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玄界灘の友人へ

2013-05-11 14:14:44 | 学びの記録
 「玄界灘の友人へ」…このことば、私の造語ではない。韓国公州大学校のヤン先生が、この4月の訪日日程をおえて、私たちにくださった礼状に添えてくださっていた言葉だ。まさに、玄界灘をわけへだてて隣り合わせる日本と韓国、とりわけその日本側入口にあたる博多にある福岡。まさに玄界灘をわたって私たちのもとにやってきてくださったのは、「友人」たちだったという感慨をいま、改めて感じている。

 昨年9月、私たちの学部側から4名の教員と6名の院生が、海を渡り韓国公州大学校に赴いた。研究フォーラムや教育現場の視察をメインにすえながら、毎日朝の2時3時まで続く(!)心のこもったもてなしをいただいた。韓国には割り勘文化はないので、すべてご馳走になり続ける。最後の日の交流会では、公州大学側から「次は、キューシュー!」とういう掛け声で乾杯をいただいて別れたのだが、さて私たちは、こんなもてなしをできるのか、と戦々恐々としながら日本に戻ったものだ。
 それから半年。韓国留学経験もあるモトカネ先生をトップに、教員院生の連合体で準備を重ねて迎えた4月、公州大学のみなさんは本当に福岡へやってきた。豪華なもてなしはできない。知恵を絞った結果、私たちはわが大学の歴史ある建造物「三畏閣」で、院生たちが手づくりで準備した手巻きすしをテーブルにひろげ、初日歓迎会をスタートした。いわばホームパーティーみたいなものだ。準備トップの院生(男性)は朝3時からひたすら錦糸卵を焼き続けた。材料は魚から寿司飯まで手を尽くして格安で入手できる先を探しだした。わが研究室メンバーも当日どっと野菜切り部隊として活躍した。
 ありがたいことに、韓国のみなさんは、このもてなしにこそ、のきなみ響いてくださった。「私は30回も日本にきたけれど、今日の料理が最高だ」といってくださった方もいた。その後も何度もお礼の言葉にこの日のことが登場した。わたしたちは、豪華な場や料理はだせなかったけれど、大学の歴史と、院生たちが知恵をだしあいながらうごいた「物語」を、訪問団にさしだすことはできたのだ。もちろん、3日目にひらいた研究フォーラムがメインの日程なのだけれど、日本側は学部1年生からより集って総勢60名ほどで合計17名の訪日団と交流させていただいたこの初日の様子に、ああ、今回の交流はきっと成功すると確信した。

 繰り返すけど(笑)、お金がたりない。なにせ日韓の食に関する物価が違いすぎるのだ。だからせめて、関係者は時間と手間をたむけることに徹した。私も含め先生方も、4日間全日程一緒に宿舎とまり、すべての移動の運転手をつとめた。けれどここまでできたのは、私たちがいただいた公州大学側のもてなしを模範にしただけのことだ。今回も私たちの手づくりのもてなしを何より喜んでくださったこと、また研究者同士だけでなく「先生の研究室の院生は、私の研究室の院生も同様です」と若者たちにどんどん語りかけていかれる様子に、一層の信頼をいだいた。韓国でも、日本でもあたたかな交流を自然体で行っていく公州大学のみなさんの様子はすべての韓国の大学や研究者に通じるものではないらしいから、この方々に出会えたのは幸運だったとしかいいようがない。

 研究交流はもちろんだけれど、それをこえたやりとりもできた気がする。先方の博士課程に在籍する日本人院生セガワさんを間にはさんだからこそだけれど、ずっと私の車にのってくださったイ・ダルウ学長とは、日韓の歴史認識の話にもおよんだ。ご自身は抗日運動の家系にうまれつつ、日本と密接に交流し、かついうべきことはいう態度を貫かれている教授だ。「教育」こそが日韓相互の認識も、社会も変えるという信念を熱く語っておられた。普段はほとんど日本語を交えてユーモラスな会話ばかりされている方なだけに、「知る」ということに必要な交流の厚みの重要性をも感じた。私個人、その話の間中、この間沖縄と向き合ってきた中で学んだことをさまざま想起させられた。そこにあるのは「ちがう」からこそそれを超えていくことへの希望だ。

