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人に自然に耳を傾けながら、まちを歩こう。

あまたま

2009-11-29 21:03:31 | Weblog
 川越おかし談。いま川越はつばさブームの余韻がまだしっかり残っていた。なんでもつばさづくし。実家の和菓子屋は「甘玉堂」といって、メインの商品は「甘玉」というまっくろな菓子だった。

 当然のことながら、いくつかの和菓子屋が類似のお菓子を売っていた。私たちはちゃんと食べ比べて、これぞ1位というのをゲット。まわりがごま餡、なかが紫イモなど2層になっていて、しっとりふっくら、これはおいしいと思ったのだ。夕方に再度かけこんだらすでに売り切れ、しぶとくくいさがったら、奥からなんとでてきた!次の日のための商品をいくつかおいているらしい。やっと手に入れた「甘玉」、つばさファンのモリカワセンセのお宅へのおみやげは、これで決まりだ!(とおもったのだが、モリカワ先生にはどうも、甘玉まらぬ写真の「くらたま」より、つばさかりんというお菓子のほうが好評だった。うーむ。)

川越まちあるき

2009-11-29 20:38:15 | 今日のまちあるき
 今週末も埼玉の人。いつも大学にはりついているのだけれど、今回は金曜日の一日、私の知らない埼玉発見DAY、ということでチヅコさんの案内で川越散策へ。いままで、スポットで川越にいったことはあったけど、一日じっくり歩いたことがなかったのだ。埼玉一の観光地だというのに…。

 朝9時半、チヅコさん&午前のみ参加のマユミさんと川越駅に集合し、そのまま喜多院へ。人はまばら。でも今はちょうど紅葉のすばらしい季節。お二人とも私と変わらず拝観料を払って中にはいったことはなかったそうなのだが、三人ともにその日本美に大満足。ここは将軍家光と春日の局ゆかりの部屋が江戸城から移築されていて売り物なのだが、なるほどの重みある建物とお庭だ。

 その後市立美術館へ。なぜ?だが、今ちょうど「こどものとも」絵本原画展の真っ最中。この分野あまり詳しくない私だが、ゼミ9期生でイルミの第4代委員長のユウティがこの本のことを卒論でがっちりとりあげてくれたおかげで、私もこの絵本雑誌が数多くの絵本単行本を生み出し、日本の子ども文化に果たした大きな役割を知っていた。がぜん楽しみに。
 「美術館がまるごと絵本」のキャッチフレーズどおり、11作品、180点の原画がならんでいる。場面ごとに文のパネルがそっとそえられていて、子どもだけでも、大人だけでも、そして何より親子一緒にもたのしめるようになっている。「私いつか子どもに読ませようと思って定期購読してたわよ」のマユミさんのことばに、ふふっ!

 その後嵐おすすめのビストロ岡田でぜいたく洋食ランチをし、なんだか川越らしからぬおしゃれなお店、きれいすぎる駄菓子やがふえてちょっと心配になったまちあるきをし、最後に懐かしの川越スカラ座へ。去年12月に百万円と苦虫女がらみのイベントでジョイントして、約1年ぶりだ。「苦虫会」結成したのに、私は風邪でダウンして会合(飲み会)に参加できなかったという過去がある。なので、ちょっと大人っぽくなった、なぎちゃんに再会できてうれしい。当時スタッフをしてたハヤシ研出身のマキちゃんも沖縄で3500グラムのおっきな男の子を無事出産したそうで、ほっ。今回は篤姫の将軍役でブレイクした堺雅人の「南極料理人」を堪能し、心残りだった応援の気持ちの賛助金をとどけて、大学に戻った。
 なんで大学かというと、社教研運営委員会は、私が川越散策すると知っていて、この日にぶつけてきた!敵もさるもの。貧困問題にがっつりとりくむ、その議論は興味しんしんだったけれど。そして私を依然仲間として迎えてくれるその思いは実はとってもうれしいのだけれど。1時間半参加して途中で抜けて、今度は北浦和でタシロセンセと合流。研究室がお隣さんだった、とってもハンサムな女性だ。タシロセンセとは、ある計画のための作戦会議。見沼のお野菜のおかげか、スムーズに密談は進んだ。よしよし。

