定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

115回ピースボート世界一周航海記その51(神戸港・横浜港)

2024年04月17日 | 思い出の旅行

 12月5日(火) 神戸港着岸・出港
    日の出 6:51         日の入 16:51
  7時、神戸港着岸予定
  15時30分、10階、預け荷物の運び出し
 7時30分、カミさんに起こされる。熱は少し下がった感じ。
 8時、4階で和食の朝食、食べられた。
 8時30分、帰室、入国手続きのため下船、すぐ近くに地下鉄ポートライナー 「ポートターミナル駅」があったのでとりあえず一番賑やかと思われる「三宮」(2つ目、運賃210円)へ出る。
 駅を出ると小雨が降り始め、一番近い「生田神社」へ行くことにする。おおよその検討をつけて地下道を通り地上へ、そこからはGoogleマップを使う、すぐ側だった。明治神宮や靖国神社をイメージしたが意外と小振りだった。
 鳥居前で参拝を終えたと思われる男性が頭を下げて去った姿を見る、信心深いのか礼儀正しいのか感動させられた。地元では「いくたさん」と呼ばれて親しまれているとの事(生田神社略記)納得できました。科学万能の今、神様が生きにくい時代になっているが科学を超えるものがあることも確か、人間はもっと謙虚になるべきだと思った。
 屋根も柱もピカピカ、メンテナンスを終えたばかりの印象、社殿の奥には御神体(稚目女尊(ワカヒルメノミコト)?)らしきものが金ピカに光っていました。お賽銭を入れて説明書通り参拝しました。神社にはPBの乗客もいました、時間がないので行く場所が決まってしまうからでしょうか。
 鳥居の側にあった交番でポートターミナルまでの道順を聞く、女性警察官が地図で丁寧に説明してくれた、教えてもらった道は「三宮駅」まで最短だった。
 ポートライナー「三宮駅」前にある上島珈琲店に入り、一休み、鹿児島産(ストレートティ610円税別)紅茶とモンブラン(510円税別)を1個づつ注文、半分づつ分けて食べる。ピースボートの乗客もいる。
 11時、ポートターミナルで下車、ターミナルに入ると入船待ちで一杯、50分ほど待って入船手続きが開始される。その間、不思議な神戸人形(カラクリ人形)の展示ブースを眺める、なぜか体全体が黒に丸い大きな目から黒人をもしているのかも知れない、そうであれば問題だ。
 11時50分、入船、そのまま4階レストランで和食の昼食。
 12時30分、帰室、休んで荷物の点検、何とか発送分3個(1個はピースボートに依頼、2個は宅配便用)
 15時、ピースボートのスタッフが荷物の確認に来る、部屋の外に出すのが大変と思われた大きな荷物を部屋から出してくれたので助かった。(若いクルーが一人で持ち運んで行ったのにはびくり)
 手荷物の整理、カミさんの荷物が意外と多い、もう一つ段ボールで送ればよかった。
 17時、5階で最後の夕食、牛のヒレ肉の前菜、豆のスープ、さわらの唐揚げ。隣の部屋のKさんが入ってきて前の席に座る。サーモグラフィの体温検査にひっかるのではと心配してくれていた。その時は全く、気づかずに通り過ぎていた。
 18時、アトリウムで休息、ついでにレセプションで忘れ物の確認をしたら届いていないとの事。しばらくピアノ演奏を聴く。
 19時、私一人帰室、記録など
 

生田神社


本殿で

 

   
 12月6日(水) 横浜港着岸 下船 
    日の出:6:36          日の入:16:28

  宿泊予定:東横イン新横浜駅前本店 
 昨夜は不眠症?+咳と痰で寝られなかった。少しうとうとしただけ、朝方は少し寝たかも。

 9時、カミさんから富士山が見えると言われ窓の外を見ると雪をいただいた富士山が見えた。カミさんいわく「やっぱり、富士山が一番」私も同感した。
 9時30分、体がだるいのでカミさんに朝食を持ってきてもらう。パン、卵、野菜、チキン、葡萄、オレンジ、何とか完食できた。
 部屋の片付け、忘れ物チェックをする、105日間お世話になった部屋とお別れ、寂しい気持ちと早く我が家へ帰りたいと言う気持ちが交錯する。
 12時、昼食、パシフィックワールド号での最後の食事だ。5階のレストランで食事したと記憶しているが何を食べたか忘れてしまった。食後は部屋で待機、カミさんは最後の掃除をする。
 伊豆半島の海岸が見え、海は貨物船、漁船が行き交っていた。船は横須賀を過ぎ、浦賀水道から東京湾に入る、やがて横浜ベイブリッジが見えてきた、そしてベイブリッジを通過、横浜港、ビル群、大桟橋、氷川丸が迎えてくれた、帰って来た!
 14時横浜港大桟橋に着岸、14時30分から12階と11階の乗客から下船開始、私たち(10階)は15時下船開始となる。ターミナルに入ると色別(階別に色別シールが貼られている)に並べられている荷物から自分の荷物を探しカートに載せなければならない、荷物が多く、探すのが大変。何とか大きな荷物は見つかったが小さな荷物(デッキチェアー)が見つからずピースボートの職員にも手伝ってもらい何とか探し出す。
 全部の荷物が揃ったので税関検査を受ける、申告するものはないので直ぐに通過できた。次は宅配便の手配が待っている、手荷物発送カウンターで事前に契約した荷物1個を預け、残りの2個は別途宅配便の手続きをする。これで全て完了!近場の人は自家用車が迎えに来ていた、羨ましい。我々は新横浜のホテルに1泊市、翌日盛岡まで帰らなければならない、まだ、旅は完結していない。
 私たちは大きなスーツケース1個、機内持ち込み用の小さなスーツケース、リュック、デッキチェアを手持ちすることになった。宿泊予定のホテル、新横浜まで向かう。地下鉄駅まで歩いたのでカミさんがタクシーで行くべきと怒り出す、何とか宥めながら新横浜のホテルに17時頃、やっとたどり着いた。結局、スーツケースはホテルから宅配便で発送することになった、カミさんのことを考えてターミナルで発送すべきだったと反省している。チェックイン後、カミさんはベットへ、私も風呂に入って休む。
 19時、近くの居酒屋「すし酒場さんじ」で夕食、生ビールと寿司で乾杯、久しぶりの和食が美味しい、やはり日本が良い!
 20時30分、コンビニでビールとつまみを買う。ホテルでも無事帰国を祝い乾杯して就寝。
 

 12月7日 新横浜〜亀戸〜上野〜盛岡

 8時、ホテルのビュッフェスタイルの朝食(無料)、野菜サラダ、おにぎり、味噌汁、卵焼き、焼き魚、コーヒー。
 9時30分、ホテルをチェックアウトし、新横浜駅から横浜線で東神奈川駅へ出て京浜東北線で秋葉原駅乗り換え、総武線で亀戸駅へ。カミさんは疲れているので駅の「スタバ」で待つことになる。私は実家の新築現場で工務店と今後の予定、色の指定など打ち合わせを行う、続いて不動産屋さんと賃貸条件や家賃などの打ち合わせをする。
 打ち合わせが終わったので亀戸駅に戻り、カミさんと合流、東京駅に向かう、ホームでサンドイッチとビールを買って新幹線に乗る。
 盛岡駅に息子に車で迎えに来てもらい懐かしの我が家へ帰る。宅配便で送った荷物も着いていた。

 年齢(夫婦共78歳)とコロナ感染の心配があったが何とか無事に旅を終えることができた。二人とも風邪をひき咳がでたり微熱に悩まされてきたがそれも含めてのピースボートの船旅だった。 

 

 

富士山が見えてきた

望遠で撮影

三浦半島の海岸風景(どこかわかりません)

横浜ベイブリッジ

橋をくぐると大桟橋が見えてくる

横浜大桟橋に着岸

氷川丸と横浜マリンタワー

新横浜のホテルの朝食、カミさんは明らかに疲れているが食欲はある。

亀戸天神社とスカイツリー

新築現場

お土産 (コーヒー、紅茶、メイプルシロップ、陶器、CD、Tシャツ、バックなど)

お土産、たくさん買ったつもりだったが足らなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その50(航海)

2024年04月17日 | 思い出の旅行


  12月2日(土) 香港出港(2日目)
    日の出 6:36       日の入 17:12

 7時、起床 曇り、青空は見えない、波高く揺れ激しい。
 8時、朝食は5階のレストランで和食
 9時、アトリウムで休憩
 9時30分、帰室
 12時、5階で昼食、ミニカツ丼、きつねそば、サラダ、メロン。カツ丼はまあまあ、そばは麺が美味しくない、代わりに薄切りのメロンが甘く美味しかった。
 13時〜14時 「私たちが見たカンボジアの今」参加者発表会
 参加者9名による報告会、分担して内容や感想を述べる。
 冒頭でポルポト政権下の出来事について説明、どんな人が殺されたか参加者に問う、次に当てはまる人は手をあげてください。 1、メガネをかけている人 2、中学卒業者 3、留学経験者、手をあげさせ次の様に言う、「全員虐殺されました!」現実感が沸いた、うまい方法だと思った。
 また、地雷について1平米当たり、最大どの位の地雷があったか考えてください。実際の大きさを紙で示して回答させる。1、1個   2、6個  3、12個  なお、正解は2番 いかに多いか理解してもらう工夫だと思う、だったら1個、3個、6個がよかったのでは。
 この導入は良かった、聴く姿勢が変わったのではと想像した。
子供たちのこと、学校のこと、被害者のこと、地雷除去作業の現場、地雷の爆発体験、支援のあり方、ピースボートの関わり(ピースボートはコロナもあって4年ぶりの訪問とのこと、これからは支援を継続したい)など、一人2分程度の発表は具体的でわかりやすかった。
 終了後、募金の呼びかけがあった、カミさんは1000円寄付すると言ったがIDカードで募金額を申告する時、前の人が1万円と言ったので1,000円と言えなかったから1万円にしたとの事、人に影響されて自分がない、いつもの事だが、、。
 14時、帰室、休息
 15時15分〜17時15分 映画上映&トーク「原発をとめた裁判長、そして原発をとめる農家たち」
 2014年、関西電力大飯原発の運転停止命令を下した樋口英明福井地裁元裁判長と福島で営農型太陽光発電に取り組む農家の姿を追った映画。
・樋口氏の指摘、見込まれる地震より脆弱な原発(住宅より脆弱)
・運転停止理由                                     *事故が起きた際の避難対策が不十分
*事故が起これば被害は莫大、電力コストの削減に見合わない
・科学的な根拠を理解するのは困難(裁判官は文系)、別の切り口(人格権)で判断する、人格権は何より(利便性、コスト、経済など)優先する


