湘南ゆるガシ日和 ・・・急がず、休まず

湘南でゆるゆら暮らしココロ赴く先へガシガシ出かけるライター山秋真が更新。updated by Shin Yamaaki

6・15ANPO@東京・安田講堂:記録と記憶/アンポとゲンパツ

2010-06-22 23:55:49 | 本/映画/音楽/番組
6月15日(火)、東京大学安田講堂でひらかれた
「シンポジウム 60年安保闘争の記録と記憶」へ出かけた。

コーディネーターは
社会学者で東京大学大学院教授の上野千鶴子さん。
主な著書に『近代家族の成立と終焉』(1994年)、
『おひとりさまの老後』(2007年)などがある。

パネリストは、
60年安保の真実』『昭和陸軍の研究』などの著書がある
ノンフイクション作家の保坂正康さん、
『<日本人>の境界』『1968』などの著書がある
社会学者で慶応義塾大学教授の小熊英二さん、
今夏公開予定の映画『ANPO』を監督したリンダ・ホーグランドさん。
さらに
歌手の加藤登紀子さんが特別ゲストという豪華さ。

18時開場で18時半開始ときいていたので
早め到着のつもりで18時すぎに安田講堂につくと
すでに並んでいる人の姿が。「まさか…」と思わず絶句。

本当なら、急いで列の最後尾につきたいところ。
でも今日は2010年6月15日という特別な日。
1960年の第一次反安保闘争で圧死したという、
当時東大の学生だった樺(かんば)美智子さんの命日だ。

この日にこだわり、さらに
1968年の第二次反安保闘争で大学から依頼をうけた警視庁と
全学共闘会議(全共闘=学生側)が攻防戦をくりひろげた
東大安田講堂事件の舞台・安田講堂という場所にこだわって
開催されたシンポジウム「60年安保闘争の記録と記憶」。

せっかくこれに来たのだから、
この、こだわりの日の、こだわりの場の写真を
1枚くらいはカメラにおさめておきたい。



その間も人がつぎつぎ中へはいっていく。



安田講堂のキャパは約1000人。
2階席の隅にすこし空席はあったものの会場はほぼ満員で、
予約申し込みがあった約200人を断らなければならなかったとか。
舞台正面近くのいい席はすでに埋まっている。
この日は映画『ANPO』のダイジェスト版上映もあるから観やすい席を
と思ったけど、1階席が空いていただけでもよしとしなければ。

会場をみまわすと、一見して年配者比率が高めの印象。
そうか、安保闘争を同時代で見聞き体験した人たちが多いのか。
これはやや衝撃的。
日々の語彙に「安保」という言葉がある大人など
わたしの身近にはついぞいなかったから。

でもそういえば、60年ころなら父が東大に通ってたかも?
生きていれば話を聞けたかもしれないけれど、今となっては無理。
かくしてわたしにとっての「安保」は
隔絶された遠い出来事、という印象しかなかった。

…本当にそうなのだろうか?
ボチボチ考えるため、手もとのメモを記録しておく。

 ***  ***  ***
シンポジウム冒頭、コーディネータの上野さんがいう。

 「60年反安保闘争は戦後日本最大の社会運動だった。
 しかも失敗に終わった。
 わたしたちは2010年6月15日にこだわった。

 日米安保
 米軍の普天間基地移設問題で政権が転覆したほど重大な問題で、
 60年安保を考えるということは過去をふりかえることである上に、
 今日に至るまでわたしたちを縛っているものを考えることだから。
 
 もう一つの理由は、6月15日が樺美智子さんの命日だから。
 樺さんは当時22歳。あれから50年、いま生きていたら72歳になっている。
 この日に安田講堂でこのシンポジウムを実現できることが嬉しい。
 これは、映画『ANPO』の最初のかがり火を、どうしても6月15日に
 安田講堂でやりたい、という監督の熱意にみんなが動かされて実現した」

『ANPO』の監督・ホーグランドさんも口を開く。

 「わたしは米国人宣教師の娘として愛媛や広島で生まれ育ち、
 日本語がこんなにペラペラになった。その後、日本映画の
 英語字幕翻訳を手掛けるようになり、色々な日本の映画監督の映画を
 数々みるうちに、1960年にトラウマがあるようだと気がついた。
 そこで、アートを通して日本人の米軍基地への思いを表現したい
 と思った」

『ANPO』ダイジェスト版の上映後、ふたたび上野さんの声が響く。

 「3つの問いが成り立つ。
 60年安保の何を記録し、何を記憶しつづけようとするのか?
 すなわち<what>の問い。
 いかに記録し記憶しつづけようとするのか? という<how>の問い。
 何のために記録し記憶しつづけようとするのか、すなわち<for what>。

 反安保闘争に当事者としてかかわり、
 ジャーナリズムという方法で聞き書きをした保坂さん、
 歴史家として安保に取りくむレイトカマーで当事者ではない小熊さん、
 外国人として映画で安保を描いたリンダさん。
 60年安保と68年安保の共通点として、
 高度経済成長のなかでの政治闘争だった、ということがあるが、
 失敗した社会運動から何を学べるか? という問いもたつ」