 ちなみに近日、言論NPOが日韓共同世論調査の結果を発表した。日韓関係の現状認識で相手国に「良い」印象を持つと答えた人は、日本で3割・韓国では1割にすぎず、一方「悪い」印象を持つ日本人は4割、韓国人は約8割に上る。そして両国民の4割がこの一年間に「悪くなった」と回答したということ。「独島問題」と「歴史認識」をめぐる韓国側の反応とその過敏反応に違和感を持つ日本側のギャップが指摘されていた。
 私は国際交流に決して熱心な人間ではない。けれど、研究交流を介してとても国を隔てているとは思えない共通の基盤と対話の実際を感じたこと、またまさに「友人」と思えるやりとりを重ねつつあること。その実感は簡単に消えるものではない。相互の国に直接的研究関心をよせておられる幾人かの先生方の存在に深く依りながら、そういうやりとりのつみかさねを研究者同士・また次世代を担う若者同士で重ねていく意味ある交流が自らの足場に芽生え始めていることに、深いよろこびがわきあがるばかりだ。

切り捨てられる地域ではいあがる -暮らしの学校「だいだらぼっち」より

2013-05-04 19:56:48 | 旅の記憶
 長野県泰阜村。県内でもずっと南寄りで、長野市より名古屋のほうが近い。大型バスも入れない、信号もない人口1900人をきる山間の村。人によっては、田中元長野県知事が住所をおいた土地だというかもしれない。在宅福祉にとりくんできた村だねという人もいるかもしれない。でも私はおはずかしながら、NPO法人グリーンウッド自然体験教育センターの辻英之さんとドイツへの研修旅行でご一緒して、はじめてこの自治体の名前がインプットされた。それ以来約7-8年。訪問計画をたてながらなんども断念してきたが、このGW、ここにきてようやく実現した。ともに辻さんと出会った埼玉の小熊さんや、ゼミOBの愛実さんも一緒だ。

 いま辻さんたちの実践は『奇跡のむらの物語』(農文協)で大きな注目をあびている。本屋では「ソーシャル」系に位置付けられるそうだが、私からすると「地域教育」の王道を示してくれる実践だと思っている。そう思って、埼玉時代も福岡にも、幾度も学生たちへの講義をお願いしてきた。
 最近、過疎といわれる自治体に、ヨソモノの若者たちがIターンとして向かう事例が増え、そういうとりくみはたしかにソーシャル系ともくくられるが、グリーンウッドの創始者たちは、26年前、むらで根をはろうとした。そのとき子どもの荒れがニュースになっていたこともあり、集落では「むらの子の血が染まる」と大きな反対をうけたらしい。まして村は男社会。そんななか、創始者のひとり梶さんは、集落の男たちを前に「私は嫁に来るつもりで泰阜村にやってきました」と毅然と語った。そのことばに、場は静まり返ったという。そして4人の子供たちとの生活がはじまった。彼女たちは村にただおじゃまするでなく「梶家として、一戸のおつきあいをします」という姿勢を貫いたという。班の一構成員として、道普請、雪かき、祭りに懇親会…、子どもたちとスタッフは、すべての村の行事に参加してきた。ほどなく彼らは子どもの思いを軸に、手づくりで家をたてはじめる。そうして、子どもたちの姿をみせ、彼らのことを村の人々に理解してほしかったという。
 今回、梶さんにどうしてもうかがいたかった。当時まだ30に満たない若い女性だった梶さんが、どうしてこれだけの覚悟と姿勢を貫くことができたのか…梶さんも当初、この村で生活して、自分が人の一生に責任持てるのかと躊躇はあったという。けれど梶さんは「人生の覚悟」という言葉を使われた。泰阜にくるために先に職場に辞表をだした仲間がいた。そして自分は家庭との両立はできないと思っていた。決断を迫られたのだという。わかったようで、わからない。誰にでもできることではない。けれどわかるのは、まさに彼女は泰阜という土地と結婚し、すべての山村留学のこどもたちとスタッフたちの母で在り続けたということ。村に入って最初におあいした松島村長も、「梶さんのことを悪く言う人は村には一人もいない」と断言した。ちょっぴりシニカルで、人に迎合することばは一言も発さない骨太の村長が、だ。「だいだらぼっち」は施設名ではなく、屋号だという。そのだいだらの家の母、彼女の存在感を、泰阜の地でしっかりと感じ取った。
 26年という時間の蓄積。なんども危機を迎えながら、のりこえてきた時間。村の人々の信頼は、ひとえにその「時間」なのだと思った。いい悪いとか、思想だとかではない。松島村長とお話していても感じたが、時間を重ねるというところに、一番の価値を置くのが、村というものなのかもしれない。

