ちょっと前に、NHKでこんな番組が放送されていました。
『英雄たちの選択SP 決戦!西南戦争 ラストサムライ 西郷隆盛の真実』
正直、この手の番組にはあまり期待しないのですが、テーマがテーマだけに一応観てみました。そして案の定、「いまだにこんな仕事してるのか…」と嘆息。それどころか、次第に怒りにも似た感情が沸いてきて押さえられなくなり、おもむろにこの記事を書きはじめた次第です。
とにかく全編にわたって誇張・歪曲・誤解に満ちた内容でしたが、筆者が特に気になったのは、戦争勃発時における政府の初動措置のくだりです。
そこで本稿では、特に当該パートについて、少し詳しく解説してみたいと思います。おつきあいいただければ幸いです。
1 番組での説明
番組においては、西南戦争勃発時の政府・陸軍の初動措置について、再現ドラマを交えながら、次のように説明していました。
「戦いは、薩摩軍の目論見どおりには進みませんでした。実は山県は薩摩軍の動きを読み、援軍を派遣していたのです。」
(再現ドラマ)山県有朋「即刻熊本に援軍じゃ!東京大阪の鎮台に出兵を命じよ!」
「戦闘が始まった2月22日に、既に東京からの援軍が熊本城に到着していました。」
「なぜ山県は先手を打つことができたのか。その秘密は、当時の先端技術だった電信にありました。」
「明治2年に、東京横浜間で開通したのを始まりに、全国に電信網を張り巡らせ、九州熊本の情報を即座に入手できる体制を築きました。」
「電信を使えば、熊本から東京までわずか1時間足らず。政府軍は、薩摩軍の動きをリアルタイムで掴むことができたのです。」
「東京から熊本城に向かった援軍の動きを、記録から再現します。」
「西郷が兵を挙げる4日前。2月10日午後1時、部隊は現在の千代田区を出発。新橋横浜間を汽車で移動します。所要時間はわずか53分。午後3時45分に横浜に到着します。ここからは海路です。2月14日、西郷たちが挙兵したときには、既に瀬戸内海の広島沖にいました。」
「船は17日午後4時、長崎に到着。そして20日正午過ぎ、熊本城に入城します。このころ薩摩軍は、いまだ熊本城から10キロ離れた位置にありました。」
「電信と輸送手段を駆使し、援軍を素早く送り込んだ政府軍。熊本城は当初の2500人に援軍900人が加わり、総勢3400人で薩摩軍を迎え撃つことになったのです。」
……このパートにおける説明の要旨は、おおむね次の2点に集約できます。
①山県は、電信により薩軍の動向をリアルタイムで正確に把握していた
②山県は、自らの判断で速やかに東京から熊本鎮台へ援軍を送った
結論から先に言うと、これらはいずれも誤りです。すなわち、①山県を始めとする政府・陸軍は、薩軍の情報を必ずしもリアルタイムで正確に把握できたわけではありませんし、②山県の戦略判断によって東京から熊本鎮台へ援軍が送られた事実もありません。
「政府・陸軍は、優れたリソースを駆使して周到に対応した」という、制作サイド側が勝手に作ったシナリオ(=フィクション)に合わせる形で、事実が捻じ曲げられているのです。
以下、典拠を示しつつ、重要な箇所は引用し、なるべく分かりやすく解説したいと思います。
各典拠の情報については、本稿をご覧になっている方が直接参照いただけるよう、なるべくオンライン公開のデジタル資料としました(オンライン化されていないものについては、やむを得ず文献名のみとしております)。また、引用箇所が文語である場合は、原文の文意を極力損なわないよう留意した上で平易な現代語に改めておりますので、あらかじめご承知置きください。
2 実相解明
(1)山県の戦略に対する誤解
そもそもこの番組の制作サイドは、山県有朋の戦略を誤解しています。
番組にあったように、山県が九州に即刻援軍を送る判断をしたならば、それは「鹿児島暴徒の即時征討と、九州への速やかな兵力集中」という戦略に基づいていたものと考えなければなりません。そのため、まずはいわば総論として、山県自身が起案し2月12日に勅裁を受けた戦略書にどのような戦略が記されていたかについて、あらかじめ確認しておきたいと思います。
実はこの戦略書、誤った解釈がなされることが従前から少なからずありました。その最たる例が『新編西南戦史』(陸上自衛隊北熊本修親会編、1977年)で、同書は戦略書について、
全力をもって海陸並進し直路鹿児島を衝き薩軍の根拠地を一挙に全滅させるか、又は敵を四国、中国若くは両肥に邀えて以て薩軍を撃滅するかの方針を決定
と解説しているのです(※1)。確かに、この解説を鵜呑みにすれば、山県が九州へ速やかに援軍を派遣したという話もうなずけるかもしれません。
しかし、『新編』は大きな誤読をしています。なぜなら戦略書において山県は、上記の鹿児島一挙突入策に触れた直後、「然れども」と続け、全く逆の策を主張しているからです。
実際に戦略書を読んでみれば、『新編』の誤りは明白です。かなりの長文ですが、『新編』のような誤読が生じないよう、あえて全文を掲載したいと思います。(なお、下線は筆者(佐倉)によるものです。原文はこちらを御確認ください⇒『征西戦記稿』(陸軍参謀本部編))
鹿児島の事情は甚だ切迫しており、いかなる状況・挙動が生じるかは推測しがたい。このことは実に重大である。鹿児島がひとたび決起すれば、これに応じる勢力は、肥前(長崎)・肥後(熊本)・久留米・柳川、南海では阿波・土佐、山陽・山陰では因備、東海・東山・北陸では彦根・桑名・静岡・松代・大垣・高田・金沢、及び酒田・津軽・会津・米沢である。また、関八州の館林・佐倉その他の旧小藩の向背も一つとして定まっていない。ゆえに、敵の望むところを奪うという趣旨に基づき、次のとおり戦略の概要を述べる。