頭に白いものが目立つ、背広姿の保坂さんがマイクをもつ。

 「60年当時わたしは20歳、大学2回生だった。
 学生運動に直接かかわってはいないが、
 『日帝は自立している』と考えるブントのシンパだった。
 6月15日、京都では4万人くらいの学生がデモに集まった。
 わたしは安保条約について詳しくは知らなかったし
 集まった学生の多くも知らなかったと思う。

 なのになぜ、あんなに大勢あつまったのか?
 それは、岸信介首相(当時)の存在が大きい。
 岸の、暴力的運営手法への嫌悪感が大きかったと思う。

 当時私は京都にいた。デモのために東京に来ると、
 京都と違って、権力と闘う自分が妄想された。
 国会議事堂にむかう自分をヒーローのように感じ、ヒロイズムに酔った。

 60年安保の特徴は2つあると思う。
 まず、日本と満州が交わした日満議定書と似ているところがある。
 つぎに、「2度と戦争をしない」という思いがあったところ。
 戦争への嫌悪感、「戦争はもういい」という思いが背後にあった。
 だから「戦犯である岸を首相にして安保なんかやっていいのか?」と。

 ところで、
 日帝は従属している(共産党系)、いや自立している(ブント)という
 議論に終始する限り、同時代の政治闘争にすぎないのではないか?
 と思ったわたしは、その後聞き書きをはじめた。
 歴史と向きあったとき、日本の兵士や指導者たちは
 なぜ戦争をやったのかを、具体的に明かしていこうとした。

 そして次の結論に至った、すなわち
 記憶と記録は、記憶を父と、記録を母として、
 教訓という子どもを産んだ。それは時代と向き合うということだ、と。
 
 あの戦争に走った時代、それは近代日本の亜種か、宿痾(しゅくあ)か?
 亜種だったと思いたい、でもそう思うには悲しい事実もある。
 それを考えるとき、1960年にたちもどる」

大学院生のような風貌の小熊さんがマイクを手にする。

 「60年安保は何だったのか、
 それを記憶し記録するとはどういうことか? 
 60年安保に集まった人たちはバラバラだったけれど
 『戦争をくり返さない』という思いは共有していた。
 この思いが国民的な広がりをもった。
 『国民的な』というのは、
 外国への訴求力はなく、かつ米軍基地が沖縄に集中していく、
 という限界をふくめ、文字どおり『国民的』だったと思う。

 では、なぜこの思いが国民的な広がりをもったか? 
 それはやはり<戦争から15年>という事実が欠かせない。
 あの戦争で、沖縄本島では3人に1人が、
 内地をふくむ日本で25人に1人が死んでいるし、
 5人に1人が家を失っている。つまり戦争がまだ生々しい。

 もっとも、不幸が平等に降りかかってきたわけではない。
 軍隊では位(くらい)が下になるほど死んでいるし、
 一般人でも役職や立場が下になるほど被害が大きい。
 決定権限をもつのも物資をまわすのも、まず偉い人からだから。
 たとえば疎開児童なら、
 教師→班長→一般児童、という順で被害が大きかった。
 自分より上の立場の人におべっかを使わないと、
 いじめられ物資の配給ももらえない、といった具合に。
 密告も渦巻き、戦争に反対するようなことをいえば
 密告されるなど、相互不信も蔓延した。

 そういった相互不信社会への嫌悪が、戦争への嫌悪だった。
 だからこそ戦争が終わったことが嬉しくて、
 頭上の空が、いままでにない青空にみえた。
 それが、
 安保というアメリカの影によって再び暗くなり曇ってしまった、
 またあの相互不信社会がくるのか? それはイヤだ。
 …この思いが、反安保闘争のあの1カ月の盛りあがりをもたらした。
 反安保闘争の1カ月、日本は青空を回復したかにみえた。
 けれど失敗に終わり、ふたたび空は曇ってしまった…。

 では、60年反安保闘争の盛りあがりはなぜか?
 それはまず、岸信介首相(当時)の手法が強行的だったから。
 次に、岸が元官僚、つまり戦争で一番役得した種類の人間だったから。
 さらに、民主主義が、敗戦後の青空の記憶と結びついていたから。
 青空の記憶を、汚れた官僚の岸が、踏みにじるなんて許せない―
 人びとは、そんな思いをいだいた。

 ところで、何を記憶し記録するのか? 何のために? 
 リアルタイムで事件を記憶している人はいまや少数派になった。
 あと20-30年もすれば亡くなっていくだろう。
 そのとき、現在生きている人びとに記憶を残すことの意味は何か
 と問えば、今でも残りつづけているトゲを何とか抜いていくためだ。

 トゲを、如何に抜くのか? 
 と考えたとき、戦争の記憶・安保の記憶にもどる。
 それをしないなら、頬かむりして、トゲが刺さったまま生きるしかない」

3人とも弁がたつうえ、話したいことは尽きなくある様子。
時間の制約から、コーディネータが3人の答えを整理していく。
 
 「なぜ安保を描くのか? という問いへの3人の答えは、
 あの戦争の敗戦の記憶は今日もトゲとなっていて、
 わたしたちはその痛みを背負うからと、奇しくも共通だった。
 
