Walking Holidays ~ニュージーランド編~

大好きなトレッキングを中心にニュージーでの生活を綴ります。なのでWorkingではなくWalking Holidays!

動物と肉。

2012-12-10 | つれづれゴト。
ニュースを見ていて、ふと思ったこと。

畜産農場で子豚が蹴られたりの暴力を受け、ヒドイ扱いをされているというニュースをやっていた。
別にさいごは肉になるのだからってことで、モノとしか扱ってないのだろうな。

それを見ていて思ったのは、
生きているうちに、子ブタにしろブタにしろ、何度お目にかかる機会があるのだろう?

肉を食べる人は、ほぼ毎日、牛・ブタ・鶏の肉を目にしているでしょう。
けれど、生きているその動物たちに会うのって、そう多くはないはず。

ほぼ毎日食べているのに、その本体のこと、本体がどのくらいの大きさで、どんな感じで生活しているか、
ほとんどの人は知らない。

よく考えたら奇妙な話。
毎日、動物の体の一部を食べているのに、その動物や動物の生態のことなんて未知なる世界のことのようで。

まあ、別に知らなくたって困ることは無いと思うけれど。
今の世の中、誰かが代わりに肉にしてくれるのだから、肉に飢えることもないでしょう。
スーパーがある限り、簡単に手に入るはず。

けれど、それでいいのかな?
都会で生まれて、肉は肉屋やスーパー切り身になったものを買うのが当たり前で育ったので、何がヤバいのか実感としてあまりない。
(私の場合はフィッシュイーターなので、魚なのですが。)

けれど一つ、体験から自分の言葉として言えること。
鳥を絞めた時のこと。鳥の命の灯火を消すあの寸前の鳴き声は一生忘れられない。
命が消されると分かったときの、あの声といったら・・・。けれど、自分たちは毎日それを人任せにして美味しい部分だけ頂いているんだ。

生暖かい鳥の体を解体し、いつも見る「とり肉」にして、焼いて、さらに盛りつける。
何の変哲も無い鶏肉だけれど、その時の自分の目に見えるそれは、「いのち」だった。

ちょっと前まで鳥小屋の中をウロウロしていた、あの子。
まさに命の上に自分の命が成り立っていると感じたときだった。絶対に無駄にできない、したくない。

自分で解体することで、なにがどう変わるのか。
うーん、普通の生活に戻るとすぐに忘れてしまうかもしれない。
別に解体しなくたって、動物に接するだけでも良いと思うけれど。

命を潰すのは簡単に出来てしまう。
しかし、もう二度と戻すことはできない。
裂いた部分を完璧に縫ってあげても戻らない。
そんな命を日々自分の体に取り入れて、自分の体は動いている。
そんなことを思えることが、豊かなことなのかどうかは分からない。
けれど、自分はそれを知れて本当に良かったと思っている。

結局とりとめも無くなってしまたけれど、直感的に、やっぱり自分が食べる「いのち」のことは知っておいたほうがいい気がする。
自分の健康のため。そして心のためにも。

あ、野菜だっていのちですよ。





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