・農業と太陽光発電を組み合わせた新しい農業の試みが広がる


 17時20分、5階で夕食、カミさんは食欲が無くメインの鶏の唐揚げとデザートは残す。私は完食+残したデザート半分を食べる。
 18時、帰室、隣の部屋のKさんとの飲み会の準備、テーブルの上のものを片付ける、きれいになった。カミさんは14階から果物を持って来る。売店で買ったつまみ、コップ、椅子の準備など、
 20時、Kさんご夫婦が来訪、タイガービールと青島ビールで乾杯。アウシュビッツのこと、ユダヤ人のこと、プラス思考のこと、両親のこと、次から次と話題が続く、このままいつまでも続くような雰囲気だった。
 21時30分、お開きとする。

 

   12月3日(日) 香港出港(3日目)
      日の出:7:20       日の入:17:37
      曇り、波穏やか揺れ少ない
 予定
  14:00〜15:00 アウシュビッツOT参加者の集い
  16:00〜17:00 スタッフエンターテイメントショー

 8時、    起床
 8時20分、  5階レストランで和食の朝食
 9時、    アトリウムで休息
 10時30分  帰室、荷造り おおよそ見込みが立った。
         荷造り,見通し立つ
        ・段ボール大1個
        ・スーツケース
        ・段ボール小1個
        手荷物
        ・スーツケース小1個 
        ・リュック 大1個
        ・リュック 小1個
 12時30分、14階で昼食、カミさんは食欲がないとケーキとお茶。
 13時、帰室
 14時、アウシュヴィッツ・ツアー参加者の集い、Nさんが私たちが見たカンボジアの”今”での体験を分かち合ってくれた。

・地雷の種類(人間用から戦車用まで、安いものは100円から)

・地雷の設置(地雷を何重にも重ねる方法、分からないように欺く方法、湿地帯でザビない工夫など)

・除去方法(犬、ネズミを使う方法など)

・除去の裏をかく設置方法など

貴重な話が聞けた。ピースボートの支援で学校ができ、子供たちの笑顔を良かったとの事。18年前のベトナム、フェのストリートチルドレン施設訪問を思い出した。子供たちのはち切れんばかり笑顔は日本人の心に刺さった。「お金持ちになったけど君たちは幸せですか?」と問われているようだった。子供たちの笑顔が印象に残ったと言う、Nさん達も、若者が置かれている日本の状況と比較して、もしかしたら同じ思いがあったかも知れない。子供達のあんな笑顔日本で見たことが無いと。
 皆さん、一通りアウシュビッツの感想を改めて発表していた。
 15時20分、打ち上げ
 16時、帰室後、スタッフ・エンターテイメント・ショーを見に行く、1時間の持ち時間を各々しっかり分担してこなしていた。
 17時、夕食、5階レストラン、メインは魚にした。
 18時20分、アトリウムで休息後帰室
 20時、14階へ、アウシュヴィッツ・オプショナルツアーの会に参加、若いNさんが欠席、ビールで懇談、楽しい一時だった。Oさんと熊本の女性は神戸で下船とのこと、Oさんにはアウシュビッツのスケッチを渡す。
 参加者全員と14階にいた韓国チーム、盛岡のOさんとも記念写真を撮る。
 22時、帰室

 
 12月4日(月) 香港出港(4日目)
    日の出 7:02          日の入 17:03
 7時30分、カミさんに起こされる、体がだるく咳と痰が出る、頭痛もある、食欲もない。
 8時、14階で軽く食べる、食パン、野菜、マンゴ、オレンジ
 8時40分、帰室、部屋で休む。
 13時30分、14階で昼食、お粥、サラダ
 14時、帰室
 15時20分、パスポートの受け取りビスタラウジ
 17時30分、夕食14階、ご飯、果物
 18時15分、そのままカミさんはシアターへ私は部屋に帰る。
 今日は一日中寝ていた、咳と痰が出て熱もある、日本に入国する際にサーモグラフィーで体温を測るとのこと、ひっかる可能性がある?
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その49(香港)

2024年04月17日 | 思い出の旅行

        2023年ピースボート航海記 その20 香港
    
 11月30日(木) 香港港
     日の出 6:41      日の入 5:58
       
   15:00    オーシャンターミナル、南バース着岸予定
          (香港海運埠頭/Ocean Terminal,South Berth)
 
 7時50分 カミさんに起こされる、カミさんは体操とのこと、洗顔して待つ。
 8時20分 カミさん帰室、5階で朝食
 9時   レセプションで問い合わせをする
      ・精算について 下船前に精算した書類を配布する
      ・乗客に関すること
         乗客数 国別の割合 年齢構成
       回答
        <国別>
          欧米      1%
          アジア   17%
          日本    82%
        <年齢別>
          10〜50歳  26%
          60〜70歳  64%
          80〜90歳  10%
        <乗客数>
           1800名  *ありえない数字、半端な数字になると思われる
 10時  帰室
 12時30分 5階で昼食、カレーうどん、お汁粉 *期待したがダメだった
 13時30分 アトリウムで休息、読書
 14時  帰室、天気は回復しているが波は依然として高い
 15時  10階デッキで見物する。
 いくつか島が見える、遠くには高層ビル群が見える、想像以上に多い。*香港の高層ビル100メートル以上2000棟,ニューヨーク700棟
 手前の島では造成工事(山が崩されていた)、建設中の高層ビルも多いが一体誰が住んでいるのか?こんなに高層ビルが必要なのか?不動産投資か?
 17時30分 ようやく着岸、2時間30分遅れ
 18時30分 下船準備、カミさんは具合が悪いので一人で行くように言われる、夕食に何か買ってくると言って出かける。
 自由行動の客はシアターで待機させられる、30分ほど待って下船、入国手続きはなし、係官のIDカードをかざすだけ、あっけない香港入国だった。
 ターミナルは大きなショッピングセンターの中にあり、地上への出口がわからない、案内図を見ながら探す、何とか外に出られた、外は人で一杯、人混みをかき分けて尖沙咀(繁華街)を目指して歩く、海辺の道は記念写真を撮る人で一杯、PW号も良く見え絶好の背景だ。湾が奥まで続いていた。近代的なビルが続き、昔の香港のイメージは全く無い、蛋民と屋台はいなくなってしまった。香港(中国)の猛烈な経済発展の状況が分かる。
 かっての広告の主役だったネオンサインが香港では電光掲示板に変わっている、ニューヨークのブロードウェイのように動画を使った広告ではないがその内、登場するだろう。
 道路標識を手がかりに尖沙咀に入る、ここも高級志向の店舗が多く、庶民的な雰囲気は無い。両替屋(小さな小屋で細々と営業している雰囲気だ、店員はインド系女性、店主はインスタントラーメンを啜っていた)を見つけたので50米ドルと50ユーロを両替する、良かった、これで夕食を買える。
 食べ物屋さんを探しながら繁華街を通って船に帰ることにする。中華料理屋さん、できれば屋台のような庶民的な店が良いがなかなか見つからない、スターバックスがあったのでネットをするためにコーヒーを飲むことにした。なぜか、LINEが繋がらなかったがYahooメール(息子に盛岡に帰る日程を知らせた)がつながったので良しとする。
 スタバを出て船を目指す、人だかりのある小さな店(料理して売るだけ)を発見、小籠包か肉まんが欲しかったが売っていない、焼き鳥、丼物、揚げ物などの中に餃子があることを発見(餃子の看板があった)、餃子6個入り2セット(60ドル)と小さなたこ焼きの形をした菓子20ドルを購入、ようやく約束が果たせた。
 ターミナルを探すのに手間取る、ピースボートの乗客と思われる人に聞きながら出国手続きを経てパシフィック・ワールド号に戻ることができた。遅くなったがカミさんとビールを飲みながら焼餃子と小麦粉に砂糖を入れ揚げただけのシンプルな菓子を食べる。焼餃子は味が濃く、日本の餃子のように醤油を不要だ。ボリュウムもあって6個で良かったと反省。
 11時、記録をつけて寝る、カミさんは先に寝た。

 

