さっくん@勉強中

作家でごはん! において僕のつけた感想など

視点(2)

2006-04-14 20:01:30 | 文章の作り方
 前回に引き続きjunguさんのブログの記事に呼応する形で視点について惟うところを書き綴りたいと思います。ただし、junguさんの記事に対して僕のそれは、いわば後出しじゃんけん的な有利さがあるということには留意しておいて下さい。
 前回、視点というものを文体の一要素であるとした上で、これを次の二つの仕方で位置付けました(ただし、定義というつもりはありません)。
・作者による状況提示の仕方の制限
・読者が読解を円滑にするために行う焦点の調節の中で形作られていくもの
 作者は、この二つを俯瞰しながら(あるいはそのつもりで)文章を書いていくことになるかと思います。
 さて、話題は「カメラ的視点」ということですが、他人から見てどうかということはともかくとして、僕自身はこのようなものからは程遠い文章を書く者です。そして、やはりカメラ的視点の文章はあまり面白いものではないということにも同意します。
 ただし、ここでいう「カメラ的視点」というのは、いわゆる写実的とかそういうものとは、また少しニュアンスの異なるものだと考えています。カメラ的視点というのは、まさに、構えられているカメラの如くに不自由な視点の移動の仕方を指しているという認識です。言うなれば「カメラ的な視座の所在」となります。ですから、「克明に描き出す」とか「冷徹な視線」というような態度とは(重なりあう場合はあっても)別のものだと、とりあえずこの記事では了解しておいて下さい。これは、視点のあり方の一つです。したがってそれ自体が不当であるというのではなく、一つに固執するのが態度として問題だということになります。
 ならばなぜ僕はこのカメラ的視点なるものにあまり面白みを感じないのでしょうか? それには、カメラ的視点がどのような事態を引き起こすかを考察する必要がありましょう。
 カメラ的視点と言われて、僕がどのような小説を想起するかと言えば、いわゆるエンタメ、特にミステリと呼ばれるジャンルのものです(無論例外はあるはずです)。とは言え、ミステリをそのままつまらないとまでは言うつもりはありません。但し、文章は率直に言ってつまらないです。その代わり平易さなどといった別のものを獲得しています。
 さて、カメラ的視点ということで、まず初めに主に目視され得る範囲に留めて物事を記述していくとどういう事態が引き起こされるかについて述べたいと思います。ここで、「そんなことはないミステリにも心理描写はあるではないか」と憤られる方もいるかと思われますが、まさにその心理描写こそが問題なのです。これは後述します。
 文章に接する際読者は割りと素直にしか反応しません。だから、視覚的な状況の提示という、いわば「なにげない描写」に対してはそれなりの応答しか期待されないわけです(だからこそこういった文体は結末のどんでん返しのための布石などに利用できたりするわけです)。これは、既に述べた視点についての僕の見解「・読者が読解を円滑にするために行う焦点の調節の中で形作られていくもの」にも関係しています。文章の一々に対して読者が能動的に個性的な立場を取ろうとしているのでは、なかなかスムーズに事は運びません。読者は提示された状況に即応した印象を抱き、それを積み重ねていくわけです(一般にカメラ視点と言われるような作品の心理描写は、この目視された状況に対して読者と同じような基本的なものを添える形をとることが多いように思われます)。エンタメ作品、もう少し広く言えば展開によって魅せる類いの作品の多くは、こういった基本的な反応を合成させることによって、結果として独特の印象を残そうというものだと言えると考えています。例えば東野圭吾「秘密」はかなり明瞭な形において複数の心情を混合させていると言えます(身体が娘で、心は妻である人物に対峙する男の心情を中心とした作品です)。
 従いまして、カメラ的視点を固持する限りにおいて、ありきたりな設定に対してはありきたりな範囲での反応しか見出されにくいわけです。つまり、ありきたりな状況に対する問題意識というものが欠落してしまうのです。何か明瞭な状況下にないと、感動が起きないわけです。すこし、わかりにくいと思われるので、このカメラ的視点と対極の位置にあると思われるシュルレアリスムをヒントにし、ブルトン「シュルレアリスム宣言」(の再版への序)からの引用を載せます。