鹿児島が決起するに当たり、彼の策略がどのようになるかは計り知れないが、要すれば次の三策のいずれかに過ぎない。第一は、汽船に乗り東京または大阪を衝くこと。第二は、長崎と熊本鎮台を襲撃して全九州を制覇し、そののち本州へ進出すること。第三は鹿児島に割拠して全国の勢力の動向をうかがい、各地の人心を扇動したのち、時機を見て本州へ進出すること。おそらくこの三策以外を選ぶことはないと洞察する。よって、敵がどの策をとろうとも、わが方としては他を顧みず力を一つにし、海陸軍を並進させて鹿児島湾に突入、攻撃をかけて一挙に殲滅を期するのが先決である。また、さらに四国・中国・熊本・長崎等に向かって不平勢力を撃破することも、決して困難ではない。
しかしながら、鹿児島がひとたび決起してしまったならば、全国の治安は一気に崩壊し、動揺は先に挙げた旧藩にとどまらず、実に天下の大乱となることが予想される。このとき、影を追い、音に反応するかのように東奔西走するようなことがあれば、知らず知らずのうちに将兵は疲弊し、交通路は遮断され、わが勢力は削がれ、想像もできない損害を生ずるであろう。ゆえに、兵員の配置・分合・攻撃・防御の目的をあらかじめ定めておかなければならない。
前述の形勢に基づいて考えれば、わが方の戦略は、指揮する根拠地を大阪と決定し、敵の挙動を洞察して臨機応変に対応し、陸海軍の進退を神速自在とすることにある。陸軍は、各鎮台の司令官が通常予定している警戒防御の方法に基づき、要衝の地には分遣隊を出して交通の線を遮断されないよう注意し、突如有事が発生した場合は臨機応変に処置をなすべきである。遠隔地に分派されている兵営では、あらかじめ指令を徹底し、交通線を遮断されても独立自在の働きができるようにすべきである。要するにこの戦略は、専兵をもって分兵を撃破するに過ぎない。ゆえに、鎮台及び各分営の地を襲撃されても、安寧を維持するという目的に基づいて防御及び攻撃の心づもりを持ち、いかなる変動が起きても尻込みせず直ちに撃破すべきである。そして、賊軍に一撃を加え討伐する場合、数十里にわたって安易に遠方へ進撃するようなことは、前述の目的に反するため、必ず深く警戒すべきである。
このような形勢に際しては、電報・郵便はことごとく不通となるため、汽船を駆使して通信線を確保し、どの方面でも臨機応変に指令を受けるべきである。また、陸路による要港の交通線の確保もあらかじめ留意すべきである。
以上述べたところは戦略の大綱を挙げたに過ぎないが、大要の目的もこのとおりである。兵員の配置・分合は鹿児島決起の日時に合わせて定めることとする。謹んで上奏する。
……つまり、山県の戦略のポイントは、「全国にまんべんなく兵を分散させて警戒を強化し、大阪を策源地として臨機応変に対応する」というものでした。そして山県は、「特定地域への戦力集中」のごとき手段についても戦略書の中ではっきり言及し、明確に否定しているのです。
山県がこの戦略を踏まえて対応していたことについては、傍証もあります。すなわち、鹿児島暴徒の動向を恐れた岩倉具視(右大臣・当時は東京で留守政務担当)が15日、
いよいよもって、安危を左右するのは熊本鎮台である。至急大兵力を送り込まれたい。(※2)
と熊本への兵員増派を要請したのに対し、山県は、
熊本へは別に大兵力を回さない。(※3)
と、にべもなく断っているのです。
岩倉はこの回答に納得がいかなかったようで、その後も三条太政大臣に告げ口するなどヒステリックに騒ぎ立てていますが、山県がこれに対応した形跡は確認できません。おそらく「外野がうるさいなあ…」とばかりに黙殺したのでしょう。その後の17日、大久保から、
熊本のほうへ小倉連隊の兵を送り込むことについて、谷少将(熊本鎮台司令長官)から山県陸軍卿に連絡があった。気遣いは無用である。(※4)
との電報があったことをもって、岩倉はようやく納得することとなります。
(なお、この電報において、小倉からの援兵の連絡が「谷から山県に」となっている点もポイントです。このあたりは後述するので、覚えておいていただければ幸いです。)
なお山県は、戦略書を上呈した12日、東京鎮台・大阪鎮台・近衛の一部兵員に出動を下命し、京阪へ前進待機させておりますが、これはあくまで浮動する情勢への備えとして臨機応変の態勢を確立するため、取り急ぎ手元に駒を準備したに過ぎません。事実、この兵員が熊本城への援軍として派遣されることはなく、19日の征討発令後に初めて征討旅団に編成され、出動することとなったのです(※5)。番組の制作サイドは、この兵員と後述する警視隊とを混同してしまっているように思えます。
以上のとおり、山県は自ら策定した戦略に基づき、熊本への戦力集中を忌避していたのであって、まかり間違っても「即刻熊本に援軍じゃ!」などと口走るはずがなかったのです。
(2)当時の電信網と情報錯綜
番組では、電信技術によって、政府が鹿児島の正確な情報をリアルタイムで掴んでいたかのように説明していました。
しかし、番組でもしっかり取りあげていたとおり、当時の政府の電信網の南端はあくまでも熊本であって、鹿児島ではありません。熊本市街から鹿児島市街までには200km弱の距離があり、その間には険しい山々もそびえています。
そのため、電報情報には少なからずタイムラグがありました。例えば私学校党による火薬庫襲撃の第一報は、2月1日に鹿児島の海軍省職員が熊本電信局あてに郵便を送り、これが3日に同局に到達して初めて電報として発信されています(※6)。これを見ても、鹿児島の情報を「リアルタイムで」伝達することは不可能だったと考えるべきでしょう。
しかも、各種の電報(※7)に、
鹿児島県境に、兵器を携えた者が立ち、旅行者の通行を差し止めているとの風聞あり。(2月9日付熊本県発長崎県宛電報)
鹿児島は、交通の要路を封鎖し他人を入れず、郵便通じず。(2月11日付熊本県発福岡県宛電報)
