元高校教師のブログ[since2007/06/27]

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我が茂原農高へのオマージュ

2008-01-22 09:52:46 | エッセイ
 《我が茂原農高に捧げる》

 私の大学4年生3月のある日、一通の電報を受け取った。「モバラノウギヨウコウコウニサイヨウシタシ ホンヒアイタシ」今から50年近く前には、家庭に電話など無い時代であった。昼頃だったと思う。小岩の家には誰もいなかった。その暗号文から茂原農業高校を読みとるのにだいぶ時間がかかった。当時の私は茂原という土地を全く知らなかったのだ。それからが大変。地図や時刻表を購入してきてテンテコ舞。
 
 当時の国鉄千葉駅は現在の所にはなく、敷地がやけに広い、駅舎も古びた平屋であった。自分の利用するホームを捜すのに大変だった。何と0番線だったのである。大網でのスイッチバックにも肝を冷やした。なにせ初体験だったので、列車が銚子の方へ行ってしまうのではないかと思ったのである。当時は1本逃したら大変なことになる。当時の茂原駅に着いた頃には辺りは真っ暗。

 ところで、ギヨウギヨウコウコウは何処にあるんだ。今の茂原を知っている人は信じないと思うが、家の灯や街灯の全く無い闇の田舎道を、あてど無く歩くことになったのだ。しかも石ころだらけのダートで、途中何度も転倒した。やっと林の中に灯が見えたので、入っていくとそれが中学校。

 そんな思いをして目的のコウコウに到着。教頭先生が火鉢に手をかざして待っていてくれた。それから後のことは覚えていない。

 県立茂原農業高校は、千葉県で最初にできた農学校で、環境も生徒も素晴らしい。敷地内に大規模な農場が広がり、畑の他に果樹園、畜舎、花栽培のハウス、茶畑、桑畑、農産物加工施設などがある。さらに市の郊外に水田、外房の三門(?)の山には演習林、という具合に、まるで東大農学部並である。

 農業科はもとより、農村工業科、農村家庭科、農業土木科などがあり、味噌・醤油・お茶・牛乳・花・野菜・落花生・豚肉など、市内の主婦が買いに来る。後に園芸科もできた。私など正月休みには、豚肉や落花生の麻袋を背負って、東京の実家へ帰ったものだ。敷地内に阿久川という川が流れ、ホルスタインが土手の草をはみ、その向こうに広大な農場が広がっている光景は、まさに宮沢賢治の世界。あまりにも広いので、ベルやチャイムでは役に立たず、授業の区切りはサイレンを鳴らしていた。

 生徒は千葉県各地の優秀な農家の後継者が「考える農民」を目指して集まるので、敷地内に「青雲寮」と言う寮がある。この寮生たちの監督ということで、私も一時舎監として彼らと寝食をともにした。その寮のホールに、江戸時代後期の儒学者・教育者で、その塾から大村益次郎や高野長英を輩出した、広瀬談窓の漢詩が額に納まっている。

休道他郷多苦辛  言ウヲ止メヨ 他郷苦辛多シト
同抱有友自相親  同胞友有リ 自ズカラ相親シム
柴扉暁出霜如雪  サイヒ暁ヲ出ズレバ 霜雪ノ如シ
君汲川流我拾薪  君ハセンリュウヲ汲メ 我ハタキギヲ拾ワン

西郷ドンのような風采の校長が寮にやってきては、この詩の前で口ずさみ、ウーンこれはいい、ぴったりだと巨体をしきりにゆさぶって悦に入っていた。明治・大正のムードあふれる古き良き農学校。

 かくして青二才の私は、その茂原農高に3年間お世話になるのである。
(※いずれ、この続きを考えている)

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2 コメント

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なるほど (49年卒)
2012-10-27 11:07:55
39年前に 記憶たどると 味わい有る先生が、沢山居た感じが、しますね。
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何となく (ひろくん)
2015-02-23 05:50:56
私が在籍中も寮はありましたねU+1F3B5その後、廃止になりましたが、、、昔の茂原農業では、色々な加工食品が作られていたようですねU+2049最近になって調べてみましたU+2757中でもコーヒー牛乳も生徒が作っていたらしいのですが、何年頃でしょうか?お分かりの方がいらっしゃいましたら教えて頂けますか。
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