定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

武蔵野美術大学の機関紙に掲載された宮本常一(教授/民俗学)の記事(抜粋)から

2020年09月20日 | 今日の響いた言葉

「武蔵野美術62」 私の学んだ人-2 宮本常一 から心に残った武蔵野美術大学の機関紙に掲載された宮本常一(教授/民俗学)の記事(抜粋)です。

昭和24年の暮れごろ大阪の漁村で出会った90歳の老漁師の話。

漁師がまだ20歳にならない頃の話、佐野浦の漁師が毎年対馬に漁に出かけるので仲間3人でその後について行くことにした。しかし、小さな船でしかも慣れていなかったために船団に遅れ、1ヶ月ほどたって対馬の厳原に着いた。爺さんたちはブリ漁をしたら、たまげるほどたくさん釣れた。ある日、対馬の西側の海に漁に行ったら海の向こう遥かに山が連なって見えた。土地の人に聞くとそれは朝鮮だという。「ほならひとつ行って見よやないか」ということで3人で船を漕いで朝鮮に渡った。魚は釣るというより勝手に船に乗ってくるほどであった。魚と食糧を交換して、どこに行って大歓迎された、まったく竜宮にいるようなもので、浦島太郎はきっと朝鮮に行って、そこを龍宮と思ったのだろうと爺さんたちは思った。あまり面白いのでもう少し向こうまで行こうということになり次の浦に行く、また、次の浦に行く、そしてまたまた次の浦に行くということをやっている内に冬が来た。そこで、船を浜にあげ、一冬民家を借りて越年した。春になるとまた、少し北に行こうということになり、魚をとって北に北に行くと、また冬がやって来て同じ様に民家に泊めてもらい越年したが、その年の冬はだいぶ寒かった。3年目になってまた、北に行こうといって北に行くと島が少なくなり、長い岬があり、それを回るとまた、深い入江がある。その辺りに行くと住んでいる人も違う、言葉もわからないがシナという国ではないかと思った。しばらく海岸伝いに行くと家がたくさんある川口の港があった。そこで初めて日本人に会った。そしてタンクウというところであることを知った。日本人の話では川を遡ると天津または北京があるがそこまで行くと捕まるかもしれないからここから帰るが良いだろう、南に行けばインドにも行けるが船が小さ過ぎるから出直してくるが良かろうということであったので、そこからまた元きた海を引き返して来た。故郷に帰ったら5年経っていた。シナまで行ったと話ても誰も信用しなかった。

帰って来たらもっと大きな船を作ってインドまで行こうと3人で約束したが、嫁をもらい所帯を持つと身動きできなくなった。「わいはなあ、もう少し歳が若かったら日本を負かしたアメリカへ行ってみとうおます。もう、憲兵という恐ろしいもんいおませんから、一本がさでいけましゃろう、もう婆さんはおらんし、どこで死んでもええ自分やさかい、沖の船の倍ほどのをつくればアメリカへ行けんこともおまへんやろ」

 褌をしめて小さな船を操って中国や朝鮮を行き来いしていたのである。倭寇の原型を見る思いだった。古代から日本列島と朝鮮半島の交流は意外と簡単にやってのけていたのでは。

 

*計算すると1859年頃の生まれ、20歳の時では1879年(明治12年)頃と思われる。

 好奇心と冒険心旺盛な国民性が海洋国家を築いた。


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