   12月1日(金) 香港港(2日目)
     日の出 6: 46     日の入 17:38
     15時45分、香港出港セレモニー 12階中央

 7時、起床
 8時30分、カミさんは具合が悪く食欲がないとのことで船の周辺(九龍公園)を散策することにする。昨日買った菓子とほうじ茶で朝食代わりにする。
 9時、下船、九龍公園を目指し、廣東道を北に向か。途中、世界のブランドショップが軒を並べていた。それだけの購買層がいると言うことだ、向かい側にはガラス張りのアップルのショールームがあった。どこにも引けを取らない店舗だった。
 ブランドショップ街を抜けると石垣と樹木が見えて来た、入り口がわからず道沿に歩くと九龍公園入口の小さなサインを発見、バトミントンコート(市民がバトミントンをしていた)を抜け、中学校の裏口を抜け、階段を上がると大きな鳥のケージが見えた、大きな嘴が3本あるかのように見えた鳥?、トサカだけではなく声も不思議だった、大きなケージは鳥の種類毎に分けてあった。隣は何種類かのオウムがいた。場違いな可哀想な気がした。
 トイレの表示があったのでカミさんは嫌な顔をしていたが香港を知る大事な手がかりでもあるので入って見た、入口に掲示板があり、温湿度、大便器数、近くのトイレまでの時間まで表示されていた。中は明るく、掃除が行き届き綺麗だった。大便器は様式と座るタイプが、小便器は一人用と多人数用が用意されていた。トイレットペーパーも1台あり事前に取ってから個室に入る仕組みになっている。トイレットペーパーも残っていたので市民のマナーも良いと思われる。手洗いも故障している台はなかったし、温風乾燥機も問題なく機能していた。香港の文化度、市民意識の高さに敬服した。カミさんに報告すると「私も入ってみる!」と挑戦、帰ってきて「綺麗だった!」と報告してくれた。
 ケージの奥に藻で緑色になった池があって何とフラミンゴの群れがいる、色がピンクをしたのもいるがほとんどピンクが抜けている。本来の餌を食べていないからではないか、フラミンゴも場違いではないか、今の時代、動物園の役割を見直すべきではと思った。ただ、この公園はトイレと同様に掃除(男女の老人が熊手で落ち葉を掃いていた)が行き届いていた。鳥のケージとフラミンゴの池は何とかして欲しいが、。
 数種類の蓮の花が咲く池があり慰められた、動物の展示をやめて植物園にしたらと思った。この公園には他に運動用の器具があり市民(老人)が利用していた、出入口には案内地図があり、分別ゴミ箱も設置されていた。香港の代表的な公園と言うほこりがあるのかも知れない。
 九龍公園から尖沙阻(Tsim  Sha Tsui)を通り南下、昨日通った道に出る、カミさんが休みたいと言うので地下にあったマクドナルドに入る、コーヒーとパンのセットを購入、カミさんは食欲がないと、コーヒーはほとんど、パンは3分の1ほど残す。私は無料Wi-Fiが使えたのでメールと、LINEをする。
 香港太空間(HK Space Museum)、香港藝術館(HKMuseum of Art)ミュージアムショップで孫のお土産(絵の具、塗り絵、筆のセット)を買う、香港文化中心(HK Cultural Centre)を通り、フェリー埠頭に出る、湾をバックに香港訪問の記念写真を撮る。
 フェリ乗り場の近くで釣りをやっている人を見つける、見ている内に1匹釣り上げた、鯵のような小さな魚、その奥で釣っていた人も釣れた、鯛のような形の小さな魚だった、写真を撮ろうとしたら「こんな小さいの撮られたくない」と言ったジェスチャーをして照れていた。
 ショップでカミさんがソフトクリーム屋を発見、早速、二人で食べる。ソフト屋を出たら隣はおにぎりやさんだった。カミさんは「もっと早く見つけていれば!」と残念がる。セブンイレブンがあったので青島ビール6缶、ポテトチップスを買って海運大廈(Ocean Terminal)からパシフィック・ワールド号に帰船。
 12時、帰船
 13時、カミさんは14階でお粥の昼食を摂る。私は部屋で記録。
 15時45分、香港出港セレモニー
 15分前に会場入り、少し遅れて開会、映像を流しながら参加者の挨拶、そして演奏が始まり若者から高齢者までダンスになる。
 我々は船首に移動して出港風景を眺める、かっての香港は蛋民と呼ばれた海で生活する人々と過密住宅で暮らす人々が織りなす風景が特徴だった、現在はそんな面影は全くない、海はフェリーや観光船が走り、ヨットハーバーにはヨット、モーターボートが係留されている。当時の名残は時折小さな漁船を見る程度でしかない。陸地は高層住宅やビルでぎっしり埋め尽くされている感じだ、離れた場所も高層住宅が林立している。それでも足りないのか新たに山を崩している。いつまで続けられるのか想像がつかない。でも成長の終わりは必ず来る、その時、香港はどうなるか、、。
 17時、5階で夕食、タコ、カニ、レタス等を使った前菜は美味しかった。スープも具がたくさん入っていてよかった、鶏の唐揚げガーリック掛けのメインは鶏は熱々で良かったがポテトが冷めていたし味がなかった。(ポテト自体がダメだったのでは)
 食後、アトリウムで休んでいるとKさんご夫婦に会う、奥さんが描いたスケッチをピアノ演奏している方に差しあげるとのこと。ピアノとヴァイオリン演奏をしているスケッチを見せていただく、よく描けてている。ピアノ演奏が終わり二人で本人(白人の高齢者)に差し上げて記念写真を撮っていた。
 ウクライナから来ていた女性ヴァイオニストの方にも同じ絵(2枚描いて)を差し上げた、とても喜んでくれたとのこと、ウクライナ支援と言っても何もできないがこんなことであればできるのでやった、自分ができることをするのも支援になると思う、とおっしゃっていた。
 7時30分、帰室、窓の外は真っ暗、遠くに灯りが見える。船は少し揺れている。  

 

 場違いな高層ビルが見える。 

 

 着岸する埠頭のオーシャンターミナルが近づいてくる。

 

 小さな漁船が漁をしていた。

 

 漁船?

 

 異次元の高層ビル群が現れた。

 

 歓迎の放水

 

 オーシャンターミナル、南バース着岸風景

 

 オーシャンターミナル、南バースの風景、屋上の駐車場が見える。

 

 生活感溢れるマンション風景

 

 バス停

 

  ビルの裏通り

 

 中華惣菜屋さん、露店は見つけられず、中華料理屋さんも少なかった。 

 

 メニュー看板

 

 DIORの店舗

 

 九龍公園のフラミンゴ

 

 フラミンゴ

 

 インコ

 

 蓮の花

 

 

 

 公園のトイレ、サインが大きく目立つ

 

 トイレの入口、上に表示板が設置されていた。

 

 トイレの表示板

 

 トイレは洋式と和式?

 

 ゴミの分別回収箱

 

 ミュージアムショップの商品

 

 屋外彫刻 

 

 おにぎりやさん 10香港ドル 約200円

 

 おじさんが売店横の桟橋で釣りをしていた。釣果を見せてもらう。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その48(南シナ海航海)

2024年04月16日 | 思い出の旅行

 11月27日(月) シンガポール港出航 2日目
       日の出;6:50         日の入:18:45
 
 7時30分、小雨、波あり、船は小刻みに揺れる、ガスがかかり視界は悪い。夜中、一度も起きずに就寝できた。
 8時、朝食、5階で今日も二人席で和食をいただく。
 9時、アトリウムで読書、私は「我が闘争」、中国人が数人来て話をしている。自分のことしか考えていない?しばらくすると席を移動した、考えていた?
 10時、帰室、船6隻発見、遠方の白い点のような船を撮影、上部だけで下部は映っていない。地球は丸いことを実感した。帆船時代に確認したと言うことはかなり性能の良い望遠鏡を持っていたと言うことだろう。ポルトガルの海洋博物館を思い出した。
 12時30分、一人で14階で昼食、ご飯、肉料理2種類、野菜、スープ
 13時30分、帰室、ケーキ3種類、とゼリー1種類を持ち帰る。カミさんは喜んでくれた。
 14時45分、わくわく寄港地〜香港〜
 今回は九龍(カオルン)に着岸するとのことで周辺を散策することにする。Tsim Sha Tsui 尖沙咀、Yau Ma Tei 油麻地、Harbour City 海港城、九龍公園

 

 11月28日(火) シンガポール出航 3日目
       日の出:6:45          日の入:18:16

 曇り、波高し揺れ激しい 「南シナ海は波高し」行き交う船も見られず
 
 8時、カミさんに起こされる
 8時20分、朝食は5階レストランで和食(サンマ、トロロ、スイカ(黄色い))
 9時、帰室

「船内で配信されたニュース」
・11月28日付けニュースにタンカー乗っ取りは海賊、ソマリア武装集団と米
・「ワシントン共同」
 ライダー報道官は27日、イエメン南部アデン沖でイスラエルが関係する石油タンカーを一時乗っ取った武装集団はアフリカ東部ソマリアの海賊と見られると明らかにした。
 米軍が武装集団の5人を拘束しており、ライダー氏はソマリア人だと述べた。ライダー氏によると、イエメン内陸部のフーシー派支配地域から弾道ミサイル2発が発射され、海上で対応していた米軍艦から約1.8km離れた場所に着弾した。
 タンカーは無事に解放された。アデン湾で海賊対策に当たる海上自衛隊の護衛艦「あけぼの」とP3C哨戒機で現地で情報を収集し米軍を支援した。
・関連
 19日、イエメン近くの紅海でフーシー派が日本郵船運航の貨物船を拿捕

 1時、14階で昼食、オレンジと野菜、お粥。宮本さんに出会う。小林さんは風邪で発熱したが今は下がったとのこと。スケッチとCDを渡す。カナダの楓の落ち葉(持ってないとのことで)を届けることにした。
 2時、帰室
 2時30分、カミさんはセミナーへ
 5時、夕食のため5階レストランへ、着飾った若者、老人が沢山集まっていた。聞いたらフェアウエルパーティーとのこと。夕食のメインはサーモンの唐揚げ、全体にちょうど良い量だった。
 6時30分、夕食を終え、アトリウムで休む、しばらくすると着飾った人たちが集まって来た、乗客が多いので前半と後半に分けて開催するようだ、そのまま座っていることにする、やがてシャンパン、ワイン、ジュースを持ったボーイが現れ、私たちもシャンパンをいただく。
 7時、フェアウエルパーティーの後半の部が始まった、船長はじめクルー、スタッフの紹介があり、踊りが始まり、主役が若者に変わった。若い女性の服装がすごいことになっていた。露出部が多かったり、スケスケだったり、自らの肉体を誇るかのようだ、体格も良いので似合う。欧米人と対抗できるのでは、、。
 7時30分、シャンパン2杯、シロワイン2杯飲んで気持ち良く帰室。
 8時、Wi-Fi100分を購入していたのでメールをすることに、なぜか、メールが送れないしLINEが出来ない。色々試したがダメだった。
 12時、読書「我が闘争」をして就寝。


11月29日(水) シンガポール出航 4日目
       日の出:6:41          日の入:17:58

 曇り、昨日ほどでは無いが依然と波が高く揺れる、船内放送でクルーの訓練は悪天候のため中止と言っていた。

予定 13時05分〜13時50分
      過去の戦争をみつめ、未来の平和をつくる 私が日中の架け橋になる
   14時〜15時40分
      映画「日本人の忘れもの』

