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人に自然に耳を傾けながら、まちを歩こう。

路上生活者が帰ってきたいまちへ -抱樸館福岡3周年がみすえる社会

2013-07-28 11:50:45 | ともに生きる現場
 抱樸館福岡が、われらがQ大のそばにあってよかったと本当に思う。自転車なら15分~20分。院生の研究においても、授業を介して学部学生にとっても、さまざまな出会いや学びをいただいている。信頼する若者たち太鼓集団「響」との出会いも共有させていただけた。大学で学び研究する人間にとって、誰の「隣人」であらんとして、その研究や授業がなされているのかは、とても大事なことだと思っている。さまざまな偏見や社会のひずみを一身に背負って地域や社会とのはざまで葛藤する抱樸館は、その思いを託しうる人々と実践だという思いが、時間を重ねるほどに深まっていく。

 そんな抱樸館福岡の青木館長から、3周年記念シンポジウムの進行役をひきうけてほしいという依頼があった。もちろんありがたくひきうけさせていただいた。北九州ホームレス支援機構・奥田知志さんとの事前打ち合わせでは、本やら資料やら、どさっとおみやげをいただいた。そうだよな、これだけの蓄積に学びなおしてしか壇上にはたてない役目だ、と襟をただす思いでその資料の山をながめた。7月半ば以降、私は社会教育主事講習の運営に忙殺されているが、資料は常にかたわらにおき、ひまがあれば読み込む、というスタンスを当日まで続けた。
 当日登壇者は、奥田さん・青木さんのほか、生活再生相談(家計相談)の実践で全国を牽引しているグリーンコープの行岡みち子さんや、厚労省の矢田地域福祉課長、福岡市の平田保護課長など、全員が全国一線級のデラックスな顔ぶれ。圧倒されるばかりだが、幸いほとんどの方と登壇前までにお人柄にふれる心安い関係を築かせていただいていた。そして話は刺激に満ちたものの連続で、たじろぐ思い以上に、お一人お一人の話やコメントの見事さにひきこまれるところのほうが大きかった。

 不勉強な私にもわかったのは、国がいままさに可決にむけて尽力している新法「生活困窮者自立支援法案」が、単なるホームレス対策ではなく、高齢者むけ、障害者むけといった個別法でもない、非常に総合的な法であるということだ。「生活困窮者」とは、きっとこの社会の「わたしたち」のことだ。そしてここでの「生活困窮者対策」は、第1のネットとされる社会保険制度と、第3のネットとされる生活保護の「間」となる、求職者支援制度と生活困窮者対策を中心とする第2のネットとして構想されていた。…私も常々人間の自立は、即自的・対処療法的な対策ではなく、ジグザグしながら移行していく生身の人間をこそ支える「間」が必要だと思ってきたが、この新法はまさにその「移行」を支えるしくみをめざしていたのだ。(よほど根幹的な法なだけに、このしくみを動かす「人」と「経営的センス」がよほど必要だともおもったが…)

 しかもその基本的な考え方と、具体的個別的政策である、住居喪失者へのシェルター、生活困窮者への家計相談(≒生活再生)、一般就労が困難な人への中間的就労などは、どれも抱樸館やそれと関連する北九州ホームレス支援機構・グリーンコープが、現場から先進的にたちあげてきたことだった。
 制度のすきまにこぼれおちた問題の現実から「現場」が社会のしくみを動かそうとし、国の機関ががそれをうけて国会を動かそうとしている。その社会が熱く動くダイナミズムがこの壇上にはあった。きっとフロアにもその「熱」はとどいたに違いない。

 そして何よりおもしろかったのは、よく教育や福祉にある、「それが大事なのはわかっている。でも財源がない」「国のパイの配分をかえねばならない」といった財源駆け引き論をこえた議論に展開していったことだ。
 転機は福岡市の平田課長の「自治体も、国が予算を配分してくれなければ、厳しい」という正直な発言、そしてそれをうけた行岡さんのひとことだったと思う。「家計の破綻に至る前に生活できるように再生すれば、税金をおさめて国を支え、購買もして企業も支える。助け合いって、心の問題じゃなくて、経済効果までもちうるものですよね!」