 …いやまあ、なんと濃い1日だったことか。埼玉万歳。

篤姫のみた空

2009-11-26 00:03:47 | Weblog
 去年の私のマイブームは、NHKの大河・篤姫だった。はまりましたとも。きっかけはあのオープニング画像の解説をHPでみたことだった。篤姫の一生をクリムト風の美しい切り絵で2分半きっかりで描き出していく。大好きな桜島に戻ることもできる機会を得ながら、いまや自分の家族は大奥、とついに彼女は二度と故郷の地をふまなかった。自分の選びとった道を切ないほどに美しく強く歩みつづけた篤姫。故郷にさえ一生帰れない、見ようによってはこれほどの悲しい運命はない人だからこそ、すべてを受け入れつつ「引き受けて選んで生きる」強さが胸をうつ。

 その、彼女があこがれ続けた桜島に出会った。土曜から火曜朝まで、ちょっと長めの鹿児島滞在だった。九州教育学会への参加をメインに、OBての&たんのちゃんとの焼酎はさんでのなつかし談義、そして研究会とつづいた4日間だった。
 さてメインの12年ぶりのキューキョー。院生時代、真っ青な顔で報告していたことを懐かしく思い出した。私にはモリシタくん&タガくんという 長い院生時代をともにすごした2人の同級生がいる。今回のスペシャルな出会いは、この3人が久しぶりに顔をあわせたことだ。私は関東人になってさっさとこの学会を脱会したのだが、同級生二人はここまで継続しモリシタくんなんて遠方から毎年やってきて発表しているという。ここまでくると奇特というか。で、私の復活によって、久しぶりの3人再会となったのだ。気が合ってしょうがないというより、それぞれ変わっててかみあってるのかあってないのかわからない3人だが(笑)、会えば懐かしくて仕方ない。二人とも立派に活躍しているし、ついでに立派にパパしてるし、確かに時間が過ぎていながら、なんにもかわっていない気もして。なんともフシギだ。

 ところで晴れた3日目の昼、昨日あったばかりのてのから電話がはいった。てのってキラキラと多面体のガラス玉のような子だ。まじめかと思えばぬけてるし、奔放かと思えば道徳肌。でも全体としてアツく、キラキラしてるのだ。久しぶりのてのは今は実家のお茶やさんを手伝っているそうだが、一時的とはいえかなり楽しそうで、よかった。「センセー。いま外見えますか?桜島が爆発しているから、みておいたほうがいいですよ」てののシンセツ電話だったのだ。…全面にではないが、教室の窓から外をみると、たしかに、大きな噴煙がでている。現地の方は大変だろうけれど、これぞ、鹿児島。うまくないけど、とりいそぎあわててパチリ。篤姫が愛した桜島、確かにここに出会ったなり。

補足)世代論。

2009-11-18 19:45:54 | 学びの場
 研究会での話の補足。もういいかげん、長いよね。ひとことだけ。

 「絵」で記憶する私が、今回の研究会で頭に残った場面とは。「生涯の友ね」とまでいって泣いてくださったサトウ先生の姿。まんまえで必死に訴えているOBのエイエイの姿。
 そして実はもうひとつある。閉会後、久しぶりに会ったサトウ先生とトクダさんが普通に語り合ってるシーンだった。

 トクダさんと語り合うサトウ先生のことばは、これまで学会で私が聞いてきた言葉とまったくちがっていた。「運動家」であり「ともにまちをつくる同志」であり、ともいうべきか。キクチさんともきっとそうなんだろう。サトウ先生のご主人とも深くつきあってきたトクダ&キクチさん。亡くなったご主人も含め、その関係こそきっと、サトウ先生にとっての「埼玉で生きてきた証」なんだ。そして、この埼玉をつくってきた協同運動や社会教育実践が、まさにここにいた人々にとっての「ここに生きてきた証」であるに違いない。

 私は、社会運動、そしてある種の社会教育運動に、どこかで違和感を感じている。それは「社会」や「課題」からはいりかねる、「私」への問いをかかえつづける世代に身を置いているからだ。ハンズオンとの接点を大事にしてきたのも、そこからものを考えていきたいからだ。
 でも、お二人の語り合う姿をみておもった。「課題」から入る世代か、「私」から入る世代か、じゃないんだと思う。どうすれば、二つの世代を「教育の未来」においてつなぐことができるのか。それが、私の世代的宿題なんだなあ、きっと。

 ※写真はチヅコブログからいただいちゃいました。失敬!