 7時30分、起床、カミさんは体操に
 8時、  カミさん帰室
 8時10分、5階で和食の朝食、今日も二人席をお願いする。
 9時、帰室
 12時、Kさんに電話をしてカナダのカエデ、アイスランドの溶岩、スケッチを届ける。元気そう。
 14階で昼食、お腹が空いていないのでパン(食パン1枚)、野菜、果物(葡萄、オレンジ)を軽く食べる。食事中、アウシュビッツに同行した方に出会う、ポーランドのレストランでお酒をご馳走になった方だ、挨拶してスケッチ(海の絵)を渡す。
 13時05分、過去の戦争をみつめ、未来の平和をつくる 私が日中の架け橋になる 家田博美
(28歳アメリカ留学経験)中国語のボランティア通訳、父は日本人、母は中国人。日本と中国を行ったり来たりの生活だった。2歳まで中国、小2まで日本、小2〜中2まで中国、15歳〜18歳まで日本で暮らした。
 その体験談を語る、
・日本では日本語ができなかったので中国人と言われ、中国では言葉が出来ても名前から中国人ではないことが分かるので日本人と言われてきた。どちらからも受け入れてもらえなかった。
・小学生の時(日本語が十分出来なかった)、年長の男の子に中国人と言われ自転車を壊されたことがあった。母親に伝えると母親は父の母(母は日本語が十分喋れなかったから)と3人で男の子の家に行って自転車を壊されたことを伝えた。その男の子の家は父親が家庭内暴力を振るう荒れた家庭だったことから母親は自転車のことはしっかり伝え、一方で男の子にもっと優しくしてあげて欲しいともお願いした。母親の自分への愛の深さが伝わった。
・中国にいた頃(小学生)、英語の塾に通っていた、塾には中学生の尊敬できる先輩がいた。金曜日、週末のウキウキする気持ちで塾に行くといつもと空気が違っていた。そしてその先輩(歴史の授業で日本軍の残虐行為を学んだ)から「日本人は戦争で中国人に酷いことをした。」といきなり言われ何も言い返せずにいたら、教室にいた先生の「戦争がそうさせたのでこの子ではない、今大事なことはそのようなことが起こらないように仲良くすることだと思う」の言葉で救われた。
 半分日本人、半分中国人の自分が嫌になったこともあるが今はそう言う私にしか出来ない役割があると思っている。小さなことでも日中の架け橋として活動していきたい。PBで中国人と日本人が漢字で意思の疎通を試みている姿を見るのは嬉しい。
 彼女のプラス思考は素晴らしい、ハーフであることをマイナスに考えるかプラスに考えるかで人生が変わる、自分の役割を発見した彼女の発展を期待したい。

 14時〜15時40分 映画「日本人の忘れもの」フィリピンと中国の残留邦人
 マニラ麻景気で多くの日本人がフィリピンで働いていた、日本人と結婚したフィリピン人女性も多かった。戦争で夫は召集され残された家族はフィリピン人の襲撃から逃れるために山の中に逃げた、捕まって殺された人、栄養失調で亡くなった人など多くの犠牲者を出した。戦後、夫は帰国を許させず日本に留まった。残された妻や子供たちは日本人でもなく無国籍者でもない立場に置かれ、日本人であることを隠し、教育も受けられず、農業で慎ましく生きてきた。日本政府はこのような人々を見捨てていた。政府の考えは時間が経てば関係者は亡くなり自然に解決するという何とも残酷で無責任な話である。このような残留邦人を支援し、国籍を回復する活動をNPO法人と弁護士が頑張っている様子を描いている。フィリピン政府を動かし、まず無国籍者として認定してもらう(認定されないと罰金刑を課せられるなどの不利益を被る恐れがある、日本国籍を回復するまでとの条件付きで)その後は日本政府の役割ですと釘を刺される、情けない。河野太郎さんあなたは何をした?(映像で頑張ります!と言っていた。)
 中国残留邦人について日本政府は全く誠意に欠けていた。担当した弁護士が日本政府は中国残留邦人を3度棄民したと言う。
1度目は兵隊が先に撤退して日本人開拓民を戦場に置いてきぼりにした。
2度目は日中の国交が回復したにも関わらず孤児の救済をしなかった。
3度目は帰国した孤児の生活支援をしてこなかった。

 国の考えは明快、兵隊は日本国民を守らない(軍は軍隊を守るためにある)、国や国家公務員は国民を守らない(自分が所属する省庁を守るために存在する)このように考えればわかりやすい。
 地裁では「国は無罪、戦争だったので置き去りは止むを得ない、開拓民は勝手に満州にやってきた」との判決理由とこと、裁判官はおかしいと弁護士たちは憤る。裁判所は国民の権利を守るためではなく自分達を守るためにある。
 それでも孤児たちが団結して国民や議員に働きかけ当然の権利を獲得する、(こう言う連中は圧力に弱い、国民を味方につけてアピールすること(しなければ何も始まらない)が必要と言うことだろう)今は施設等で食べるものにも困らず幸せと言う。でも、私たちは教育も受けられず大変な目にもあっている、もっと違った人生だったら良かったのにとも聞こえる。
 17時、5階で夕食、前菜、スープ、メインは鶏肉
 18時、アトリウムで休む、私は先に帰り、まとめをする。
 22時、タイガービールをカミさんと飲む(残り3本) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その47(シンガポール)

2024年04月16日 | 思い出の旅行

       2023年ピースボート航海記 その19 シンガポール
    
 11月26日(日) シンガポール港
       日の出;7:13         日の入:19:02
       天気は曇り、デッキに出るとかなり暑い

 7時、シンガポール・クルーズ・センターCC01埠頭着岸予定

 昨日からほとんど揺れない穏やかな航海だった。まだ暗い時刻に岸の明かりが遠くに見えた。
 6時、起床
 6時30分、14階で軽い朝食(パン、茹で卵、野菜、コーヒー牛乳)
 7時過ぎ帰室、カミさんが「具合が悪い、昨日の整体が効いたのだろう、今日はここに残る」と言う。止むを得ず、様子を見ることにした。
 休んで元気が出てきたのだろうか10時頃になって外に出ても良いと言う、近場を散策しようと下船することにした。
 7階左舷から下船し、入国審査のために並ぶ、審査に時間がかかるので自由行動の客はオプショナルツアー参加者の審査(8時30分から12時)と重ならない様にと船内新聞に書いてあったがその通りだった。どこまでなのか分からない長い行列が続いている、行列はほんの少しづつしか進まない、外国人用の入稿審査は4カ所ほどしか無く、しかも審査(パスポートチェック、写真撮影、親指の指紋撮影)に時間がかかる。職員が見かねたのか私たちは別に部屋に誘導され審査を受けることができた。
 他の人より少し早く済ますことができたがそれでも2時間近い時間が過ぎていた。カミさんはかなり辛そう。入国するとカミさんがここで待っているから自分だけ行ってと言う、そんなことはできないのでが隣接されていたショッピングセンターのベンチでカミさんは休むことにした。私はコーヒーショップに入ろうと勧めたがお腹を壊しているので何も飲めないとのこと、そして「せっかくだからショッピングセンターの中を見てきて!」と言う。
 ショッピングセンターの中を散策する、盛岡のイオンモールの様だ、3階建てで中央に吹き抜けがありレストランや物販の店舗が並ぶ、「牛丼」、「海鮮丼」「回転しない鮨屋」、ユニクロ、ダイソーなど日本の店も目だっていた。
 カミさんはベンチで読書していたが熱がある様なので船に戻ることを提案、使っていないシンガポールドル(100ドル)を両替(約10,000円)、スリランカの紙幣も両替(約1000円)し、セブンイレブン(商品構成が全く違う、小さな食品販売店)で残ったシンガポールドルとカードでタイガービール6本を買い、出国手続きをする、パスポートチェックと手荷物チェックがあった。
 帰船し部屋に着いたら3時だった。14階から持ってきたパンとりんご、紅茶、買ってきたビールで遅い昼食をとった。3時間のシンガポール滞在であった。
15時過ぎ、私も寝不足なのでカミと一緒に寝る。
18時、目が覚める、カミさんは熱があるので5階で体温計を借りる、ついでにパスポートを預けた。体温は36.9度だった。
20時、私は14階で夕食を取ることにした、エレベーターで冨岡さんに会う、集まり(船内新聞に投稿済み)をやるとのこと、ご飯、味噌汁、牛肉、豚肉、野菜を食べる。カミさんと食べるために葡萄とオレンジを持ち帰る。
21時、カミさんと持参した葡萄とオレンジを食べる。
21時45分、体温37.8度、少し上がった、食事したせいか?
23時、いつの間にか出航していた。遠くに船の灯りが点々と見える。ラム酒を飲む、カミさんの熱は下がったようだ、36.5度。
24時、カミさんの寝る前の咳は激しかった。

 

 

 シンガポール港風景

 

 シンガポールのヨットハーバーとビル群

 

 ショッピングセンターから海を望む

 

 ショッピングセンター内部

 

 日本食レストラン HOKKAIDO-YA と SUSHI TEI

 

 HOKKAIDO-YA(北海道屋)のメニュー 

 

 ユニクロ 

 

 ショッピングセンター内部

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その46(マレーシア ランカウイ島)

2024年04月16日 | 思い出の旅行

      2023年ピースボート航海記 その18 ランカウイ島 マレーシア
    11月24日(金)
             日の出;7:13         日の入:19:02

   7時            入港 ランカウイ・クルーズターミナル1番埠頭着岸
   21時        帰船リミット

   9時、    ビスタラウンジ集合
   9時30分、 バスで出発(45分)
           スカイキャブ・ケーブルカー
           オリエンタルビレッジ
           テラガ・ハーバー・パーク
           バスで港へ(45分)
   13時      港着