 つまり反安保闘争はあの戦争のトゲであり、だからこそそれを描く。
 60年、68年という第一次・第二次反安保闘争がおきた年を
 ピンポイントで捉えているのではないのだ」

その後、アートという方法をとった理由や
権力者にインタビューをしなかった理由、
文献のみをあつめて証言をきかなかった理由など、
上野さんからパネリストへの質問がつづいた。
それに対する答えは、
アートが入りやすかったうえ言語なしで伝わるから(ホーグランドさん)。
権力者にまったくインタビューしなかったわけではない、
戦争をやった人たちには意図的に聞いた、岸に取材しなかったのは
正直に話さないと思ったから(保坂さん)。
記憶はあてにならず記録の方が確実だから証言を聞かなかった(小熊さん)。

最後にそれぞれ一言はなし、加藤登紀子さんは詩を朗読。

 「60年安保を語ることは、戦後日本のゆがんだ日米関係を語ること。
 普天間基地の移設問題が日米安保条約の問題に転換しなかった。
 この事実からも、60年安保を問い直す意味は大きい」 (上野さん)

 「日本に抵抗の歴史があることを(世界に)発信したかった」
                    (ホーグランドさん)

 「60年安保を考える意味は、
 あの高揚の記憶と、日米関係の非対称性/問い直しにある」(小熊さん)
 
 「60年安保でわたしたちが行きついたのは、
 戦争をするには条件があり、それを満たさないと戦争はできない、
 ということ。日本はそれを(満たすことを)しないと決めた国なんだ、
 と、子世代に伝えたい」(保坂さん)

 「60年安保のときわたしは高校生だった。
 安保闘争を勝ち負けで語りたくない。生きている限り闘い続ける。
 だから負けてなんかない」 (加藤さん)

樺美智子さんに黙とうをささげて、シンポジウムは終わった。

  ***  ***  ***

異なるアプローチで同じ対象に取りくむ人が一同に会したためか、
完全なるレイトカマーのわたしにも、
60年安保というムーブメントがどういうものだったか
それなりに立体的に立ちのぼってきたシンポジウムだった。

ただ、語るべきことを少なからずもつ人が複数つどったのに
それを出しあって展開させていくには時間が十分でなかった感はある。
午後いっぱい程度の時間があれば、さらに面白い内容になっただろう。
もっとも、そんな長時間参加できる人は少ないだろうから、
このシンポジウムのメモリアル的意味を考えると現実的でないけれど。

          ***

映画『ANPO』についていえば、ダイジェスト版ながらパワーがあった。
それを観ながら、
米軍基地を身近に感じながら暮らした時期が
そういえばわたしにもあったことを思いだした。

横須賀に住んでいた中学時代、
日曜の朝にたたき起こされ連れていかれた教会は
米海軍基地(ベース)の隣だった。
教会は幼稚園を併設していて、
2階建ての園舎の背をしのぐフェンスがベースと教会の間に建っていた。
フェンス越しにひろい道路と緑深い敷地が見えていたけれど、
通りぬけるための通路や戸はなく、もちろんフェンスは越えられない。

時を経て、あれはたしか93年の夏、
おそらく横須賀から厚木へ向かうルートにあたっていたのだろう、
ここ湘南でも、米軍の戦闘機の騒音が激しい時期があった。

電話の声はもちろん、テレビの音も聞こえない。
一機の騒音がようやく遠のいたと胸をなでおろしても、
1分とたたずに次の戦闘機の爆音が轟(とどろ)き、
それが夜の9時、10時、ひどい時は11時ころまでつづく。
これでは乳児は泣き、病人は眠れず、受験生は勉強できないだろう。

わたしは家で翻訳の仕事をはじめた頃だったので
あまりの騒音に仕事もできない苦境を訴えようと市役所へ電話した。
ところが「それは国のことなので市に言われても」とぞんざいな対応。
「米軍戦闘機の騒音で住民が困っているのだから、苦情を受けつけて
住民の窮状を掌握する担当部署はないのか」ときくと、答えは「ない」。
当時は、それさえなかったのだ。

「ではこの窮状をどこに訴えればよいのか」と問い詰めてようやく、
横浜にあった防衛庁(当時)の出先機関のようなところの電話番号を
教えられた。そこに電話した時には既に気力も萎えはじめ、
電話先の事務的な対応にますます疲労を深めた記憶がある。

あのとき思った、基地の問題はなんて語りにくいんだと。
安保条約は、基地よりもさらに語りにくかった。
それはわたしが生まれた時から既にデフォルトで存在し、
あまりにも構造的にそして重度に暮らしを依存させられている。

日米安保条約は原子力問題に似た面があるかもしれない。
基地は認識できる、それなりに。その問題性も含めて。
けれど安全保障条約を認識すること、問うことは難しい。

原子力発電も認識できる、
その危険性や問題性を語ることも、今やそれほど大変じゃない。
なのに、電気を認識すること、問うことは、やりづらい。

…なぜなんだろう。
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