そこで、現代詩の「荒地」の詩人であった高野喜久雄の『独楽』と『レコードのように』をもとに、『私に人生と言えるものがあるなら』との関連を述べたい。
外国の曲にザ・ナターシャセブンの笠木透が詩をつけ、高石友也とその仲間が歌う『私に人生と言えるものがあるなら』は不思議な歌だ。https://youtu.be/AeABJGJaCuY
https://youtu.be/lju0_DCRPRM
全く関係ないのに、何故か「荒地」の主張を思い起こさせる。荒地グループの名は、あのT.S.Eliot の『荒地』に由来するもので、現代は荒地である、という認識に基づくものである。
この高石ともやが広めた歌「私に人生と言えるものがあるなら/あなたと過ごしたあの夏の日々--」。
ここで「荒地」で言うところの人生を思い起こすのだ。分かりやすく言おう。我々は生活に追われ、或いは、流されて生きているのだが、真の意味での生を、生きているのであろうか?もしそうでなかったら、それは生きているとは言えない。"death-in-life"である。
我々は、このままでは駄目になってしまう。(もう駄目になってしまった者も沢山いるかも知れない。)
そのためには、何をしたらよいのか?そうした危機意識を持って生と真剣な闘いをすることが生きている証なのである。愛だの、恋だの、女の涙だの、といった類オンリーではなく、しっかりした倫理観に支えられて、社会的にも政治的にも、我々の存在そのものと関わるような詩であらねばならない。そういう詩を書くためには、ひとときも "peace of mind" であってはならない。それが(廃墟と荒廃の戦争から生き残った)若き「荒地」の詩人たちの主張であって、ここが戦前の詩と明確に一線を画すところだ。
高野喜久雄(→蔵書)は鮎川信夫らの「荒地」に、遅れて参加した詩人である。『独楽』は高校の教科書・現代国語にも載った彼の初期の代表作である。
如何なる自愛/如何なる孤独によっても/お前は立ちつくすことはできない/お前が立つのは/お前がむなしく/お前のまわりをまわっているときだ
しかし/お前がむなしく そのまわりを まわり/如何なるめまい/如何なるお前の vie を追い越したことか/そして 更に今もなお/それによって 誰が/そのありあまる無聊を耐えていることか
コマは回転しなければ倒れてしまう。コマが立つということは、コマが生きているということであり、それは我々の姿なのだ。我々は毎日、こうして生活しているのであるが、本当の生きる喜び、生の充実感とは、何なのであろうか?世間一般によく言われているのは愛である。大きな愛に包まれているときに、生の充実感が得られるという。
話を分かりやすくするために、それが男女間の恋であってもよい。そういう時に「人生」があるという。或いはまた、自分を高めるどころか、引きずられ押し流される人間の絆からいっさい解放されて、真の意味での自分になりきる。人間本来の自由の中にある自己---そういった意味での孤独---そこに幸福が得られるという。
しかし、はたして、そうだろうか?「如何なる慈愛、如何なる孤独によっても」(「荒地」で言うところの)生は得られないのだ。生き甲斐を追求しながら、絶えずむなしく空回りをしているのが、我々の現実の姿なのかも知れない。それでは止めてしまえばいいじゃないか、という人がいるかも知れない。しかし、"life's lifelessness" が分かっていても、なお、その行為を止めないところに、その人の生の証があるのであろう。詩人個人から見れば、コマの姿は、救われないと知りつつ、ぎりぎりのところで、詩を書き続けなければならない己の姿なのかも知れない。
高野喜久雄の詩の手法は、我々の身の回りの、何処にでもある、ありふれたオブジェを釣り上げてくる。それが彼の手にかかると "life's lifelessness" の尖兵として、鮮烈な、ほとんどメカニカルなまでのイメージの生き物に変身して、我々を救いようのない魔の沼に引きずり込んで行くのである。『レコードのように』でも、レコードの持つ特性を見事に捕らえている。
レコードのように/わたしにも 又あればよい/中心へ向う渦巻く一本の条痕が
すると わたしのめまいの上で/針は歌いながら向って行く/既にひとつの穴かも知れぬ/既にひとつの
刳られたものに/針は歌うことで向って行く
そうして 更に/針は証しても行く/針はわたしを歌わせながら/わたしのめまいの意味を証しても行く/
あがなわれるはずのない/つぐなわれるはずのない/わたしのめまいの意味を証しても行く
例えば信仰によって支えられている人には、一本の道がある。愛によって支えられている人にも、或いは一本の道があるかも知れぬ。詩人は叫ぶ、「私にもあればよい」、"I wish I too had ---"---だが、無いのだ。でも欲しい、本当に欲しい、と魂で叫ぶのだ。そうすると、目的に向って、針は歌っていくのである。その究極に待っているものは---すでにぽっかりと空いた穴かも知れないのだ。
にもかかわらず、その無に向って歌っていかなければならない。針が "the meaning of my dizziness" を明かしていくのであるが、それは針が「私の」肉体を切り刻んでいく(いや、精神を、かも知れぬ)という代償行為なのだ。キリキリと責めさいなむ心の痛みに耐えながら、"the meaning of life" を明かしていく。しかし、そうして己の周りを回りながら、生命と引き換えの行為の先に待っているのは---
この残酷のイメージ・論理は、『独楽』のイメージでもある。これが『鏡』、『ろうそく』と続くと、むしろ底知れぬ恐怖の戦慄を覚える。