 7時30分、14階でパン、茹で卵、野菜の朝食
 8時、帰室
 9時前、集合場所へ、時間通り5階玄門から下船、ターミナルまで桟橋(屋根付きの歩道)と更に土産屋やテストランなどが並ぶ商店街を合計900メートルほど歩き、駐車場に着く、バスは乗客が揃い直ぐに出発、今回は順調だった。
 英語ガイドの案内を聞きながら(ほとんど分からないが単語で内容を判断する)45分ほどのドライブ、途中に小さなリゾートホテルや地元資本の小さなレストランや店が見える、小さな店のほとんどは店を閉めている、使われていないゴーカート場もあった、観光客を当て込んでつくったのだろう。リゾートホテルもうまく行っているのかどうか分からない。
 大きな原っぱがあったガイドは飛行場だと言っていたが飛行機も舗装された滑走路も見えなかった。ガイドブックには「ランカウイ・インターナショナル・エアポート」となっていた。
 海岸沿いにコンクリートの建物が続いていた、洋式(軍隊か警察の制服か)とインドネシア(腰に紺色の布を巻き、肩から胸にかけて槐色の胸当て)の制服を着た若者の集団が整列していた、警察学校の訓練施設の様に見えた。
 牛は見た(1頭だけ)が畑らしいものは見られなかった。この辺の住民はなんで暮らしているのか?
 やがて数十棟並ぶ施設(オリエンタル・ビレッジ)が見える、ここが目的地のようだ。施設の中は小川が流れ、小さな吊り橋がかかり、ドーム型の建物、何か分からない近代的な建物、デズニーランド風の建物などごちゃごちゃに並んでいた。
 広場の前がスカイキャブ・ケーブルカーの乗場、チケットに記載されているバーコードを読み込むとゲートが開く、小さな6人乗りのケーブルカーがどんどんやってくる。5〜6人で一と組になり乗り込む、向かい側に下段に三人、私たちは上段に二人(三人用)がけ、(左に私、右にカミさん)、乗降の手際が良い(効率も良いように思えた)、VIP用(特別料金で二人掛け?確認できなかった)もあった。
 ケーブルカーはぐいぐい急勾配を登って行く、遠くに海に浮かぶ小さな島が見える、下は鬱蒼たる森林、左、遠方に滝も見えた、左右は見えるが、下は客がいて邪魔、上は後に向かなければ見えない。上を見上げるとケーブルカーの終点が見えた、かなりの角度だ。
 左側から頂上付近に大きな鉄塔で吊るされた橋が見える、床はガラス張りの様だ、人が歩いているのが見える。カミさんは「無理」と言っている。
 到着と思ったら、頂上はもう一段上だった。ケーブルカーを降り売店が並ぶ通路を通り展望台に登る、展望が素晴らしい、海に囲まれた森と海に囲まれている岬の景色を楽しむ、この施設「オリエンタル・ビレッジ」の施設と海岸にあるホテル、レストランがわずかに人工的なもので後は自然そのままだ。
 目の前にトイレがあったので入る(何でも見てやろう精神?)、綺麗だった。入口でティシュペーパーを売っていた。
 「スカイブリッジ」?は別料金とのこと、カミさんも「あなただけ行って、ここで待っている」と言う、チケットを買うのに行列も出来ており、それほどして渡る好奇心もないので止め、降りることにする。ケーブルカーは待たずにすぐ乗れた、下りの景色も楽しめたがあっという間に到着。
 ケーブルカーの土産品売場でココナツの実のボール(1個20RM ポテトチップ1、クッキー1計10RM)を購入する。
 集合場所で少し待ってバス乗り場へ向かう、小川にかかっていた吊り橋を渡る、小さいが横揺れが激しくスリルがあった。バスはもと来た道を戻り、何も無いヨットハーバーで休憩(ツアーの予定に入っていたテラガ・ハーバー・パークの様だ)、1時過ぎに出発した駐車場に到着、これでツアーは終了。
 土産屋の前を歩く、ここの土産屋さんで残ったマレーシア・リンキッドを使うことにする。

・臈纈染のポーチ1個(30RM)、小物入れ2個(1個15RM)、計60RM.。若い主婦が自分で作っ
 たと言う。約1800円。
・店の前で美味しそうにビールを飲んでいる夫婦がいたので声をかけると「タイガービール、美味しい!」と言っていたのでビールを注文、1杯14RM で28RM  
・お腹が空いたのでサンドイッチと揚げパンをカミさんが注文(二人前50RM)、これがなかなか出てこない、隣の夫婦もかなり待たされて焼きそばのような料理が届いた、奥さんが多いのでとお裾分けしてくれた、一人前のような量だった、麺は短く柔らかめ、味は濃く辛い、私は良かったがカミさんは辛いとあまり食べない、結局私が平らげる。サンドイッチが出てこないので何回も催促(店員には通じない?心もとない対応)し、1時間ほど待ってようやく出てきた、既にほぼ満腹状態、ビールは空なので、水を飲みながらポテトチップスを食べ、サンドイッチは持ち帰ることにした。最悪な店だった。
・ネットを使うためフリーWiFiが使えるホテルの売店でビールを注文、14RM
 ここの店が大変だった!WiFiを使ってネットを処理していたが、ビールがなかなか来ないので若い女店員に伝えるとようやくビールを持ってきた、そして何とビール代を支払えと言う、シートを見せて「頼んだビールがきていない、この分は既に払っている」と言っても通じない、やはり「はらえ」と言う、中年の男の店員がいたので説明すると「OK!」と言ってくれた。最初に担当した若いボーイ(店にはいなかった)が忘れたとした思えない。二度の体験はマレーシアへの悪い印象を残した。

 カミさんは疲れているので先に帰る。シンガポール入国の手続きをしたが、かなり面倒、サイトを探すのも一苦労、手続きをするとピースボートがくれた案内には無い事項がある。まず、国番号でつまずく、選択がたくさんあって選ぶのが大変、操作を間違うと最初からやり直し、結局、諦める。メール処理(不要メールが100件以上溜まっていた。)
 ホテルを出て、船に戻る、途中から雨が降り始め風も吹いて傘もお猪口になるほど、桟橋に屋根があるが横風でまともに雨に当たる。何とか船に戻ったがかなり濡れていた。部屋に戻り、シャワーを浴びる、カミさんは寝ていた、昨日は咳で寝られなかったのだろう。今日は大変な日だった、これからはレシートをもらい、遅かったら店員に確認することが必要、日本の様に信頼してはいけない。
 持ち帰ったサンドイッチを夕食代わりに食べる、50RMはかなり高かったが結構美味しかった。

 

 

 11月25日(土) ランカウイ島 マレーシア 出航2日目

       日の出;7:10         日の入:17:02

 7時30分、起床
 8時、   朝食、6階レストランで洋食(初めて)
      食パン、(オムレツ、ベーコン、サラダ、枝豆)、スープ、チョコレートフレーク、
      牛乳、パイナップルジュース、デザート(葡萄、オレンジ)、コーヒー
      ボリュームがあり美味しかった。カミさんは多かったと言う。
      なぜか客が少なかった。
 9時30分 WiFi100分を買って帰室、シンガポールの入国手続きをする、面倒、国番号はレセ
プションで聞いて書き込んで行く、都市・港など選択項目が多いので選ぶのが大変、何とか、やり終え、無事返事のメールも届いた。カミさんが帰ってきたので咳の申告について相談、咳ありで再申告することにした。
 12時、カミさんが朝ご飯が多かったのでお腹が減っていないと言う、部屋で昨日のパンとりんごを食べる。
 行き交う船が増えてきた。貨物船に混じって漁船(定地綱か2グループ計5隻)も通過する。
 14時30分、カミさんは指圧へ
 15時、パスポートの受け取り7階ビスタラウンジへ、ついでにシンガポール入国手続きに「咳、熱など」について質問があったが「無し」で回答した。若干咳をするので修正したほうが良いか聞いたところ大丈夫とのこと。
 16時、カミさん帰って来る、パスポートを受け取りに5階レセプションへ。
 17時20分、夕食、5階レストランへ。前菜(野菜、鶏肉、パン)スープ(玉ねぎ、チーズのトッピング)、メイン(牛肉とご飯)、デザート(ケーキ)、コーヒー
 18時過ぎ、帰室。

 

 

 ランカウイ・クルーズターミナル1番埠頭着岸

 

 遠方の景色

 

 Sky Cab乗り場周辺  

 

 蓮の花が咲いていた

 

  Sky Cab乗り場、結構混んでいます。

 

 ケーブルカー(小さく見えます)が山の頂上まで運んでくれます。

 

 頂上の風景(左、スカイブリッジに向かうケーブルカー)

 

 ケーブルカーとスカイブリッジ

 

 展望台で

 

 紫陽花が咲いていました。

 

 ビールと焼きそば(隣のご夫婦からお裾分け) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その45(インド洋航海)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

 2023年ピースボート航海記 その17 コロンボ港出航 インド洋航海

 11月21日(火)  
 日の出:5:58     日の入:17:35 

 8時、起床、カミさんの咳で夜中まで眠れなかったが朝方少し寝た様な気がする。
 8時30分、朝食のため5階へ行く、咳が心配なので二人席をお願いする。窓際の良い場所、船が2隻見える。
 9時30分、ショップで買い物をして帰室、カミさんは寝る。私はアウシュビッツの絵を描く。
 11時30分、カミさんを起こして5階レストランへ行く、Kさんに会う、今日、手話の発表会があるとのこと、カミさんは参加する様に言われる。ツアー受付でオプショナルツアーの申し込み(「ランカウイ島ショート観光」11,000円)をする。
 12時、帰室、カミさんは寝る、私はアウシュビッツの絵2作目を描く。その後、私も昼寝。
 16時、カミさんが帰ってくる、手話の発表会に出たとのこと、最初は一番前に座っていたが咳がひどく後に移動、そこでMさんに会ったのでスケッチを渡しておいたとのこと。
 17時30分、14階で夕食、ご飯、スープ、手羽の唐揚げ、ブドウ、紅茶、ケーキ、ゼリー
 19時前、帰室、

途中まで見た発表会の感想(カミさんの感想)
・皆さんそれぞれ楽しんでいる、見ていて気持ちよかった。
・若い男女がそれぞれ独唱した、男の子が歌った(「あなたに出会えてよかった!」の歌詞)は
 共感を呼び拍手を浴びた。
・手話(カミさんも参加を促されたが咳と遅れで不参加)はアウシュビッツに一緒に行ったNKさんが先頭で頑張っていた。
・ビートルズ世代の爺さん二人がビートルズナンバーを数曲ギターを弾きながら歌って拍手喝采
 を浴びていた。
・バレーボールはパスを25回続ける。(新しい競技、舞台バレー?)
・全員黒の衣装で沖縄の空手の型、護身術を披露、カッコよかった。
・舞台一杯に中年以上の男女のラインダンスを披露、盛り上がっていた。

 

 11月22日(水)  
 日の出:7:06      日の入: 18:41

 7時30分、起床 水平線上にフランスパンのような雲、上空には雲の大きな塊、雲の合間には青空が覗く。
 8時、朝食、5階、二人席にしてもらう、和食
 9時、帰室、カミさんは寝る。
 10時30分 いろいろの日特別企画 結婚50年目の赤裸々トーク!にカミさんが参加
        私は読書と昼寝。
 11時15分、カミさん帰室、
       二組の夫婦(二人とも穏やかな感じの夫婦だった)が司会の質問に応える、
       ・出会いはどこで? 
         80代:喫茶店(奥さん(助産婦)が旅行で訪れていた)で夫が声を掛けた 
         70代:カフェで夫が声をかけた
       ・プロポーズの言葉は?
         80代:奥さんを訪ねて飛行機で札幌まで行った。言葉は不明
         70代:覚えていない
       ・50年間で何が大変だったですか
         80代:仕事、子育て、親の面倒などで眠る時間を削って頑張ったことが大
             変だった。(寝る時間が2時間あればよかった)*夫は気づいてい
             なかった(夫の反応:そうだったのか?)
         70代:横浜の旧家の長男で自分の家族を大事にして自分(妻)への配慮に
             欠けていた。夫は自分が着飾ることを望んでいたので十分におしゃ
             れもできた。今回もたくさん買い物をした。
             
