水静かなる江戸川の
流れの岸にうまれいで
岸の桜の花影に
われは処女となりにけり
3年前にMRIで脳を調べてもらったことがある。記憶を司る部分の血管が詰まっているのではないかと思ったからだ。記憶中枢がどうもおかしい。最近、特に当たり前の単語が出てこない。例えば、過日行われた大学のクラス会で、『秋刀魚の歌』の佐藤春夫は出てきても、サトウハチローの名は出てこなかった。記憶箱の扉にロックがかかってしまっている。「佐藤春夫でなくて、ほら、カタカナの---小さい秋の---」なんて呟きながら、やっとクラスメイトにハチローを出してもらった。日常使う単語でも、リモコンやシャモジにロックがかかっている。「ほれ、テレビのチャンネルを替えるヤツ、ええと、そのぅ--」。例を挙げたら切りが無い。無尽蔵にある。
ところが、これと正反対のことが時々おこる。或るとき、或る場所で、何の脈絡も無いのに、或る情景や言葉が、ふっと脳裏を掠めて甦る。
食事をしている最中に、「ボーデの法則」と呟く。国会中継のテレビに向かって「ベネルックス三国」と詰る。はたまた、夜中に飛び起きて、「エルべの誓い!」と叫んだ後、「チゴイネルワイゼン」とぶつぶつ言いながら、また布団に這い入る。これらは全て、私個人の記憶箱の中に収納されているものであることに間違いは無いのだが。
先日、地元の丘陵地帯を歩いていたとき、急に、自分の高校時代の姿が甦った。高2か高3時のクラスの中だ。休憩時間だったと思う。「故」(かれ)だったか、もっと字画の多い漢字だったか、今は覚えていない。或る本を読んでいて、どうしても読めないので友人に訊いた。T君は即座に答えてくれた。彼は鎌倉の禅寺で修行していたという経歴の持ち主。我々より年上なので、「~さん」と呼ぶ者もいる。懐の深い秀才で、しかも誰もが認める人格者だったからだ。
いまT君が何処で何をしているかは知らない。彼は千葉大の医学部を出て、その後、沖縄の寒村で医者をしていると聞いた。彼のことだから、「赤ひげ先生」を地で行っているものと思う。
話を元に戻す。散歩中に急に我が脳裏に浮かんだ教室の場面だ。次は、T君に誘われて江古田にある英語の先生宅に遊びに行った場面だ。先生は我々を歓迎してくれ、教科書に出てこない作家や詩人の話など、向学心をそそられる話を沢山してくれた。我々生徒の中では、T先生は物凄い勉強家ということで通っていた。私の大学時代だったか、「君は豊田先生の薫陶を受けているんだろう?幸せもんだ」と言われたことがある。T先生は東京外語大の出なのに、何故豊田実先生を知っているのだろう」と、そのときは思った。だが、学生時代に、芥川龍之介も一目置いた人だし、英語英文学会の功労者だから、勉強家のT先生なら、当然知っていたのだろう。
その次に、クラスの者たちと一緒に誘ってくれたのは、江戸川ピクニックである。彼が作成したガリ版刷り案内の冒頭部分に出ていたのが、このページのスタートにある「水静かなる江戸川の---」である。
万葉集や白秋ゆかりの江戸川ピクニックだから、この若菜集「おえふ」を紹介したのだろう。それ以来ずっと、T君の書いたものだから、若菜集の江戸川は現在の江戸川と信じていた。
ところが、昭和42年1月1日号の『ニュー サイクリング』に「市川・船橋の丘陵地帯」--都立小岩高校サイクリング同好会
に、写真と図面入りで8ページ分の文を載せた。その中で「水静かなる江戸川の--」を紹介した。それを学校で見せたところ、当時の国語教師O先生が、「あ、これ違う、吉田精一さんも間違えている」と指摘された。
調べてみると、藤村の江戸川は神田川の一部のことだと分かった。江戸時代は、皇居のある江戸に向かう川は、いずれも江戸川で、神田上水の一部も江戸川であったということだ。現在の江戸川は利根川を改修して出来たもので、古くは太日川(ふとひがわ)と呼ばれていたそうだ。
となると、江戸川高校・校歌一番の「武蔵野の 東を限る江戸川の ゆかしき 流れ名に負ひて」だが、この江戸川は藤村以前には遡れないのだから、「ゆかしき」は、これでいいのか?という話題も生じる。また、現在の江戸川区は「葛飾野」であろうから、「武蔵野」の東限は江戸川でいいのか?という議論も生じる。ま、この校歌の作詞者である内田小巌は、そこまでは考えなかったであろうが、卒業生としては、生徒の時の心境のまま、と言うわけにはいかない。
以上は、先日の体験である。今後も、地元の自然の中を歩きながら、とんでもない過去の瑣末な事ごとが甦るのであろうか。