 そうなんだと思う。家庭が、地域が、企業が、行政が、きちんと再生してそのしくみをまわし、その付随物としてお金もまわるようになれば、おのずから社会も循環するのだろう。「地域」も「企業」も、この社会の人・機関のすべてが、この社会を再生するために誰一人欠かすことのできない大事な主体だ。そしてそれらすべての根幹にあるのは「人の再生」なのだろう。
 それらを必然とするほどにゆがんだ社会・ゆがんだ時代だからこそ、人の再生にかかわる教育とりわけ社会教育が価値をみいだされず、お金もまわされない。「ホームレスの社会復帰って、そんなに復帰したい社会ですか?」とは奥田さんの言葉だ。そこからの逆転はきわめて厳しい道のりだけれど、でも、この「人の再生」を見つめ続ける領域を消してはいけない、いまの時代にみあったかたちに再生しなければ、とふるいたたされた。
 自分の仕事の意味を再確認させてもらえたのは、このシンポが人間と社会の本質につきさす射程をもっていたからだろう。彼らの挑戦の「隣人」あるいは同志でありたい。この3周年シンポを経て、改めてそう思わされたのだった。
 

大きな再会 -よりあいの森へ

2013-07-14 19:26:37 | ともに生きる現場
 まだ私が福岡で院生をしていた最終ラウンドのころ、「宅老所よりあい」はこうした形態のさきがけの実践として、全国的に注目を集めていた。お年寄りが「よりあいにいこう」とお寺に集うのはごく自然なことだ。その延長上でお寺の境内のなかに通所の現場を構えながら、施設福祉の限界を痛感していた専門性の高いプロの支援の場として「宅老所よりあい」は存在していた。当時から詩人の谷川俊太郎さんはここのファンで、ここにはエロス(もちろん性的、というより、それも含めた生命力から来る何かをさしているといったほうがいいのだけれど)がある、なんて表現をされていたなあ。
 私はこの実践に魅力を感じて、福岡最後の1年くらい、頻繁にここに通っていた。というより一緒に運動をしていた。「第2よりあい」をつくる運動がもりあがっていたころでもあった。埼玉にうつる際には、代表の下村恵美子さんはじめみなさんに、お別れ会をしてもらったり印象に残る別れを刻ませていただいたことを、ありがたく思いだす。

 なのだけれど、すっかり御無沙汰を重ねてしまっていた私。あの別れを経て、いまやもう15年がたっていた。福岡に戻って4年たつのに、私はあいさつにもいっていなかった。 そんななか、ひょんなことから、子どもNPO活動をされている知人に、おもしろい地域の居場所ができたのよ、とさそわれて、おたずねしたのが「よりあいの森」…そう、まさにあの「宅老所よりあい」の現在、にばったりでくわしてしまったのだった。出迎えてくださる予定の方は子ども劇場運動の大先輩古賀さんとうかがっていたのでふいをつかれてしまったが、うかがってみると下村さんとも、まさかの再会となった。下村さんは懐かしげに、私のことを覚えていてくださった。

 …なんて書いていくとただの追憶記事のようだが、私がこの記事をどうしても書かなきゃと思ったのは、そうじゃない。私もこの15年にはいろいろあったけれど(願わくば成長していたいとも思うけれど)、彼らの活動の15年の「進化」、がとても学び深かったからだ。「以前」を知っているからこそ、15年の変化がとても印象深い。「よりあい」は専門職としての厳しい自省が強いられる事態を経て、本当の意味で地域と向き合おうとしていた。

 主に語ってくださったのは、現代表の村瀬さん。その語られる言葉の重さも、以前の村瀬さんの印象とはまったく異なるものだった。
 ある時期、「よりあい」はにっちもさっちもいかなくなったのだという。
 よりあいの前を通りかかる人々は、「うちの地域によりあいがあってよかったね。いざとなったらここに頼れるね」と語っていたという。職員は地域・家族の期待にこたえ続けた。しかしその結果待っていたのは何だったか。
 職員はぎりぎりまで働いて、過労死寸前になった。よりあい特有の「必要があればお泊まり」は+αの活動だっただけに、利用者が増えるほどに職員を圧迫する。それで利用者を制限すると、組織の財政をひっ迫させてしまう。時代の流れの中で、構造的に限界が来ていた。
 そして。ある方の葬儀の場で、「ほら、お母さんに手をさすって語りかけてあげてください」と娘さんに職員が語ると「私には母のそばに行く資格がないんです。よりあいさんが家族同様でしたから」とひいてしまったということがあった。それはある種の衝撃だったという。自分たちは何をしてきたんだろう。専門職の自分たちがふんばって、家族も地域もどんどんひいていく。これでよかったのか。

