「玄界灘の友人へ」…このことば、私の造語ではない。韓国公州大学校のヤン先生が、この4月の訪日日程をおえて、私たちにくださった礼状に添えてくださっていた言葉だ。まさに、玄界灘をわけへだてて隣り合わせる日本と韓国、とりわけその日本側入口にあたる博多にある福岡。まさに玄界灘をわたって私たちのもとにやってきてくださったのは、「友人」たちだったという感慨をいま、改めて感じている。
昨年9月、私たちの学部側から4名の教員と6名の院生が、海を渡り韓国公州大学校に赴いた。研究フォーラムや教育現場の視察をメインにすえながら、毎日朝の2時3時まで続く(!)心のこもったもてなしをいただいた。韓国には割り勘文化はないので、すべてご馳走になり続ける。最後の日の交流会では、公州大学側から「次は、キューシュー!」とういう掛け声で乾杯をいただいて別れたのだが、さて私たちは、こんなもてなしをできるのか、と戦々恐々としながら日本に戻ったものだ。
それから半年。韓国留学経験もあるモトカネ先生をトップに、教員院生の連合体で準備を重ねて迎えた4月、公州大学のみなさんは本当に福岡へやってきた。豪華なもてなしはできない。知恵を絞った結果、私たちはわが大学の歴史ある建造物「三畏閣」で、院生たちが手づくりで準備した手巻きすしをテーブルにひろげ、初日歓迎会をスタートした。いわばホームパーティーみたいなものだ。準備トップの院生(男性)は朝3時からひたすら錦糸卵を焼き続けた。材料は魚から寿司飯まで手を尽くして格安で入手できる先を探しだした。わが研究室メンバーも当日どっと野菜切り部隊として活躍した。
ありがたいことに、韓国のみなさんは、このもてなしにこそ、のきなみ響いてくださった。「私は30回も日本にきたけれど、今日の料理が最高だ」といってくださった方もいた。その後も何度もお礼の言葉にこの日のことが登場した。わたしたちは、豪華な場や料理はだせなかったけれど、大学の歴史と、院生たちが知恵をだしあいながらうごいた「物語」を、訪問団にさしだすことはできたのだ。もちろん、3日目にひらいた研究フォーラムがメインの日程なのだけれど、日本側は学部1年生からより集って総勢60名ほどで合計17名の訪日団と交流させていただいたこの初日の様子に、ああ、今回の交流はきっと成功すると確信した。
繰り返すけど(笑)、お金がたりない。なにせ日韓の食に関する物価が違いすぎるのだ。だからせめて、関係者は時間と手間をたむけることに徹した。私も含め先生方も、4日間全日程一緒に宿舎とまり、すべての移動の運転手をつとめた。けれどここまでできたのは、私たちがいただいた公州大学側のもてなしを模範にしただけのことだ。今回も私たちの手づくりのもてなしを何より喜んでくださったこと、また研究者同士だけでなく「先生の研究室の院生は、私の研究室の院生も同様です」と若者たちにどんどん語りかけていかれる様子に、一層の信頼をいだいた。韓国でも、日本でもあたたかな交流を自然体で行っていく公州大学のみなさんの様子はすべての韓国の大学や研究者に通じるものではないらしいから、この方々に出会えたのは幸運だったとしかいいようがない。
研究交流はもちろんだけれど、それをこえたやりとりもできた気がする。先方の博士課程に在籍する日本人院生セガワさんを間にはさんだからこそだけれど、ずっと私の車にのってくださったイ・ダルウ学長とは、日韓の歴史認識の話にもおよんだ。ご自身は抗日運動の家系にうまれつつ、日本と密接に交流し、かついうべきことはいう態度を貫かれている教授だ。「教育」こそが日韓相互の認識も、社会も変えるという信念を熱く語っておられた。普段はほとんど日本語を交えてユーモラスな会話ばかりされている方なだけに、「知る」ということに必要な交流の厚みの重要性をも感じた。私個人、その話の間中、この間沖縄と向き合ってきた中で学んだことをさまざま想起させられた。そこにあるのは「ちがう」からこそそれを超えていくことへの希望だ。
ちなみに近日、言論NPOが日韓共同世論調査の結果を発表した。日韓関係の現状認識で相手国に「良い」印象を持つと答えた人は、日本で3割・韓国では1割にすぎず、一方「悪い」印象を持つ日本人は4割、韓国人は約8割に上る。そして両国民の4割がこの一年間に「悪くなった」と回答したということ。「独島問題」と「歴史認識」をめぐる韓国側の反応とその過敏反応に違和感を持つ日本側のギャップが指摘されていた。
私は国際交流に決して熱心な人間ではない。けれど、研究交流を介してとても国を隔てているとは思えない共通の基盤と対話の実際を感じたこと、またまさに「友人」と思えるやりとりを重ねつつあること。その実感は簡単に消えるものではない。相互の国に直接的研究関心をよせておられる幾人かの先生方の存在に深く依りながら、そういうやりとりのつみかさねを研究者同士・また次世代を担う若者同士で重ねていく意味ある交流が自らの足場に芽生え始めていることに、深いよろこびがわきあがるばかりだ。