       
 14時、14階で遅い昼食、パン、牛乳、野菜、ケーキ、ゼリー、お茶
 15時、帰室、二人とも寝る。
 17時30分、夕食、5階レストラン、ビール小瓶1本、前菜、スープ、メインは太刀魚のフライ、チョコレートムース、コーヒー。ビールの効果か美味しく食べられた。
 18時30分、食後ロビーでピアノ演奏(TOMOFUMI)を聴きながら読書、今までにないピアノの音色だった。
 19時30分、帰室。カミさん参加の「赤裸々トーク」を記録。


 11月23日(木)  
 日の出:7:40      日の入: 19:15
 
 予定 乗客対象避難訓練 9時15分
    →割り当てられたマスターステーションまで移動し、非常時の集合場所の確認を行う。
     警報が鳴ったらIDカード持参で移動のこと。

 曇り、波穏やか
 昨日も、夜中まで眠れなかった、朝方は少し寝たように思える。
 8時過ぎ、起床
 9時15分、乗客対象避難訓練開始のアナウンス。
 避難用階段で7階まで降りてデッキに出る、船の中央にあるマスタールーム(表示小さくがわかりにい)に入る、入口でIDカードのチェックを受け中に、中は既に乗客でいっぱい、放送ではなく時間に合わせて避難したようだ。10分過ぎても何のアナウンスもない、ただ待つのみ、デッキではノルディック歩行する夫婦がいる(何の注意も受けていない)、20分過ぎた頃、イライラする客が出てくる。何と30分経過した頃に避難してくる客が10数名いた、(周知不足か意識が低いか?)30分過ぎて、ようやく訓練終了の船内アナウンスがあった。実効性が上がるように問題点を指摘しておきたい。
・訓練の事前に、また当日、待機している客への説明(目的、内容など繰り返す)が必要。でき
 れば救命ボートの乗り方、救援要請方法まで説明すべき。
 訓練手順が無いのではないか?クルーが沢山いるのにただ立っているだけ、客がイライラしてい
 るにも関わらず知らん顔。→クルーの役割分担を明確にする
・集合場所にハンディーマイクが不可欠、説明が聞こえないと混乱が起きる可能性が高い、また、
 指示(誘導など)の徹底が図れない(安全に避難できない)
 *集合場所が狭いので客の動揺は危険
・遅れてきた客に遅れの原因を聞く必要がある。→アナウンスなど周知方法の改善につなげる。
・サインが分かりにくい(高齢者を考慮していない)ので迷う客が出る(サインの改良、位置、 
 デザイン)
・いくつか非常用を兼た階段があるが客が指示された階段を使っているか確認していない。
 我々が使用した階段、集合場所前には誘導するスタッフがいなかった。
 (部屋の中に入っていた)
・集合場所が狭まく出入口が限られているのでパニックに落ちいたら危険、IDチェックが終わっ
 たら場所を決めて分散させてはどうか。(そのまま救命ボートに乗り込めるように)
・訓練が中途半端、指定された避難場所に集まって終わりではない、ここから始まるのでは?
 集まって、次に何をするのか、具体的に説明しておく必要がある。

   「訓練は本番の様に、本番は訓練の様に」が鉄則、全くなっていない。

 10時、帰室、朝食がわりにりんご、ほうじ茶、14階から持ってきたパン3個、ジュース
 12時30分、7階のレストランで昼食、前菜なし、スープ、魚の揚げ物にご飯、デザートはアイ
スクリーム、シンガポールの夫妻に会ったのでスケッチ2枚(海、とパナマの十字架の丘から見た風景)、CDをプレゼントする。喜んでくれた。住所と、メールアドレスを渡す。
 14時、帰室、日本船(〇〇丸の文字が見えた)がすれ違った。読書、寝る
 17時、5階レストランへ夕食、前菜:合鴨、スープ:春雨 メイン:魚 デザート:ケーキ
コーヒー、ビール小瓶1本
 18時、アトリウムで読書
 19時、帰室、シャワー、記録
 

 

 


  
  
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その44(スリランカ コロンボ港)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

 2023年ピースボート航海記 その17 コロンボ港 スリランカ

          日の出:         日の入:

  11月20日(月) 入港6時 コロンボ港UCT埠頭着岸予定
              Colombo port UCT「Unity Container Terminal」
              
                      利用ゲート ゲート2番または1A番
              ゲート2番の通称:G.O.H.ゲート
              ゲート1A番の通称:チャイティアゲート
       出航22時
       帰船リミット  21:00

 6時、起床
 7時、5階レストランで和食、京都の中年の女性(50歳くらいか?一緒に乗っている子供は別行動、本人はオプショナルツアーに参加するとのこと。)と同席、ピースボートの観光のこと等、懇談する。話の中で中南米に多い建築途中と思われる鉄筋剥き出し状態の住宅は税金対策(ガイドの説明では建築途中の場合は税金が安くなる)とのこと、ようやく疑問が解けた。
 8時、帰室
 9時、準備して下船、少し待ってシャトルバスで市内へ、コンテナターミナルのため出口まで遠い。出口では観光ツクツクが10台以上待っている、断ってもついてくる、客を探すのも大変だが、断るのも大変。外の日差しはキツイ(日陰は涼しい)、取り敢えず、小さな店が並ぶ道を歩く。
 IDカードのようなものを下げたおじさんがツクツクを呼んで無理無理乗せた、値段交渉も出来ないまま「まあまあ」のような感じ(怪しいと思ったがその通りだった)、2時間観光すると言う、インドのヒンズー寺院に行くと「10ドル」と言う、入館料か?興味ないので断る、次は中国が建てたと言ういやらしい塔(蓮の実をイメージした?)、中に入るかと言われ断り写真を撮ったけ(写真も撮りたくない)、ノリタケのショールームがあったので「ノリタケ!」と言ったら停めて店に案内された。買う気も無いので一通り商品を眺めただけ。
 次はお茶を飲まないかと言う、ご馳走してもいいかと思い「Ok」と言うと店の前に停める、カフェではない、紅茶の販売店だった、入るとお茶が出て一通り、商品の説明が始まる、これを買えと言うことらしい。紅茶の土産は買う予定だったので少し買う。
 次は宝石の説明を始める、断っても宝石屋に連れて行かれる。待ってましたとばかり店員が商品を持って来て説明を始める。カミさんは断れず彩子と愛子用と言ってネックレスを買う、そしたら次にブレスレットを持ってきてカミさんの手につける、カミさんはもう買う気モードに入った、「記念に」と言い出す。結局、一番高いブレスレット買う羽目になった。
 運転手にコロンボ国立博物館に行くように伝える、博物館に着いてここで良いと言うといきなり「40ドル」と言われる、一人、14ドルのはずだった、車代を書くように言っても書かなかった理由が分かった。最悪のツクツクに捕まった、油断した自分が悪いと半分の40ドル支払った。そしたら二人分だから80ドルと言い出したので日本語で「ふざけるな!」と怒鳴ったらスゴスゴ引き下がった。
 博物館は前回のピースボートの旅で訪れたところ、ツアー客(団体)も来ていた、エアコンは無く大きな扇風機が回っているだけ、日陰は涼しいので問題なかった。
 仏教やヒンズー教の遺品(金属、石、象牙、土製)が面白い、仏像の表現がそのままヒンズー教に生かされている(顔の表現は似ている)、仏教文化を壊して再構築したのではない。
 仏像を制作した鋳造技術だけでなく生活に必要な鉄製の道具(斧、鍬、鎌、鑿、楔、釘、ハサミ)も展示されていた。また、復元したものか出土したのか丸太舟が展示されていた(真っすぐな丸太(直径70〜80センチ、長さは10メートルはあったと思う)をくり抜いていた。)スリランカの周辺で使っていたのか、帆は張れないのでオールで漕いだろう。
 中国からの渡来品(陶磁器は素晴らしい)が完全な状態で展示されていた。東西交流の証である。直接中国から伝わったものではなく東南アジア経由しではないか。伝わった当時、スリランカには始末な土器しかなかったのでは、そうであれば中国磁器は宝物だったろう。
 仏像もヒンズー教の神像も同じように腰がくびれている、また顔も鼻筋が通って唇が厚め。ヒンズー教の神像は豊満でうねるような動きが魅力的、仏像とは全く異なる表現手法である。
 石像を制作する道具は興味深かった。モデルになる仏像の要所に上から重し(木?)を付けた糸を垂らして位置を決め彫っていくようだ。(石彫には色々な測定方法がある)
 職員に連れて行ってもらい建物の外にあるトイレに入る、大便器は昔の日本と同じだった。カミさんは汚そうだから入らないと言う、大変だ!博物館を出ると通りの向かいに綺麗なコーヒーショップあったので入ることにする。エアコンが効いて涼しい、建物は新しくきれい、アメリカンコーヒーとマンゴジュース、サンドイッチ、ホットドック、ケーキを頼む、美味しい。トイレも綺麗とカミさんは満足していた。
 一息ついて、ツクツクに乗る、こりたので値段交渉をしっかりする、もちろん紙にも書く。「Pettah」まで600ルピー、妥当だ!運転手に歳を聞くと笑いながら70歳と言う、我々は78歳と言うと驚いていた。
「Pettah」は小さな店が表通りから裏通りまでギッチリ並ぶ繁華街、人で溢れている。歩いていると店員に声をかけられる「ジャパン、今日は!」「ありがとう!」「東京?」などと気さくな人々だ。靴、鞄、スマホ部品、衣類、電気製品、CD、スパイス、ナッツ、などの店、店員は皆男だ。
 駅があったので屋根がある陸橋を渡る、階段を上がったら道路の半分は店になっていた。ものもらいもいた、ここであれば日差しも雨も避けられるし人は通るので商売にも良い場所だ。駅でどこから来て、どこに行くのか?バックパッカーの欧米の男女の若者が切符を買っていた、すごいエネルギーだ、良い経験になるだろう、ちょっと羨ましいかった。 
 駅を見物してシャトルバス乗り場に向かう、途中、池がある小さな公園で休む、日陰は涼しい、石のベンチ(カミさんと一緒にウエットティシュで綺麗にして)に腰掛けて涼む。魚は住めそうにないが鷺が数羽、藻で緑色になった池に立っている、壊れて使われていない様な鉄橋を扉がない列車が走って行った。
 ヒルトンホテルが見えたのでお茶を飲むことにする。リュックを背負った姿でちっと気が引けたが堂々と乗り込んだ。荷物チェックがあったがホテルマンはにこやかに迎えてくれた。屋上にカフェがあったら行きたいと言ったら女性職員に2階に連れて行かれて写真を撮って1階へ戻った(伝わっていなかった?)、カミさんが2階いた女性職員に折り鶴をプレゼントしたら喜んでくれた。
 1階のカフェでコーヒーとマンゴジュースを注文する。wi-fiもパスワードとユーザーネームを職員に聞いてメールの処理をした、なぜかLINEは使えなかった。エアコンが効いているカフェでゆっくり休み、綺麗なトイレを利用して元気になったので帰ることにする。
 シャトルバス乗場はカミさんが見つけてくれた。20分ほど待ってバスに乗り込みパシフィック・ワールド号の前で降りる、残った500ルピーでお土産を買って17時、帰船、シャワーを浴びてコロンボの誇りを落とす。
 18時、14階で夕食、ビールを飲む、冷えていて美味しい。
 19時、帰室、カミさんは寝る、私は記録を作成。
 23時、出港