サイシュウコウギ?

2009-11-18 12:07:28 | 学びの場
 とっくに福岡にとんでしまった私だけれど、「なんにも残さず勝手にはいかせない!」という悪友仲間もとい、事務局&運営委員会メンバーのさしがねにより、13日、社教研主催の旅立ち講演会を埼玉でひらいていただいた。(今日は長いです。責任上。すみません!)

 いつもの研究会は、あつまってだいたい15人ほど。開始時間18時半にいたのは数名だったので、こんなもんかなーと思っていた。ところが今回はまず、現役ゼミ生たちがそわそわと「はじまりますか?」と部屋をのぞいてくる。数日前に聞かされるも、サイシュウコウギといわれて、これはと構えてくれたようだ(あ、サイシュウコウギを写真にとりそこねたOPCの再チャレンジもあったか!?)。アンdoゼミ生の顔、さらに本当にうれしくも、ききつけたゼミOBのカナさん、アラタくん、エイエイなどびっくりな顔たちが、仕事を終えておくれてやってきた。(アラタ曰く「だって、サイシュウコウギっていわれたら…」だって。)

 そんなこんなしていると、お世話になった地域の方々が、続々と19時めざして(たぶん勘違い…)きてくださる。鶴ヶ島勢はじめ入間勢、南部で淡々とがんばるシロタさん、いろんな層の顔がある。そして、なんと一番のびっくりは、元学会会長で私のポストの前々任者でもあるサトウ先生が笑顔で現れたことだ。「教授会、さぼってきたわよー」…ひえー、ス、スミマセン。あたまもあがりません。でマツザキ・カタノ・サトウと、ならばれると、ベルリンの壁よりたかーい、こえられない何かのような…。(いえ、そんなことはない、厳しくあたたかなコメントをその後いただきました。)…そんなこんなで、約40名近い、第一演習室びっしりの会にしていただいたのだった。

 私が埼玉に何を学んだか。あらためてふりかえるといろんなレベルで私は「埼玉」という土壌に育てていただいてきたなとしみじみ思う。まずは足元で私が終始こだわりつづけた学生たちとの学びあい、それを可能にした「S大学」(とくに総教と、社会教育研究室の伝統)。第二にこの研究会に象徴される、埼玉の地域社会教育実践(S大学が事務局をするのは大変だけど、やっぱりとっても意味があった)。この10年は九州では学びえなかった公的な都市型公民館の可能性ともろさといかに伴走するかの日々だったから。そして最後に、どろどろとまちづくりでつながった、私を常に大学教員ではなく「○○ちゃん」よばわりで仲間としてつきあってきてくれたさいたま市内の住民・市民活動・NPO。どれもが私の学校、私の母校だ。
 11年半前、20代最後にS大への就職がきまったとき、その向かうべき場の大きさに、私はひるみそうになっていた。だって20代のねえちゃんが、いきなり、学会を歴々とひっぱってきた方々のポストにつくことになったのだから。「埼玉の市民はこわいよー」なんて脅かす人もいたし。でも、みなさんあたたかだった。一生懸命出会い力をそそぐしかなすすべを知らない若造に、人と人の信頼関係をもってかかわり、育ててきてくださったのだ。討議の場でも、遊びの場でも、大地に根を張って実践に挑んでいる人たち同士、リアルで豊かな会話がこれまでいくどくりひろげられてきたことだろう。私にとってそれが最高の学びの場だった。
 まだまだまとまらない頭のなかで私は、「暮らしをマネジメントする力」そしてそれと深くつながって「参加への"一歩"」を支えることに、社会教育ははたしてこれからどう挑戦していけるのか、そこを考えていきたいと話をしめた。厳しい社会のなかで、人々のなかでじわりとおこっている、暮らしをくみかえる動き、つながりなおす動きに、私はどこまで添うていけるだろう。

 きっちり90分の報告、その後カトウ・イイヌマ・マツザキさんと次々鋭い質問をなげかけてくださった。民主党政権下の社会教育や地域の市民のつながりはどうなるのか。いま「協同」「協働」を「仕事のくみかえ」レベルまでさかのぼってみる必要はないのか。この時代に「学びから疎外された人」をどう新たな目でとらえなおすのか。まさに私への宿題の数々だ。