などとあるように、鹿児島は騒擾勃発以降、私学校党によって事実上の戒厳令下におかれており、中央に届く情報はごく限られていました。政府は正確な情報を掴むのに難渋し、例えば19日の征討発令以降まで、そもそも西郷隆盛が本件に直接関与しているか否かすら断定できていませんでした(詳細はこちらの記事を参照)。
当然ながら、山県もその例外ではありません。例えば、12日の時点で私学校党は既に決起方針を確定し、出師準備を着々と進めていたにもかかわらず、同日付の山県の戦略書(前掲)は、まだ鹿児島が決起していないことを前提とした書きぶりとなっています。そのうえ、山県が同書で3パターン予測した私学校党の戦略はいずれも外れ、西郷らは結果として山県の予想しなかった「全軍陸路上京」策を採用しているのです。この読み違えについては山県自身も後年はっきり非を認め、
もし彼をして、三策の一に出でしめたならば、封建三百年の余習、未だ全く洗浄せざる時であったから、全国士族の向背未だ定かならず、蜂起して之に応ずるものは、独り福岡、大分、山口のみでは無かったであろう。しかして予の予言が当らなかったのは、実に国家の幸であった。(※8)
と述懐しています。
以上のとおり、政府が電信を有効に活用したのは事実ですが、それをもってしても、鹿児島の情報を迅速かつ正確に掴むことは困難だったのです。
(3)援軍派遣の経緯
番組では、山県の判断によって東京から熊本鎮台へ援兵900人が送られ、当初2500人だった兵力が3400人に増えたかのように説明されていました。
熊本鎮台が開戦直前に援兵を得ていた事実は、確かにあります。しかしそれは、少なくとも番組のように「山県の指示によって送られた援兵」ではありません。(1)で記したとおり、山県は熊本への兵力集中に否定的で、そのスタンスは開戦直前まで変わっていないからです。
この援兵の経緯は、西南戦争の体系的資料である『西南記伝』における、次の記載が簡潔明瞭で分かりやすいです。
守城の兵力は、(中略)はじめ2,584名に過ぎなかったが、19日、小倉歩兵第十四連隊の第一大隊左半大隊・将校兵卒合わせて331名が来援し、翌20日、少警視・綿貫吉直が統率する警視隊600名が城に入ったため、その兵力は3,515名に達した。(※9)
すなわち、①歩兵第十四連隊第一大隊左半大隊、②綿貫警視指揮の警視隊(熊本籠城警視隊)が、この援兵の正体ということになります。
①歩兵第十四連隊第一大隊左半大隊
熊本鎮台にはもともと、歩兵第十三連隊と歩兵第十四連隊の2つの連隊が存在しました。このうち、歩十三は熊本城内に屯在していましたが、歩十四は遠隔地の小倉(現在の北九州市)を中心とした福岡方面に、分営という形で屯在していました。
鹿児島情勢切迫の報を受け、14日、熊本鎮台司令長官の谷干城少将は、小倉の歩十四を籠城兵力に加えることを決定し、山県に通知します(※10)。しかし、輸送インフラが貧弱だった(当時、九州にはまだ鉄道もなかった)こともあって各隊の到着は遅れ、結局、薩軍の攻撃前に入城を果たせたのは同連隊第一大隊左半大隊300人余のみ(この隊は14日朝、久留米方面へ分遣の指示を受け小倉を先発していました。それが途中で転進を命じられ、熊本城に向かった形です)でした(※11)。入城が間に合わなかった残余の兵員(連隊長の乃木希典少佐も含む)は、その後城外にて薩軍と遭遇戦を演じることとなります。
いずれにせよ、戦後参謀本部で編纂された陸軍の公式戦記『征西戦記稿』に、
初め「賊兵が鹿児島県境を出て熊本に襲来しようとしている」との報を受けると、谷少将は小倉営所の第十四連隊の隊長・乃木少佐に命じ、小倉の兵員をことごとく熊本に集合させた。(※12)
とあるように、歩十四の入城は熊本鎮台側の判断であって、山県の指示によるものではありませんでした。
ただし、山県は直ちにこれを追認しています。おそらく、鎮台司令長官の判断に基づく臨機応変の兵員やりくりについては、自身の戦略から逸脱しないと判断したのでしょう。ちなみに山県は、このあと兵員不在となった小倉へすかさず馬関(山口)展開中の兵員2コ中隊を派遣して穴埋めを行っている(※13)ため、「警備兵力を各地に分散させる」という所定戦略を引き続き維持・徹底していたことが分かります。
以上のとおり、小倉連隊は山県の指示による援兵でないどころか、そもそも東京から来たわけでもなかったにもかかわらず、番組はこれをさりげなく「援軍900人」に溶け込ませ、あたかも東京から送られたかのように偽装しているのです。たいへん欺瞞的で不誠実だと思います。
②綿貫警視指揮の警視隊(熊本籠城警視隊)
番組で扱われていた、東京から海路で派遣された援軍部隊に該当するのが、もう一方の警視隊です。
同隊の派遣経過については、『征西戦記稿』でシンプルにまとめられています。
鹿児島で暴挙が発生すると、綿貫少警視は2月10日、警部・巡査合わせて600余名を率いて九州地方派遣の命令を受けた。既に大久保内務卿の指揮により重信権少警視は福岡に、神足大警部は熊本に、川畑大警部は佐賀に向かい、綿貫少警視は長崎に赴いて各地の警視隊の指揮をとることとなり、11日、横浜を発して17日に長崎に入り、神足大警部の一行は即日汽船に乗って肥後に向った。綿貫の一行が18日、まさに長崎港の茂木口の警備につこうとしていたとき、大久保内務卿の命令があり、急遽熊本に向かうこととなった。そこで汽船が来るのを待ち、19日に長崎を発し、夜に肥後盗島に到着して直ちに上陸し、この日午後12時、さきに熊本へ向かっていた神足大警部の部下(風波の影響で百貫港への上陸が遅延していたもの)とともにことごとく入城した。(※14)
