)
越谷の先生にその座薬の説明をされたときも、
この座薬はとてもきつい薬で、使ったらちっちの体は
もたないかもしれない。と言われていました。
おそらく越谷の先生の処方した座薬は、
麻薬系のものだったのだと思います。
。。。。そして、わたしの中に、一抹の不安がよぎりました。
ちっちの今の状態を知っている、二人の先生が
使ったときには覚悟してくださいと、口をそろえて言っている、
強すぎる薬。
その薬を、次に強い発作が起きたとき、
家にいる誰かが、
使わなくてはいけないんだろうか。。。。。
そんなこと、できるだろうか。。。。。
細長い注射器の中には、薄い黄色の液体が入っていました。
それがちっちの後ろ足の根元に注射されました。
それから、点滴にうつりました。
その時、ちっちが、
先生に噛みつこうとしたので、
とても驚きました。
そんな力が残っているとは
思ってもみなかった。
ちっちは、K先生には、というか、
男の先生には、いつも意外と反抗的だった。。。。
わたしには絶対に噛み付かないけど、
だんなさんとは、よく戦ってた。。。。。
力強く、我慢強く、そして優しい子でした。
先生が器用な手つきで
ゴムでちっちの前足をしばりました。
でも、いくら待っても、ちっちの血管は
浮き出てきませんでした。
ひどい貧血な上に、
度重なる治療で、血管が磨耗して細くなって
しまっていたからでした。
ちっちの血管のあるべき場所に細い注射針を刺すと、
一本の絹糸のような赤い血がツーーと
流れ出てくるの見えました。
でも、点滴をするには、さらにその血管に
もう一回り太い針を刺さなければいけないのです。
その針が、ちっちの血管には、もう入らなくなっていました。
「うちにある、一番細い針でも、ちょっと
むずかしいみたいですね、、、、」
両方の前足に、同じように試してから、
先生はそう言いました。
ちっちはもう、点滴も受けられない体に
なってしまっていたのでした。。。。
先生はそれから一度、奥に入って、
なにやらごそごそとやっているようでした。
他に何かできないかと、
何かを探していてくれたのだと思います。
その時、計った体重は、
3・98キロ。
「ちっちちゃん、痩せたー・・・・」
若い女性の動物看護士の方が、呟いたのが聞こえました。
わたしよりずっと若い子で、
いつもちっちに直接、
「ちっちちゃん、元気?」
「ちっちちゃん、もうちょっとがんばろうね」
「ちっちちゃん、えらかったね」
と、声をかけてくれる人でした。
ちっちの治療中、緊張を強いられる場面は
いく度もいく度もありました。
脳腫瘍を疑われたとき、
肺のレントゲン写真に細かな影がうつったとき、、、、、
でも、わたしがこらえきれず病院で涙を流してしまったのは、三度。
一度目は、悪性腫瘍を宣告された時
二度目は、腫瘍の再発を宣告された時
そして、三度目は、ちっちが亡くなった時。
すべてK病院でした。
病院には、お母さんと一緒だったり、
だんなさんと一緒だったりすることがほとんどだったのに、
そういう宣告をされる時、そこにいるのは、
なぜかいつもわたし一人でした。
それは本当に不思議なめぐり合わせ、としか
いいようのないものでした。
その動物看護士の方は、
そういう時、いつもそこに居合わせていました。
表情を見るような余裕はなかったけれど、
わたしよりずっと若いその女の子が、
泣き出すわたしの横で、体を一歩ひいて、
ただ静かにわたしが落ち着くのを
待っていてくれるのをいつも感じていました。
そして先生が戻ってきた時、
これまでにない大きな発作が起きたのです。
※コメントのお返事が遅くなっています。
少しずつ、返信しています。
お手数ですが、遡ってみていただけると、幸いです。