 まあなんといっても圧巻はやはりサトウ先生。それは研究的投げかけというよりも、この場を構成するすべての人への励ましとメッセージだった。「こうしていま私は、人が歩んできた空間に身を置くことの大切さを思うのよ」ご自身がこの場でやはり学生たちと歩んだ14年をふりかえりつつ、サトウ先生はだれより現役の学生たちにかたりかける。「これは、いのちのバトンをつないでいくリレーね」…愛すべきこの大学を離れて全国的な役割を小さな両肩でになってきたサトウ先生が、こうして形をかえていまも、この場につながっている。そして互いにバトンを渡しながら、何かを築いてきたのだといってくださる。歴史の中に生きられることの祝福。そのあたたかさが部屋いっぱいにひろがった気がした。
 
 これでおわりかとおもいきや、最後におもむろに手をあげて爆弾をおとしたのは、いま市内で新採教員として日々を駆け抜けているエイエイだった。
 「ゼミで、だれもの身近に社会教育はあると、私は学びました。でも、私のまわりはまるで別世界。私は福祉農園にでかけているけど、いつも教室の子供たちに罪悪感を抱いている始末。そして地域で誰かとつながりたいと思っても、そういう人はでてこない。先生、先生が近くにいなくなるのは辛いです。私はどうすればいいのですか?それが今日の先生の話にはないんです。教えてください!」
 …絶句。エイエイは、そうしっかり手をあげていいきりつつも、自分の話でごめんなさいと付け加えていた。ちがうのよ。私の今日の話の根幹が、まさにあなたの話にはあった。ゼミでまなびあってきたことはなんなのか。それを大学における社会教育実践というならば、その学びあいの果を、未来の社会教育や社会にどうつないで展望を描けるのか。その指摘に他ならないのだ。
 私がいまいえたのは、「学びの記憶」はそうそう軽いものではない、ということだけだった。それはいまはつらくも、大事な大事な根っこだと。言葉をさがしながら、ほかの人はいないかのようにまっすぐただ、エイエイに語りかけた。でも。私は現役もそうだが、本当の意味で社会で闘いをはじめたOBたちのそばにこそ、いたかった。その切なさが、私の軽妙な仮面をはずさせてしまった。

 なのに、会場はなぜか、泣いている私たちを拍手でつつんでくれた。「こたえ」でないなにかをこそ、私たちは探しているのかもしれない。 
 きてくださった方、これないと連絡をくださったかた、みなさん、ありがとうございました。
  ※写真はヒライさんの送別ビール。メッセージはとてもここに書けない…。



ガンジスきたる

2009-11-09 01:13:24 | おうちの話
 わがやで一番の映えのスポットは、アジアンソファ上の絵画コーナーだと思う。なにせ、ミセスさんにわがままいって、ブラケット照明までつけてもらったから。ここに何をおくかは二転三転。当初予定していた沖縄古布の壁掛けは、スペースに対してちょっと小さすぎだと断念。そこで私はクリムトの「抱擁」のコピーを飾った。コピーといっても、クリムトらしい金の絵具が上塗りされ、立体的でなかなかだった。

 ところが。今年の春だったか、はじめて埼玉・モリカワ邸でおめにかかったインドはガンジスの絵が、なんと我が家へやってきた。クリムトより2回りも大きな絵だ。生と死が向かい合うガンジス、それを雄大な自然がつつみこむ、深くてあたたかな絵だが、これがなんと奥さまのミチコさんが描かれたもの。
 ミチコさんは、教師退職後、油絵を描いていらっしゃる。若いころからの夢を、今ふたたび実現してキャンバスに向かう日々なのだという。昨年冬、ご夫妻はインドを旅された。なかでも祈りと火葬と生活が混じりあって営まれるガンジス河畔はやはり強烈な印象だったらしい。そこでミチコ婦人がどうしても描きたいと思ったというモチーフが、一枚の油絵として形をなしていた。
 新居祝いに、何か一枚どうぞ、とミチコ夫人が描かれたたくさんの絵を前にいわれ、わがままにも私は、ガンジスの絵をおねだりした。ミチコ夫人はあっさり承諾。ミチコさんの胸の奥には、もう次のガンジスが描かれつつあるんだろうなあ。感謝でお申し出をおしいただいた。