つまり、10日、内務卿・大久保利通の指揮により九州各地に警視隊が派遣され、このうちの熊本派遣警視隊(神足警部指揮)と長崎派遣警視隊(綿貫警視指揮)が、九州着後間もなく大久保の緊急指令により熊本入城を命じられた……というわけです。
また、警視旅団の公式戦記『西南戦闘日注』は、綿貫隊の転進の経緯について、次のとおり詳述しています。
長崎警備の警部巡査はみな銃をとり、まさに茂木口を守ろうとした。するとたまたま大久保内務卿から「事態は急を要する。ことごとく熊本に入れ」と命令があった。そこで茂木派遣を中止し、速やかに熊本に入ろうとし、大久保からの命令を長崎県庁の北島県令に伝え、同地に来る船の周旋を乞うた。(※15)
一見して明らかなとおり、この一連の経緯に山県が関与していた形跡はありません。そもそも警視局は内務省管下であり、指揮命令系統が全く異なるのです。
このように、警視隊はもともと治安維持業務のため九州に派遣されたのであって、それが熊本鎮台への援兵となり得たのは、大久保ら内務省サイドによる臨機の判断あってこそでした。
番組中の再現ドラマにおいて、増援部隊の面々はしっかり警視局の制服をまとっていたことから、番組の制作サイドは彼らが陸軍の人員でない(=陸軍卿たる山県の指揮命令系統にない)ことを知っていたはずです。それなのにこの体たらく……もはや単なる誤解や誇張の域を超え、「面白いストーリーが作れれば事実を歪曲してもいい」といった一種の悪意を感じます。
ちなみに、番組で再現された警視隊の派遣行程は、警視抜刀隊を顕彰するための記録誌『彰功帖』に記載の「出征紀行」を参照しているものと思われますが、これもまた作為的な欺瞞に満ちています。すなわち、番組では警視隊が東京から横浜まで汽車で移動後、間髪を入れず横浜港を出港したかのように説明していますが、実際の警視隊は船が来るのを待って横浜港で一泊しているのです(※16)。(制作サイドはこの事実を知っていたようで、CGの表示が部隊の出港に合わせてさりげなく「10日」から「11日」に変わります。実にセコくて笑えます。)『彰功帖』にない「新橋横浜間は53分」という情報を全く別のところから引っ張ってきて、充実した輸送インフラによる優れたスピードをことさら強調しておきながら、宿泊によるタイムロスはスルー……というのは、あまりに不誠実なつくりといわざるを得ないでしょう。
(4)まとめ
以上、思いのほか長くなってしまいましたが、番組の虚構について解説しました。いかがだったでしょうか?
史料を読んで浮かび上がってくるのは、不確かな情報や限られたリソースといったマイナス要素に振り回されて苦しみながらも、なんとか臨機応変かつ柔軟な対応に努めた山県らの姿です。その事実を不当に歪曲し、ステレオタイプなエンタメ史観を安直に垂れ流すテレビ局の姿勢には、大いに疑問を感じざるを得ません。
なお、念のために付言しますが、この記事に「山県有朋を貶めたい」などという意図は毛頭ありません。そもそも筆者は、西南戦争における山県の戦争指導を総じて肯定的に評価しております。
筆者はただ、史料にもとづく実証的な事実を紹介するとともに、番組からひしひしと伝わってくる、
①「政府・陸軍は、優れたリソースを駆使して周到に対応した」という固定観念にもとづいて、史実を誇張・歪曲する不誠実さ
②政府・陸軍がとった各種措置について、「当時の陸軍の代表者だった」という一点のみをもって全て山県に結びつけてしまう安直さ
に疑義を呈したかっただけで、それ以外に他意はありません。この点は、誤解のないようにしていただければ幸いです。
西南戦争は近年実証的な研究が進んでいますが、一方でいまだにこのようなエンタメ史観におかされがちです。
史実の歪曲によって作られた「面白いストーリー」ではなく、丁寧に解き明かされた「実相」がより多くの人に知られるようになることを願います。
(ついでに、最近描いた絵を……)
【注】
※1 陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』1997年 79ページ
※2 国立公文書館デジタルアーカイブ『公文録・明治十年・第百五十三巻・鹿児島征討電報録完』 10コマ
※3 国立公文書館デジタルアーカイブ『公文録・明治十年・第百六十一巻・鹿児島征討電報録一』 18コマ
※4 国立公文書館デジタルアーカイブ『公文録・明治十年・第百六十一巻・鹿児島征討電報録一』 29コマ
※5 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 27コマ
※6 国立国会図書館デジタルコレクション『西南征討志』 7コマ
※7 田中信義『カナモジでつづる西南戦争』1989年 8-9ページ
※8 国立国会図書館デジタルコレクション『公爵山県有朋伝 中巻』 294コマ
※9 国立国会図書館デジタルコレクション『西南記伝 中巻 1』 237コマ
※10 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 24コマ
※11 国立国会図書館デジタルコレクション『西南記伝 中巻 1』 212コマ
※12 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 30コマ
※13 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 24コマ
※14 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 241コマ
※15 国立国会図書館デジタルコレクション『西南戦闘日注』 247コマ
※16 国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベース 『彰功帖』 107コマ