 悩み、考えて、地域の場をつくるところからやりなおすことにしたのだという。専門職と家族と地域が、三つ巴で一緒に汗を流す場を作る。それは成功するかはわからないけれど、そうするしか道はないという信念のようなものが「よりあい」には芽生えていた。そんなとき、福岡市内住宅地のなかの大きな森に囲まれた一軒家を買いませんかという話がきたのだという。敷地内の見事な森を維持したい。よりあいさんになら売ってもいいというのが、この敷地と森を守ってきた親族の思いだった。「よりあい」は自分たちがやろうとすることを、近い将来に不安をかかえる高齢者やその家族を中心とする市民にかたりかけ、必要資金の1億2000万を集めきった。自分の入る施設のための投資ではない。本当の地域をつくるために出資してほしい、それがないといくら施設があっても安心はないという語りを理解してくれた市民がそれだけいたということだ。そこには今のご時世にあって、信頼しうる市民の成熟もまた存在することを示しているように思う。

 私が訪ねたのはそうしてできた「よりあいの森」であり、そこに古民家を改装してオープンした土曜限定の「森のカフェ」だった。
 この「森のカフェ」は、お金を出した人も働く人も皆同等。職員が一生懸命食事をつくって、4時ごろああ疲れた、と一休みして、最後にお金を払って帰っていく。きっと、もう、ボランティアという言葉も少し違っているのだ。ばらばらになった専門職ー家族ー地域が、「一緒に汗を流すことを、あたりまえにする」現場だ。いいかえれば、それぞれの立場において「ともに汗を流す人になる」ことを暮らしの中で訓練する場がこのカフェであり森の空間だということなのだろう。
 そしてこのカフェをつくったその先に、同じ「よりあいの森」のなかに、彼らは特養ホームをつくろうとしている。

 新しい「地域」をみる思いがした。「看取りの経験がとても重かったのです」という村瀬さんの言葉を学び深く思う。専門職として真剣に老いと死に向かい合う経験、一人ひとりの人生・生活に向き合ってきたその重さと蓄積が、彼らをはぐくみ、その彼らが地域を求めずにはいられなかった。「死」という圧倒的な自然に向き合うことが、この転換点の未来をきりひらいている。それは私がいまあちこちで出会っている過疎地まちづくりとも共通する部分があるように思う。
 そして新しい「専門職」像をもまた見る思いだ。「よりあい」はもともとプロとしての自負の強い集団だ。その彼らがひとつの殻をぬぎすてて、あらたな専門職像をつくりだそうとしている。「地域の茶の間とプロの仕事の合体、の段階から、もっと専門職が「くらし」のなかに降りてきて、そこで家族や地域との「ともに」を実践する。そのうえに改めてプロの仕事を位置付けようとしている。
 老いること。死ぬこと。人が生きるということ。それもまたまがいもない、「暮らし」の足元の話だ。それを掘り下げていく時、このグローバル社会のモードとはまったく異なるモードを確立せざるを得なくなる。

 この「よりあいの森」は、もうひとつのモードを私たちが真に「はたらき」ながら実践し獲得していく、そうするなかで「ひとりの人生」「私や家族や誰かの人生」にじっくり向き合っていきながら、自分の暮らしを確立し、老いを支えあうしくみを創造していくに、とてもふさわしい「場」だと思った。
 本当は素敵な写真をたくさん撮らせていただいたのだけれど、今回はこの森の入口の写真をかかげるにとどめたい。この「森」も、そしてこの森と私の出会いも、まさにこの「森の入口」から、新たにはじまっていく。そう信じて。