 さてさておくっていただいた絵を飾ってみると、驚くほどに部屋にしっくり。クリムトくんもかなりよかったけれど、本物の油絵にはかなわない。みなさまいつか我が家におみえになりましたら、ぜひこの絵にご注目を。

チセにて

2009-11-04 12:35:43 | 旅の記憶
 昨晩、長い道中をへて帰還。前日は雪景色の中をあるいていたのがうそのような、秋晴れの福岡だ。

 チセとは、アイヌ様式の家のこと。このチセは旭川の川村カ子ト記念館という、道内でも一番古く100年ほど前にアイヌの方自身がつくられた私設博物館の一角にあるもの。今回の調査旅行では3か所をたずねあるいたのだけれど、どこでも、「アイヌやアイヌ社会で生きることを選びとってきた女性たち」の姿が印象的だった。数年前にゼミ合宿でお会いし、うかがった話はどちらかというと社会的運動に即した話が多かったのだけれど、それとはまるで質が違っていた。ものをいえない時間、仲間とつながった瞬間の喜び、さまざまな異論や圧力にふかれて、揺れながらも折れないで生きる姿。その場はさまざまなれど、その迫力にただ圧倒された。アンdo氏が「本当におもしろい、でも本当に難しい」と今回の旅を語ったそのことばにつきるものがある。
 なんでだろう。矛盾の抱え方がちがうんだろうか。運動での闘いは、実生活と矛盾することもあるかもしれない。でも家族にかかわることやなにやとなると、逃げ場のないぎりぎりのところで闘わねばならない。それは闘いというよりも、耐えることや逃げないことに近いのかもしれない。そこから発する声には、大地から芽生えた草花のように野太い美しさがあった。

 旭川市博物館でみたチセは、雪の日の夜のチセのなかに入って、その暗さやあたたかさを感じられる仕掛けになっていた。そこで低くつぶやくように語られるおばあさんの語り。こういう声にくるまれて、子どもたちは寒さをこえていたんだろうなあ。この博物館の既存のアイヌ観と博物館像にいどむ姿にも多くを触発されることとなった。

一気に冬!

2009-11-04 01:30:48 | 旅の記憶
 こちらは11月1日の旭川の夜景。旭川グランドホテルから。ゆきつけのリエコさんの威力で、とてもありがたいかたちで宿泊させていただいている。

 雪景色の夜景なのがわかります?? まさか11月あたまに、なのだ。しかも旭川はいちばん雪がふっていたらしい。
 なにせ秋からやってきた私たち、防寒の準備がまったくできていない。で、長靴を買いに行くことに。スパイク使用のさすがの裏底の長靴がたくさんならんでいた。興味しんしん。…なのだけれど、結局買ったのは皮のショートブーツ。結局どこで買ってもあまりかわらないのであった…。

夏から秋へ、今を生きるアイヌに学ぶ旅

2009-11-03 02:51:59 | 旅の記憶
 ただいま、北海道3泊4日の珍道中のさなかです。旅の連れは、アンdo先生とリエコさん。喧々諤々、あれこれやりとりの花をさかせながら、主に旭川を中心にアイヌの方々にまつわる話を聞いている。今年からあたった科研は沖縄研究とアイヌ研究をまたぐ形で行っていて、今回はアイヌ学習を学生たちと重ねてきたアンdoさんのプロディース。

 まずもって驚いたのは、日本の季節の奥行きの深さ。先週木曜までいた福岡は、まだ半袖の人もいそうな晩夏模様。それが札幌は冬一歩手前の晩秋模様、そしてその翌日の旭川は真冬の大雪になっている。

 札幌では、リエコさんのつてで、中島公園ヨコのパークホテルにとまることになった。さすがは、天皇のとまったホテル。室内環境はもちろんだが、なにせ絶景だ。写真はその上階からのもの。たぶん札幌一の公園の風景を、このホテルは借景にしている。
 そして初日のアイヌ刺繍のサナエさんの話は、自分と家族の人間の尊厳をぎりぎりのところで支えあっていきてきた壮絶としかいいようのない話だった。「アイヌは今を生きているのよ」…今回何度もきくことになるそのことばは、私にとっては重要なキーワードのひとつとなった。