『英雄たちの選択SP 決戦!西南戦争 ラストサムライ 西郷隆盛の真実』
正直、この手の番組にはあまり期待しないのですが、テーマがテーマだけに一応観てみました。そして案の定、「いまだにこんな仕事してるのか…」と嘆息。それどころか、次第に怒りにも似た感情が沸いてきて押さえられなくなり、おもむろにこの記事を書きはじめた次第です。
とにかく全編にわたって誇張・歪曲・誤解に満ちた内容でしたが、筆者が特に気になったのは、戦争勃発時における政府の初動措置のくだりです。
そこで本稿では、特に当該パートについて、少し詳しく解説してみたいと思います。おつきあいいただければ幸いです。
1 番組での説明
番組においては、西南戦争勃発時の政府・陸軍の初動措置について、再現ドラマを交えながら、次のように説明していました。
「戦いは、薩摩軍の目論見どおりには進みませんでした。実は山県は薩摩軍の動きを読み、援軍を派遣していたのです。」
(再現ドラマ)山県有朋「即刻熊本に援軍じゃ!東京大阪の鎮台に出兵を命じよ!」
「戦闘が始まった2月22日に、既に東京からの援軍が熊本城に到着していました。」
「なぜ山県は先手を打つことができたのか。その秘密は、当時の先端技術だった電信にありました。」
「明治2年に、東京横浜間で開通したのを始まりに、全国に電信網を張り巡らせ、九州熊本の情報を即座に入手できる体制を築きました。」
「電信を使えば、熊本から東京までわずか1時間足らず。政府軍は、薩摩軍の動きをリアルタイムで掴むことができたのです。」
「東京から熊本城に向かった援軍の動きを、記録から再現します。」
「西郷が兵を挙げる4日前。2月10日午後1時、部隊は現在の千代田区を出発。新橋横浜間を汽車で移動します。所要時間はわずか53分。午後3時45分に横浜に到着します。ここからは海路です。2月14日、西郷たちが挙兵したときには、既に瀬戸内海の広島沖にいました。」
「船は17日午後4時、長崎に到着。そして20日正午過ぎ、熊本城に入城します。このころ薩摩軍は、いまだ熊本城から10キロ離れた位置にありました。」
「電信と輸送手段を駆使し、援軍を素早く送り込んだ政府軍。熊本城は当初の2500人に援軍900人が加わり、総勢3400人で薩摩軍を迎え撃つことになったのです。」
……このパートにおける説明の要旨は、おおむね次の2点に集約できます。
①山県は、電信により薩軍の動向をリアルタイムで正確に把握していた
②山県は、自らの判断で速やかに東京から熊本鎮台へ援軍を送った
結論から先に言うと、これらはいずれも誤りです。すなわち、①山県を始めとする政府・陸軍は、薩軍の情報を必ずしもリアルタイムで正確に把握できたわけではありませんし、②山県の戦略判断によって東京から熊本鎮台へ援軍が送られた事実もありません。
「政府・陸軍は、優れたリソースを駆使して周到に対応した」という、制作サイド側が勝手に作ったシナリオ(=フィクション)に合わせる形で、事実が捻じ曲げられているのです。
以下、典拠を示しつつ、重要な箇所は引用し、なるべく分かりやすく解説したいと思います。
各典拠の情報については、本稿をご覧になっている方が直接参照いただけるよう、なるべくオンライン公開のデジタル資料としました(オンライン化されていないものについては、やむを得ず文献名のみとしております)。また、引用箇所が文語である場合は、原文の文意を極力損なわないよう留意した上で平易な現代語に改めておりますので、あらかじめご承知置きください。
2 実相解明
(1)山県の戦略に対する誤解
そもそもこの番組の制作サイドは、山県有朋の戦略を誤解しています。
番組にあったように、山県が九州に即刻援軍を送る判断をしたならば、それは「鹿児島暴徒の即時征討と、九州への速やかな兵力集中」という戦略に基づいていたものと考えなければなりません。そのため、まずはいわば総論として、山県自身が起案し2月12日に勅裁を受けた戦略書にどのような戦略が記されていたかについて、あらかじめ確認しておきたいと思います。
実はこの戦略書、誤った解釈がなされることが従前から少なからずありました。その最たる例が『新編西南戦史』(陸上自衛隊北熊本修親会編、1977年)で、同書は戦略書について、
全力をもって海陸並進し直路鹿児島を衝き薩軍の根拠地を一挙に全滅させるか、又は敵を四国、中国若くは両肥に邀えて以て薩軍を撃滅するかの方針を決定
と解説しているのです(※1)。確かに、この解説を鵜呑みにすれば、山県が九州へ速やかに援軍を派遣したという話もうなずけるかもしれません。
しかし、『新編』は大きな誤読をしています。なぜなら戦略書において山県は、上記の鹿児島一挙突入策に触れた直後、「然れども」と続け、全く逆の策を主張しているからです。
実際に戦略書を読んでみれば、『新編』の誤りは明白です。かなりの長文ですが、『新編』のような誤読が生じないよう、あえて全文を掲載したいと思います。(なお、下線は筆者(佐倉)によるものです。原文はこちらを御確認ください⇒『征西戦記稿』(陸軍参謀本部編))
鹿児島の事情は甚だ切迫しており、いかなる状況・挙動が生じるかは推測しがたい。このことは実に重大である。鹿児島がひとたび決起すれば、これに応じる勢力は、肥前(長崎)・肥後(熊本)・久留米・柳川、南海では阿波・土佐、山陽・山陰では因備、東海・東山・北陸では彦根・桑名・静岡・松代・大垣・高田・金沢、及び酒田・津軽・会津・米沢である。また、関八州の館林・佐倉その他の旧小藩の向背も一つとして定まっていない。ゆえに、敵の望むところを奪うという趣旨に基づき、次のとおり戦略の概要を述べる。