 ――ますます私はあの寄せ木のゆかの薄板を見てうっとりしている自分におどろいたものだった。それはまぎれもなく絹を、さながら水のように美しかったかもしれない絹を思わせた。(中略)なんといおうか、つまりそれまでいちども輝くことの見たことのない、新しい事物の光にそれが照らされていたからだった。
 つまり、物事のあり方そのものに対する視線の欠如(扁平さ)です。ある容認された上での特別な(つまり読者とは別個の、距離を置いた)観点(変わり者の主人公など)からでしか、物事が日常的な文脈を脱し得ないわけです。これがjunguさんの仰った「想像力のかけらもない」の意味するところなのだと思います。しかしまあ、ここらへんは煩雑な要素を孕んでいますので深追いは避けておきます。
 次に、心理描写を中心に見ますが、上のこととの関連は密接だということを予め言っておきます。カメラ的視点ということで、被写体のあり方には、とりあえずはそれを見ている人物、あるいは世界=(見せている)作者の感覚は、その要素の取捨選択以外では積極的には介入してきません。したがって基本的には
・状況→それに対する所感→それに対する反応
 というように、いわば<内・外>=<心・身体>が分け隔てられて記述されます(この際カメラは、外を記述するときは外向きに、内を記述するときは内向きにその立ち位置を変えます。比喩的に過ぎますが、カメラ的視点における心理描写とは、脳とか胸の内に居を構える「心」を外の時と同様に記述しているに過ぎません。ちなみに、五感に関する記述がどうのこうのという書き方本的な話ではありません)。これは、荒い言い方をすると、
・対象→心象→反応
 というような認識に関する近代的なヒュポダイム(基本的な枠組み)、即ち思い込みを、意識的ではないにせよ元にしていると考えてまず間違いなかろうかと思います(そういう意味でも東野圭吾「秘密」はかなり象徴的な作品と言えましょう※1)。とは言え、今それが正当であるかどうかを議論するのは野暮でしょう。
 しかし、問題はこの図式にはもう一つの意味があり、結局カメラ的視点「だけ」を採用する場合、殆どが次に述べるテーゼ一つを採用し続けなければならなくなる可能性が高い、あるいはそうなり勝ちだということです。「心」があくまでも<内>に留められている。これはそもそも心はカメラには映らないからです→<外>だけではそれは明かされない。つまり、<外>とは違う<内>にまで言い及ばないと、<人間>が描けない。この二項(対立)的な視座は、要するに「真実は隠蔽されているもの」という暗黙の了解を形成しているように思われます。だからこそ、ミステリにはこのような文体が適しているとも言えるのですが、そうでない分野の作品にさえも、「ミステリの真犯人=トリック的に隠蔽された真実」という価値観を押し通させるに及んでいるのではないかと思うわけです(言うまでも無く、「真実」とはこの場合、作品毎における相対的なものです)。これが、現前している事物に対する純粋な(カメラ的視点でいうところの<内・外>の分離されていない、ありのままの)感覚を軽んじ、寧ろ遠く/深くにある(突飛で奇抜な)真実というものばかりをありがたがる作品・価値観を蔓延させている(ように僕には見える)に至らしめたのではないでしょうか※2。そこにはあの、我々が愛する「画家の眼差し」はないわけです。

補足:予め<内・外>と分割されたものをカメラ的視点によって描くというよりも、寧ろカメラ的視点そのものがこういったものの見方を孕んでいる、という側面を強調しておきます。

※1
読みようによっては、この記事は東野圭吾「秘密」を槍玉に挙げているかのようにもとれますが、僕はこの作品をエンターテインメントとして高く評価しています。つまり、カメラ的視点を基調とした文体が導く結果の一つの極点というような意味合いで取り上げているわけです。

※2
これは地に足の付いていない観念小説(雰囲気小説)、いわゆる「若書き」と呼ばれる類いのものを指していて、いわゆる「深さ」全般に対する非難ではありません。僕個人としてはもう少し極端な意見をもっていることも確かなのですが、ここではとりあえず。