昨年9月、私たちの学部側から4名の教員と6名の院生が、海を渡り韓国公州大学校に赴いた。研究フォーラムや教育現場の視察をメインにすえながら、毎日朝の2時3時まで続く(!)心のこもったもてなしをいただいた。韓国には割り勘文化はないので、すべてご馳走になり続ける。最後の日の交流会では、公州大学側から「次は、キューシュー!」とういう掛け声で乾杯をいただいて別れたのだが、さて私たちは、こんなもてなしをできるのか、と戦々恐々としながら日本に戻ったものだ。
それから半年。韓国留学経験もあるモトカネ先生をトップに、教員院生の連合体で準備を重ねて迎えた4月、公州大学のみなさんは本当に福岡へやってきた。豪華なもてなしはできない。知恵を絞った結果、私たちはわが大学の歴史ある建造物「三畏閣」で、院生たちが手づくりで準備した手巻きすしをテーブルにひろげ、初日歓迎会をスタートした。いわばホームパーティーみたいなものだ。準備トップの院生(男性)は朝3時からひたすら錦糸卵を焼き続けた。材料は魚から寿司飯まで手を尽くして格安で入手できる先を探しだした。わが研究室メンバーも当日どっと野菜切り部隊として活躍した。
ありがたいことに、韓国のみなさんは、このもてなしにこそ、のきなみ響いてくださった。「私は30回も日本にきたけれど、今日の料理が最高だ」といってくださった方もいた。その後も何度もお礼の言葉にこの日のことが登場した。わたしたちは、豪華な場や料理はだせなかったけれど、大学の歴史と、院生たちが知恵をだしあいながらうごいた「物語」を、訪問団にさしだすことはできたのだ。もちろん、3日目にひらいた研究フォーラムがメインの日程なのだけれど、日本側は学部1年生からより集って総勢60名ほどで合計17名の訪日団と交流させていただいたこの初日の様子に、ああ、今回の交流はきっと成功すると確信した。
繰り返すけど(笑)、お金がたりない。なにせ日韓の食に関する物価が違いすぎるのだ。だからせめて、関係者は時間と手間をたむけることに徹した。私も含め先生方も、4日間全日程一緒に宿舎とまり、すべての移動の運転手をつとめた。けれどここまでできたのは、私たちがいただいた公州大学側のもてなしを模範にしただけのことだ。今回も私たちの手づくりのもてなしを何より喜んでくださったこと、また研究者同士だけでなく「先生の研究室の院生は、私の研究室の院生も同様です」と若者たちにどんどん語りかけていかれる様子に、一層の信頼をいだいた。韓国でも、日本でもあたたかな交流を自然体で行っていく公州大学のみなさんの様子はすべての韓国の大学や研究者に通じるものではないらしいから、この方々に出会えたのは幸運だったとしかいいようがない。
研究交流はもちろんだけれど、それをこえたやりとりもできた気がする。先方の博士課程に在籍する日本人院生セガワさんを間にはさんだからこそだけれど、ずっと私の車にのってくださったイ・ダルウ学長とは、日韓の歴史認識の話にもおよんだ。ご自身は抗日運動の家系にうまれつつ、日本と密接に交流し、かついうべきことはいう態度を貫かれている教授だ。「教育」こそが日韓相互の認識も、社会も変えるという信念を熱く語っておられた。普段はほとんど日本語を交えてユーモラスな会話ばかりされている方なだけに、「知る」ということに必要な交流の厚みの重要性をも感じた。私個人、その話の間中、この間沖縄と向き合ってきた中で学んだことをさまざま想起させられた。そこにあるのは「ちがう」からこそそれを超えていくことへの希望だ。
ちなみに近日、言論NPOが日韓共同世論調査の結果を発表した。日韓関係の現状認識で相手国に「良い」印象を持つと答えた人は、日本で3割・韓国では1割にすぎず、一方「悪い」印象を持つ日本人は4割、韓国人は約8割に上る。そして両国民の4割がこの一年間に「悪くなった」と回答したということ。「独島問題」と「歴史認識」をめぐる韓国側の反応とその過敏反応に違和感を持つ日本側のギャップが指摘されていた。
私は国際交流に決して熱心な人間ではない。けれど、研究交流を介してとても国を隔てているとは思えない共通の基盤と対話の実際を感じたこと、またまさに「友人」と思えるやりとりを重ねつつあること。その実感は簡単に消えるものではない。相互の国に直接的研究関心をよせておられる幾人かの先生方の存在に深く依りながら、そういうやりとりのつみかさねを研究者同士・また次世代を担う若者同士で重ねていく意味ある交流が自らの足場に芽生え始めていることに、深いよろこびがわきあがるばかりだ。