 

 コロンボ港

 

 善人が豹変した悪徳運転手(観光すると言うツクツクは必ず紙に書いてもらうことが必要)

 

 ヒンズー寺院 興味なかったが連れて行かれた

 

 中国が建てた蓮形の気持ち悪いタワー ここも連れてこられた、運転手も嫌いだと言っていた。 

 

 コーヒー、紅茶、香辛料屋さん

 

 宝石屋さん カミさんは勧められると断れない

 

 コロンボ国立博物館で 涅槃像

 

 釈迦坐像 

 

 マカラ(インド神話に登場する怪魚)アーチ下の瞑想像 

 

 衣の襞が美しい仏像、ギリシャ彫刻の影響か?

 

 中国の磁器は中国との交流を物語っている

 

 

 鉄製品 左はナタ、右は鍬?

 

 鎌?

 

 博物館前のカフェで昼食 店もトイレも綺麗だった

 

 商店街風景、小さな店舗が並ぶ昔のアメヤ横丁の雰囲気

 

 食品のショーウィンドウ

  

 コロンボ駅前の歩道橋 露店が並んでいる

 

 コロンボ駅構内の風景 列車が見える

 

 ツクツクのパトカー?

 

 公園で休んでいたら古びた鉄橋を列車が通過して行った、ドアは開け放しだった。

 

 ヒルトンホテルで一休み、ここは別世界だった。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その43(インド洋航行その3)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

11月16日(木) 

日の出:4:54      日の入:16:11

 7時起床、
 8時、5階で和食、同年代の夫婦とピースボート、アウシュビッツ、ユダヤ人問題、差別、日本の軍隊など多彩な話題で話し合うことができた。
 10時、帰室 
 14階でジュース、オレンジを食べ5階で休息
 12時、6階で洋食の昼食、しっかりフルコースだった。
 男3人と同席、メインは鶏肉、同席した方からオーロラの写真(赤青色が確認された)を見せてもらう、肉眼では白色しか見えない、画像処理して色が出たとのこと。私の写真はオーロラ?
また、望遠で撮った自衛鑑の写真(自衛官が半ズボンでリラッスしている姿)も見せていただいた。恐るべし望遠レンズ、油断できない。
 二人は先に去り、残った一人(69歳)の方と懇談した。
 13時30分、帰室、休息、カミさんは昼寝、私は船内新聞で封筒(お世話になった方にプレゼントを入れる)作り(8枚作成)
 16時30分、森達也監督の映画「福田村事件」ができるまでを見る。
 <船内新聞に掲載された内容>
 「数々のドキュメンタリーを手がけてきた森さんが、関東大震災直後の混乱の中で実際に起こった殺害事件を劇場作品「福田村事件」に込めたメッセージについて述べる。」
 四国讃岐から来た薬売りが関東大震災直後に朝鮮人が襲ってくるとの流言飛語により福田村で村民に襲われ8名惨殺された事件をテーマにしている。殺害に関わった村人は大正天皇崩御の恩赦により釈放されたとのこと。さらに悲劇的なことに襲われた人が被差別部落出身であったことから釈放に対する抗議は無かったとのこと。
 上映中なので予告版を見ながらの説明であった。撮影はコロナ感染拡大中で大変だった(誰か罹れば中止)撮影場所もテーマがテーマだけに断られたが幸い森氏の本を読んでいた寺の理解を得て撮影できた、予算も無いので1ヶ月で完成させた。(通常は3ヶ月かかる)。制作は若松プロダクション、製作費1億円(3千万円はクラウドファンディングで集めた)俳優も積極的に出演してくれた。9月配信後、国内で上映されている、韓国の映画祭で受賞し苦手なレッドカーペットを歩いた、中国でも配信するとのこと。関東大震災時に在日韓国人が殺されたことを韓国ではほとんど知られていない、なぜなら在日韓国人は韓国人にとって裏切り者だから(在日韓国人は母国韓国と居住地日本からの二重差別を受けている)
 森氏は日本は加害側に立った映画を制作していない、アメリカ、ドイツ、韓国でもしっかり映画化していると言う。安倍元総理など右派は自虐的と言う、また、歴史的な検証(例、南京事件)がまず必要と言う、全員が一致することはない、結局結論は出ない、だから謝らないと言うことか。


11月17日(金) 

日の出:5:27      日の入:16:52

  海賊対策終了
  時差1時間早める 時差7時間   明日0時には8時間になる
  夜は音と揺れがあったが朝になると揺れが収まり穏やかな航海

 8時、朝食5階で二人だけだった。4人掛けテーブルに二人だけ。誰とも会話出来なかった。
10時、カミさんは運動会の応援、私は読書「我が闘争」、掃除スタッフが窓の覆いを外しに来た。海賊対策は終了、ようやく海が見え、照明を使えるようになった。
12時、カミさん帰ってくる。そのまま6階レストランへ、メイン:ステーキ、デザート:アイスクリーム、多いに満足。
私たちより若い夫婦と同席、北九州市から初めて乗った、レンタカーで乳頭温泉、三陸海岸に行ったことがある、乳頭温泉では白人の女性と混浴で一緒になった(奥さんの前で感激したと言っていた。)、日記を付けているとのこと。私は18年前の航海記はブログで配信している、地元新聞に6回シリーズで掲載してもらったことなどをお話しする。名刺をいただく。

13時、帰室、部屋で読書「我が闘争」
   カミさんは運動会へ、

16時、カミさん運動会から帰ってくる。
   運動会で出会ったのでNさんへのプレゼントを渡しに行く。
16時30分、カミさん帰ってくる
17時、5階のレストランへ夕食、大きなテーブルにバラバラに座らされて話が出来ない。前菜は牛肉と野菜、スープは牛のテール、コンソメ メインは白身魚のフライ、タルタルソース添え、デザート:ケーキ、コーヒー
 私の隣は高齢の女性(80歳代)、離れて同年代の男二人、皆無口で食事。女性がカミさんに「どちらが勝ったの」と聞いてきたので「まだ、わかりません」と答える。その後、会話が途絶え、男二人は結局何も喋らず席をたった。食後、私が「どちらからいらしゃいましたか?」と話しかけると「前は神戸、今は千葉、何もないところ」と言う。色々聞くと50年前に神戸から引っ越してきたが千葉には何も無い、魚は取れるけど良いものは築地に行ってしまうとこぼす。ピースボートには1回目に乗り、飛鳥含めてクルーズ船は今回で4回目とのこと。クルーズ船に詳しい。飛鳥は船も客あしらえも良いがピースボートはボロだけど観光しやすいと言う。元気なお婆さんだった。

18時、5階ロビーで一休み、私は帰室
18時30分、洗濯とシャワー 
19時30分、カミさん帰室、ソファで寝ていたとのこと。
21時、カミさんは洗濯して寝る
 記録と読書「我が闘争」広告論が面白い、宣伝のポイント、重要性を認識していたことに驚く。
イギリスは優れていると言っている。日本も戦時ポスターが盛んに制作された。(職場の先輩だったUKさんの戦中のポスター作品を思い出す)効果、軍部の意向はどうだったのだろうか?

 

 

11月18日(土)

 日の出:6:06      日の入:17:39
 *時差調整 明日、30分、早める   計8時間30分
 予定
 14:45〜15:25  航海の雑学 最終回「ランカウイから日本まで」
 16:15〜17:15  わくわく寄港地〜コロンボ&ランカウイ島〜
 19:00〜 信仰についての集まり(盛岡のMさんから出席するように依頼された)

 7時、起床
 8時、朝食5階で和食を食べる
 我々よりかなり若い夫婦と同席、奥さんは先に用があって退席、夫は残り懇談、盛岡から来たと言うと、盛岡に行ったことがある、息子が地方裁判所に勤務していた、結婚式も花巻でやった、岡山出身なので親戚は飛行機で行ったとのことなど、話が出た。夫は65歳と言うが若い、皺が無いし、髪は真っ黒だった、カミさんもびっくり。
 今回、カナダ大使館勤務の息子一家と出会えた、そのことがPBに乗った目的とのこと、二人の孫が写っている撮った写真を見せてもらった。可愛い盛り、5歳の孫と2歳のひ孫を思い出した。
 9時30分、帰室、シンドラー博物館、アウシュビッツ強制収容所の記録作成
      カミさんは診療室へ
 12時30分、カミさんは診てもらえなかったと言いながら帰って来る。
      そのまま、咳が気になるので14階へ行き、昼食。やたらと辛い麻婆豆腐、野菜、豚肉、大学芋、ゼリー(抹茶味、珍しく美味しい)、コーヒー牛乳
 13時15分、帰室、カミさんは診療室へ
 14時45分、航海の雑学最終回、航路図でイスタンブールから横浜までの航路、岬、灯台を説明。
海賊対策での自衛隊の護衛、モンスーン、海流について


「自衛隊の海賊対策」
<状況>
・紅海の出口、一番狭い海峡が狙われやすい、この付近は浅瀬が多く、海賊は狙った船を浅瀬に追い込んで動けなくなったところを襲う。
・海賊は大型船に小さなボート数艘積み込んでいる。襲う時は速度の速い小舟を下ろして集団で襲う。
・タンカーが狙われやすい。(船員も少なく、身代金も多く奪えるからか?)
<対策>
・航行する船はコンボイを組み、なるべく高速で航行する
・危険な地域を明示して注意を喚起している。(かなり広範 西インド洋の南、半分)
・航行指定箇所のポイントA(危険地域)で自衛隊艦からメールが入り護衛をスタート、自衛隊艦が並走する。ヘリコプターも監視、ポイントC(危険度が一番低い)で護衛終了となる。全て英文で事務的に行われる、挨拶などは無い。ポイントAからCまで2日半の航行となる。
・海賊が発見された場合は自衛隊艦とヘリコプターで阻止する、その方法も決められている。