鹿児島が決起するに当たり、彼の策略がどのようになるかは計り知れないが、要すれば次の三策のいずれかに過ぎない。第一は、汽船に乗り東京または大阪を衝くこと。第二は、長崎と熊本鎮台を襲撃して全九州を制覇し、そののち本州へ進出すること。第三は鹿児島に割拠して全国の勢力の動向をうかがい、各地の人心を扇動したのち、時機を見て本州へ進出すること。おそらくこの三策以外を選ぶことはないと洞察する。よって、敵がどの策をとろうとも、わが方としては他を顧みず力を一つにし、海陸軍を並進させて鹿児島湾に突入、攻撃をかけて一挙に殲滅を期するのが先決である。また、さらに四国・中国・熊本・長崎等に向かって不平勢力を撃破することも、決して困難ではない。
しかしながら、鹿児島がひとたび決起してしまったならば、全国の治安は一気に崩壊し、動揺は先に挙げた旧藩にとどまらず、実に天下の大乱となることが予想される。このとき、影を追い、音に反応するかのように東奔西走するようなことがあれば、知らず知らずのうちに将兵は疲弊し、交通路は遮断され、わが勢力は削がれ、想像もできない損害を生ずるであろう。ゆえに、兵員の配置・分合・攻撃・防御の目的をあらかじめ定めておかなければならない。
前述の形勢に基づいて考えれば、わが方の戦略は、指揮する根拠地を大阪と決定し、敵の挙動を洞察して臨機応変に対応し、陸海軍の進退を神速自在とすることにある。陸軍は、各鎮台の司令官が通常予定している警戒防御の方法に基づき、要衝の地には分遣隊を出して交通の線を遮断されないよう注意し、突如有事が発生した場合は臨機応変に処置をなすべきである。遠隔地に分派されている兵営では、あらかじめ指令を徹底し、交通線を遮断されても独立自在の働きができるようにすべきである。要するにこの戦略は、専兵をもって分兵を撃破するに過ぎない。ゆえに、鎮台及び各分営の地を襲撃されても、安寧を維持するという目的に基づいて防御及び攻撃の心づもりを持ち、いかなる変動が起きても尻込みせず直ちに撃破すべきである。そして、賊軍に一撃を加え討伐する場合、数十里にわたって安易に遠方へ進撃するようなことは、前述の目的に反するため、必ず深く警戒すべきである。
このような形勢に際しては、電報・郵便はことごとく不通となるため、汽船を駆使して通信線を確保し、どの方面でも臨機応変に指令を受けるべきである。また、陸路による要港の交通線の確保もあらかじめ留意すべきである。
以上述べたところは戦略の大綱を挙げたに過ぎないが、大要の目的もこのとおりである。兵員の配置・分合は鹿児島決起の日時に合わせて定めることとする。謹んで上奏する。
……つまり、山県の戦略のポイントは、「全国にまんべんなく兵を分散させて警戒を強化し、大阪を策源地として臨機応変に対応する」というものでした。そして山県は、「特定地域への戦力集中」のごとき手段についても戦略書の中ではっきり言及し、明確に否定しているのです。
山県がこの戦略を踏まえて対応していたことについては、傍証もあります。すなわち、鹿児島暴徒の動向を恐れた岩倉具視(右大臣・当時は東京で留守政務担当)が15日、
いよいよもって、安危を左右するのは熊本鎮台である。至急大兵力を送り込まれたい。(※2)
と熊本への兵員増派を要請したのに対し、山県は、
熊本へは別に大兵力を回さない。(※3)
と、にべもなく断っているのです。
岩倉はこの回答に納得がいかなかったようで、その後も三条太政大臣に告げ口するなどヒステリックに騒ぎ立てていますが、山県がこれに対応した形跡は確認できません。おそらく「外野がうるさいなあ…」とばかりに黙殺したのでしょう。その後の17日、大久保から、
熊本のほうへ小倉連隊の兵を送り込むことについて、谷少将(熊本鎮台司令長官)から山県陸軍卿に連絡があった。気遣いは無用である。(※4)
との電報があったことをもって、岩倉はようやく納得することとなります。
(なお、この電報において、小倉からの援兵の連絡が「谷から山県に」となっている点もポイントです。このあたりは後述するので、覚えておいていただければ幸いです。)
なお山県は、戦略書を上呈した12日、東京鎮台・大阪鎮台・近衛の一部兵員に出動を下命し、京阪へ前進待機させておりますが、これはあくまで浮動する情勢への備えとして臨機応変の態勢を確立するため、取り急ぎ手元に駒を準備したに過ぎません。事実、この兵員が熊本城への援軍として派遣されることはなく、19日の征討発令後に初めて征討旅団に編成され、出動することとなったのです(※5)。番組の制作サイドは、この兵員と後述する警視隊とを混同してしまっているように思えます。
以上のとおり、山県は自ら策定した戦略に基づき、熊本への戦力集中を忌避していたのであって、まかり間違っても「即刻熊本に援軍じゃ!」などと口走るはずがなかったのです。
(2)当時の電信網と情報錯綜
番組では、電信技術によって、政府が鹿児島の正確な情報をリアルタイムで掴んでいたかのように説明していました。
しかし、番組でもしっかり取りあげていたとおり、当時の政府の電信網の南端はあくまでも熊本であって、鹿児島ではありません。熊本市街から鹿児島市街までには200km弱の距離があり、その間には険しい山々もそびえています。
そのため、電報情報には少なからずタイムラグがありました。例えば私学校党による火薬庫襲撃の第一報は、2月1日に鹿児島の海軍省職員が熊本電信局あてに郵便を送り、これが3日に同局に到達して初めて電報として発信されています(※6)。これを見ても、鹿児島の情報を「リアルタイムで」伝達することは不可能だったと考えるべきでしょう。
しかも、各種の電報(※7)に、
鹿児島県境に、兵器を携えた者が立ち、旅行者の通行を差し止めているとの風聞あり。(2月9日付熊本県発長崎県宛電報)
鹿児島は、交通の要路を封鎖し他人を入れず、郵便通じず。(2月11日付熊本県発福岡県宛電報)
などとあるように、鹿児島は騒擾勃発以降、私学校党によって事実上の戒厳令下におかれており、中央に届く情報はごく限られていました。政府は正確な情報を掴むのに難渋し、例えば19日の征討発令以降まで、そもそも西郷隆盛が本件に直接関与しているか否かすら断定できていませんでした(詳細はこちらの記事を参照)。
当然ながら、山県もその例外ではありません。例えば、12日の時点で私学校党は既に決起方針を確定し、出師準備を着々と進めていたにもかかわらず、同日付の山県の戦略書(前掲)は、まだ鹿児島が決起していないことを前提とした書きぶりとなっています。そのうえ、山県が同書で3パターン予測した私学校党の戦略はいずれも外れ、西郷らは結果として山県の予想しなかった「全軍陸路上京」策を採用しているのです。この読み違えについては山県自身も後年はっきり非を認め、
もし彼をして、三策の一に出でしめたならば、封建三百年の余習、未だ全く洗浄せざる時であったから、全国士族の向背未だ定かならず、蜂起して之に応ずるものは、独り福岡、大分、山口のみでは無かったであろう。しかして予の予言が当らなかったのは、実に国家の幸であった。(※8)
と述懐しています。
以上のとおり、政府が電信を有効に活用したのは事実ですが、それをもってしても、鹿児島の情報を迅速かつ正確に掴むことは困難だったのです。
(3)援軍派遣の経緯
番組では、山県の判断によって東京から熊本鎮台へ援兵900人が送られ、当初2500人だった兵力が3400人に増えたかのように説明されていました。
熊本鎮台が開戦直前に援兵を得ていた事実は、確かにあります。しかしそれは、少なくとも番組のように「山県の指示によって送られた援兵」ではありません。(1)で記したとおり、山県は熊本への兵力集中に否定的で、そのスタンスは開戦直前まで変わっていないからです。
この援兵の経緯は、西南戦争の体系的資料である『西南記伝』における、次の記載が簡潔明瞭で分かりやすいです。
守城の兵力は、(中略)はじめ2,584名に過ぎなかったが、19日、小倉歩兵第十四連隊の第一大隊左半大隊・将校兵卒合わせて331名が来援し、翌20日、少警視・綿貫吉直が統率する警視隊600名が城に入ったため、その兵力は3,515名に達した。(※9)
すなわち、①歩兵第十四連隊第一大隊左半大隊、②綿貫警視指揮の警視隊(熊本籠城警視隊)が、この援兵の正体ということになります。
①歩兵第十四連隊第一大隊左半大隊
熊本鎮台にはもともと、歩兵第十三連隊と歩兵第十四連隊の2つの連隊が存在しました。このうち、歩十三は熊本城内に屯在していましたが、歩十四は遠隔地の小倉(現在の北九州市)を中心とした福岡方面に、分営という形で屯在していました。
鹿児島情勢切迫の報を受け、14日、熊本鎮台司令長官の谷干城少将は、小倉の歩十四を籠城兵力に加えることを決定し、山県に通知します(※10)。しかし、輸送インフラが貧弱だった(当時、九州にはまだ鉄道もなかった)こともあって各隊の到着は遅れ、結局、薩軍の攻撃前に入城を果たせたのは同連隊第一大隊左半大隊300人余のみ(この隊は14日朝、久留米方面へ分遣の指示を受け小倉を先発していました。それが途中で転進を命じられ、熊本城に向かった形です)でした(※11)。入城が間に合わなかった残余の兵員(連隊長の乃木希典少佐も含む)は、その後城外にて薩軍と遭遇戦を演じることとなります。
いずれにせよ、戦後参謀本部で編纂された陸軍の公式戦記『征西戦記稿』に、
初め「賊兵が鹿児島県境を出て熊本に襲来しようとしている」との報を受けると、谷少将は小倉営所の第十四連隊の隊長・乃木少佐に命じ、小倉の兵員をことごとく熊本に集合させた。(※12)
とあるように、歩十四の入城は熊本鎮台側の判断であって、山県の指示によるものではありませんでした。
ただし、山県は直ちにこれを追認しています。おそらく、鎮台司令長官の判断に基づく臨機応変の兵員やりくりについては、自身の戦略から逸脱しないと判断したのでしょう。ちなみに山県は、このあと兵員不在となった小倉へすかさず馬関(山口)展開中の兵員2コ中隊を派遣して穴埋めを行っている(※13)ため、「警備兵力を各地に分散させる」という所定戦略を引き続き維持・徹底していたことが分かります。
以上のとおり、小倉連隊は山県の指示による援兵でないどころか、そもそも東京から来たわけでもなかったにもかかわらず、番組はこれをさりげなく「援軍900人」に溶け込ませ、あたかも東京から送られたかのように偽装しているのです。たいへん欺瞞的で不誠実だと思います。
②綿貫警視指揮の警視隊(熊本籠城警視隊)
番組で扱われていた、東京から海路で派遣された援軍部隊に該当するのが、もう一方の警視隊です。
同隊の派遣経過については、『征西戦記稿』でシンプルにまとめられています。
鹿児島で暴挙が発生すると、綿貫少警視は2月10日、警部・巡査合わせて600余名を率いて九州地方派遣の命令を受けた。既に大久保内務卿の指揮により重信権少警視は福岡に、神足大警部は熊本に、川畑大警部は佐賀に向かい、綿貫少警視は長崎に赴いて各地の警視隊の指揮をとることとなり、11日、横浜を発して17日に長崎に入り、神足大警部の一行は即日汽船に乗って肥後に向った。綿貫の一行が18日、まさに長崎港の茂木口の警備につこうとしていたとき、大久保内務卿の命令があり、急遽熊本に向かうこととなった。そこで汽船が来るのを待ち、19日に長崎を発し、夜に肥後盗島に到着して直ちに上陸し、この日午後12時、さきに熊本へ向かっていた神足大警部の部下(風波の影響で百貫港への上陸が遅延していたもの)とともにことごとく入城した。(※14)
つまり、10日、内務卿・大久保利通の指揮により九州各地に警視隊が派遣され、このうちの熊本派遣警視隊(神足警部指揮)と長崎派遣警視隊(綿貫警視指揮)が、九州着後間もなく大久保の緊急指令により熊本入城を命じられた……というわけです。
また、警視旅団の公式戦記『西南戦闘日注』は、綿貫隊の転進の経緯について、次のとおり詳述しています。
長崎警備の警部巡査はみな銃をとり、まさに茂木口を守ろうとした。するとたまたま大久保内務卿から「事態は急を要する。ことごとく熊本に入れ」と命令があった。そこで茂木派遣を中止し、速やかに熊本に入ろうとし、大久保からの命令を長崎県庁の北島県令に伝え、同地に来る船の周旋を乞うた。(※15)
一見して明らかなとおり、この一連の経緯に山県が関与していた形跡はありません。そもそも警視局は内務省管下であり、指揮命令系統が全く異なるのです。
このように、警視隊はもともと治安維持業務のため九州に派遣されたのであって、それが熊本鎮台への援兵となり得たのは、大久保ら内務省サイドによる臨機の判断あってこそでした。
番組中の再現ドラマにおいて、増援部隊の面々はしっかり警視局の制服をまとっていたことから、番組の制作サイドは彼らが陸軍の人員でない(=陸軍卿たる山県の指揮命令系統にない)ことを知っていたはずです。それなのにこの体たらく……もはや単なる誤解や誇張の域を超え、「面白いストーリーが作れれば事実を歪曲してもいい」といった一種の悪意を感じます。
ちなみに、番組で再現された警視隊の派遣行程は、警視抜刀隊を顕彰するための記録誌『彰功帖』に記載の「出征紀行」を参照しているものと思われますが、これもまた作為的な欺瞞に満ちています。すなわち、番組では警視隊が東京から横浜まで汽車で移動後、間髪を入れず横浜港を出港したかのように説明していますが、実際の警視隊は船が来るのを待って横浜港で一泊しているのです(※16)。(制作サイドはこの事実を知っていたようで、CGの表示が部隊の出港に合わせてさりげなく「10日」から「11日」に変わります。実にセコくて笑えます。)『彰功帖』にない「新橋横浜間は53分」という情報を全く別のところから引っ張ってきて、充実した輸送インフラによる優れたスピードをことさら強調しておきながら、宿泊によるタイムロスはスルー……というのは、あまりに不誠実なつくりといわざるを得ないでしょう。
(4)まとめ
以上、思いのほか長くなってしまいましたが、番組の虚構について解説しました。いかがだったでしょうか?
史料を読んで浮かび上がってくるのは、不確かな情報や限られたリソースといったマイナス要素に振り回されて苦しみながらも、なんとか臨機応変かつ柔軟な対応に努めた山県らの姿です。その事実を不当に歪曲し、ステレオタイプなエンタメ史観を安直に垂れ流すテレビ局の姿勢には、大いに疑問を感じざるを得ません。
なお、念のために付言しますが、この記事に「山県有朋を貶めたい」などという意図は毛頭ありません。そもそも筆者は、西南戦争における山県の戦争指導を総じて肯定的に評価しております。
筆者はただ、史料にもとづく実証的な事実を紹介するとともに、番組からひしひしと伝わってくる、
①「政府・陸軍は、優れたリソースを駆使して周到に対応した」という固定観念にもとづいて、史実を誇張・歪曲する不誠実さ
②政府・陸軍がとった各種措置について、「当時の陸軍の代表者だった」という一点のみをもって全て山県に結びつけてしまう安直さ
に疑義を呈したかっただけで、それ以外に他意はありません。この点は、誤解のないようにしていただければ幸いです。
西南戦争は近年実証的な研究が進んでいますが、一方でいまだにこのようなエンタメ史観におかされがちです。
史実の歪曲によって作られた「面白いストーリー」ではなく、丁寧に解き明かされた「実相」がより多くの人に知られるようになることを願います。
(ついでに、最近描いた絵を……)
【注】
※1 陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』1997年 79ページ
※2 国立公文書館デジタルアーカイブ『公文録・明治十年・第百五十三巻・鹿児島征討電報録完』 10コマ
※3 国立公文書館デジタルアーカイブ『公文録・明治十年・第百六十一巻・鹿児島征討電報録一』 18コマ
※4 国立公文書館デジタルアーカイブ『公文録・明治十年・第百六十一巻・鹿児島征討電報録一』 29コマ
※5 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 27コマ
※6 国立国会図書館デジタルコレクション『西南征討志』 7コマ
※7 田中信義『カナモジでつづる西南戦争』1989年 8-9ページ
※8 国立国会図書館デジタルコレクション『公爵山県有朋伝 中巻』 294コマ
※9 国立国会図書館デジタルコレクション『西南記伝 中巻 1』 237コマ
※10 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 24コマ
※11 国立国会図書館デジタルコレクション『西南記伝 中巻 1』 212コマ
※12 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 30コマ
※13 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 24コマ
※14 国立国会図書館デジタルコレクション『征西戦記稿 第1−22巻』 241コマ
※15 国立国会図書館デジタルコレクション『西南戦闘日注』 247コマ
※16 国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベース 『彰功帖』 107コマ
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