 グリーンウッド・やってくる子どもたちと交流する、その時間の確実な経過の中で、村の人々は、「こんな村、いやだ」から「この村で自立したい」とこたえるようになってきたという。一部の若者たちは、自分たちもやれるかもしれないと、村に戻ってきているという。子どもたちが地域に学ぶ、それを介して地域こそが学び・自立してゆく。それを辻さんは「奇跡のむら」と称したのだ。

 辻さんは、グリーンウッドが地域の暮らしにいかに学んできたかという私の関心をくみ取って、村のスーパーヒーロー二人にあわせてくださった。そのおひとり木下さん。泰阜の中でも最奥の集落に4戸で住んでいる。集落生き残りをかけて、アマゴ養殖を事業化し成功させた人でもある。木下さんは、子どもたちとであって「わしゃ、生まれかわったら教師になりたい」ということばをつぶやいた人。教育に携わる者としてそのことばは胸をついて仕方がなかった。そのことばにこめられていたのは何なのだろうとおもっていた。
 40分の細くうねった道をひたすら車で走ってやっとたどりついた集落。養殖事業事務所でうかがった木下さんの話は、思いもかけず戦前の泰阜村の満蒙開拓団にはじまった。昭和10年当時、村議会は木下さんの集落に「ここは人の住む所じゃない。国は補助金をくれるし満州へ行け」と強制命令をだした。国賊といわれながら逆らって行かなかった人々が、いまここに住んでいるのだという。戦前戦後をかけて国は山村・泰阜村を切る政策をとり続けているけれど、さらに村はこの集落を切ろうとした。この集落をとりまくのは、切られ続ける歴史なのだ。学校へは片道3時間・往復6時間。高校は親の希望で通信制。大学も反対されて断念。そうしてのちにこの地に事業をたちあげるに至る木下さんは、結局この地を出ていない。闘い続けた人生をへて、地元主導の2週間キャンプの実行委員長におされた木下さんが、はじめてまともに出会った子どもたちに感じたのは「子どもたちは世の中の隅においやられている」ということだったという。おそらくそれは共感、だ。そして大人がきちんと対応すれば子どもはちゃんとするということにも確信と手ごたえももつ。現村議会議長に到るその後の木下さんの活躍は、枚挙にいとまがない。

 「地域に生きる」ということ、その地域とは、切り捨てられ続ける地域だということ。そこに全身でぶつかってで、それでもはいあがりつづけるということ。まさに自立して生きるということ。木下さんの姿はその象徴にほかならない。その後ろ姿に子どもたちが多くを学ぶのは、しごく納得のいく話だった。

 ※写真は木下さんの家へと歩んでいく辻さんの後姿。きっとグリーンウッドの人たちはこうして、地域の方のもとに足をはこびつづけてきたのだろう。