 *前号写真参照

 終了後、帰室、カミさんは寝ていた。5時30分前にレストランで待ち合わせることにした。
 16時15分、7階シアター「わくわく寄港地 コロンボ&ランカウイ島」
 17時、早めの退室して帰室、カミさんと夕食に5階レストランへ、案内されたのは二人席だった。前菜は鶏肉の蒸煮(美味しかった)、スープ(忘れた)、メインはカシューナッツカレー(口に合わなかった)、デザートは抹茶ケーキ(まあまあ)とコーヒー。
 18時、帰室
 19時30分、8階、ミーティングルームへ、盛岡のMさんに誘われて宗教について懇談。台湾の青年(大学4年生)、マレーシアの女性(東京外語大学留学経験あり)が参加、神について、キリスト教について、イスラム教について、宗教について体験、考えを交換する。気持ちの良い人たちだった。
 21時、帰室、シャワーを浴びる。
 21時30分、ラム酒を飲む。

 

11月19日(日)  
 日の出:6:19     日の入:17:55

予定
 14:30〜15:30 わくわくスリランカ マリオ・ゴメス 7階シアター

 7時、起床
 8時、朝食、沖縄の親子(母親と娘、中2)、同年代の夫婦(妻/上智卒、司祭と出逢いながら未信者)、いわき市の歳上の女性と同席になる。
沖縄の親子とは沖縄の話、列車で行ったパリの話など、同年代の夫婦の妻とは受洗のきっかけや司祭の話をする。
 9時、帰室、掃除は終わっていた。
    部屋で読書(我が闘争)と昼寝(眠い)
 13時、カミさんの咳がひどいので14階で昼食をする。ご飯、味噌汁、鶏肉、カレー、オレンジ、葡萄。食後、ミニシュークリームと紅茶
 14時、帰室、読書、昼寝
 17時30分、14階で夕食、ご飯、味噌汁、茄子の煮物、ひき肉の煮物(不味い)、野菜、オレンジ、メロン(食べ頃で美味しかった)。食後のデザートは中国人がうるさく移動する。オーバランドツアーで出会った青年(40歳)の席に座らせてもらう。カミさん転んでウェートレスに連れてきてもらう、本人は何とも無いと言う。ケーキ1個、紅茶
 19時、帰室

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

115回ピースボート世界一周航海記その42(スエズ運河就航その2)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

11月12日(日)海賊対策避難訓練

日の出:6:38      日の入:17:43 

予定
 9時〜海賊対策避難訓練
 *2日前から船の周囲は有刺鉄線が巻かれ、14階のレストランの一部(正面)は明かりが漏れないように紙が貼られていた。少し緊迫感を感じる。

 6時、起きる、薄曇り、波は少なく穏やか、順調な航海
 7時、カミさんが飽きたと言うので14階で朝食、ご飯、味噌室、サンマ、卵、野菜、ヨーグルト、オレンジ、みかん、コーヒー牛乳。
 8時、帰室、読書、昼寝
 9時、訓練開始のアナウンス
「自室の窓から離れた場所で座って待機して下さい」
「コードジャック コードジャック コードジャック」
 10分後、「訓練を終わります。海上自衛隊が海賊を蹴散らしてくれました」
 読書、ヒットラー「我が闘争」少年期
 12時、昼食、15階でメニューを確認して4階へ、ご飯、キーマカレー、スペアリブ、野菜、オレンジ、ケーキ3種類、ゼリー、紅茶
 13時、帰室、薬、収集物(石)の整理など
 16時30分〜19時 森達也さんの「A」映画上映とトーク に出席する。会場のシアターは夜食を考えると参加しにくい時間帯にも関わらず会場はほぼ満席だった。20分前に行ったが空いている席は前列から2列目だったが中央に座れたので映画を見る支障はなかった。
 オーム真理教の幹部がいなくなり教団を率いている28歳の若者に焦点を当て各地(青山、亀戸など)にある教団施設の破産整理、新聞、テレビなどのマスコミへの対応を森氏自身のハンディカメラで追った作品。ヤクザのような警察官の嫌がらせ、不法な取り調べなどが生々しく映されていた。森氏が言っているように画像や音声は素人、子供の運動会を撮影するお父さんクラスと自分で告白していたがその通り、見ずらいし、音声が聞き取れない。それが真実ぽい雰囲気を醸し出していると考えているのだろう。
 信者たちは普通の若者、悩みから救われたい、その為にオームが教えてくれた解脱の為の修行に励む、家族や周囲の住民から厳しい視線で見られながらも信仰共同体しか生きていけない若者が哀れ。オーム真理教が教える修行のみが悩みを解決してくれると考える短絡さは何だろうか。
 終了後、著書「ぼくらの時代の罪と罰」を購入、

サインをしてもらう、18年前、ピースボートでお会いしたこと(水先案内人として乗船)を伝えると喜んでくれた。

 

11月13日(月) 海賊対策開始

日の出:6:05      日の入:17:25

海賊対策開始
 ・夜間オープンデッキ立ち入り禁止
 ・夜はカーテンを閉めて光を漏らさない
 ・明かりは浴室又はテレビの光を利用する
予定
 ・13:00〜14:15 スリランカに見る共生のあり方 シアター 

 6時、起床、晴れ、薄雲が靄っている、上空は青っぽい。遠く貨物船が3隻見える。波は少し、揺れも少しある。
 7時、カミさんラジオ体操から帰ってくる。
5階レストランで朝食、6人席に5人(男(老人)二人組、女(中年小太り)一人)、カミさんは女性と懇談、咳のことが話題になっているようだ、気さくに良く話す方の様だ。男二人は入っていけない話題に集中しており、どちらにも入れない状態が続いた。そんな時に隣の老人がどちらから?と聞いてきたので盛岡と応えてから東日本大地震のこと、淡路関西大地震のこと、釜石の話題では新日鉄のこと造船会社のこと、下請け企業のことなど色々、展開していった。一人の男と女性が先に出た後も3人で話が弾んだ。先に帰った人は大学(技術系)の同級生で一緒に船に乗ったとのこと、8年前に奥さんが亡くなられて一人で暮らしている、老人ホーム(3,000万円+月20万円)に入ろうと考えていたら娘に勧められて中古マンション(3,000万円)を購入、富士山が見えるし、どこに行くにも3分で地下鉄に乗れる便利さが気に入っているとのこと。
 8時30分、帰室

 

11月14日(火) 海賊対策2日目 自衛隊艦の護衛開始

日の出:4:43      日の入:16:15
   海賊対策2日目  曇り、波、揺れ少し
  *左舷側に自衛隊艦が護衛して並走、時折ヘリコプターの音がする

 7時、起床
 8時、5階レストランで和食
 9時、掃除が入っていたので7階左舷デッキへ、自衛隊艦が見える。
    Kさんが通りかかってアウシュビッツで一緒だったMさん退院して帰国するとの報告を受ける。(同じ埼玉県在住とのこと)
10時、カミさんは指圧へ
11時30分、帰室 代金は1万円、5階のレストランで昼食、そば、ご飯、ハスの煮物、オレンジ
12時30分、帰室
      7階デッキから自衛隊艦を見る
17時、5階で夕食、ビール注文 メイン:シーフードグラタン
   話題は海賊対策、体重、料金、割引
18時、帰室、読書(我が闘争、反ユダヤ主義、民主主義に関する考え方が載って居る)

 


11月15日(水) 自衛隊艦の護衛は終了

日の出:4:18      日の入:15:39」
  自衛隊艦の護衛は終了した様子
  窓が閉じられているので天気が分からない。
  波、揺れは少しある。

 7時30分、5階で和食の朝食、一人で参加した兵庫県のおばさん(1936年生まれ)と同席、元県職員、教員の夫は定年1年前に交通事故で死亡、子供二人(男女、なぜか二人共未婚とおっしゃていた)、長男は何をやっているのか分からないがパリに住んでいる、今回ボルドーで会うことにしていたが寄港中止になってお怒りのご様子(当然だ!)本人曰く「元々ボルドー港に寄港することは船が大きすぎて不可能だったのでは、それをパイロット組合の申し出を受けたと言っているがおかしい、分かっていて計画に入れたのは許せない」とおっしゃっていた。
 夫を送り姑を送り(夫は次男だったが長男が先に亡くなったので「代理長男になった」とおっしゃったとのこと。)仕事も成し遂げ子供二人育て上げた、ただ、子供が未婚のため孫の顔が見られないのが心残り、「孫は可愛いでしょう!」と私たちに振った。孫、ひ孫に恵まれた幸せを喜ばないといけない。元気なおばさんだった。
 9時、7階デッキに出る、ベンチで一休み、光が眩しい、自衛隊艦はもう居なかった。
 9時30分、帰室
 12時、14階でパンと牛乳
 12時15分、シアターへ 森達也さんの「A3」上映、コームのその後を追う、ドキュメンタリー映画、前作「A」から2年半、オウム真理教のその後を描いたシリーズ2弾、マスメディアが伝えないオウム真理教は排斥運動を通して信仰の抱える矛盾や住民との関係を描き出す。
  *A3は完全版 A2カット版
 終了後、14階で果物と野菜を食べる。
 15時30分、帰室
 18時、14階で夕食
 19時30分、帰室

 

  

  森達也さんの著書 「guilty or not guilty」  裁判は白か黒かを判断するのではない、黒か黒でないかを判断するのだ。無罪であることを証明しなくても良い。有罪でないことを示せば良い。

 

 サインしてもらいました!

  

  海賊が出る危険性が高い航路(A〜C)アデン湾

  

  集団航行でのヘリと護衛艦による防御方法

  事前に自衛隊に護衛を依頼するようになっているが時に依頼なしで割り込んで護衛してもらう船舶もあるとのこと。

  

  自衛艦に守られ、一方でパシフィック・ワールド号は有刺鉄線(よく見て下さい)を張って防御を固める。

  夜間に光が漏れないように全ての窓に目張りをして、且つ部屋では最小限の灯りで過ごすことを求められる。

  ちょっと緊張しました。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする