8 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (Taxie) 2006-09-12 17:58:43 ウルトラQって知ってます?この写真は当にそのシーンですよ・・・バルタン星人現る!そちらの墓地ってスゴク整然としてるんですねぇ。新興住宅団地みたい。こんなとこなら夜一人で瞑想してても、ちっとも怖くないでしょうね。 返信する Unknown (remico) 2006-09-12 18:04:40 ウルトラQって面白かったの覚えてるけど、こんな光景、あった??そうなんです、新興住宅地のそばに墓地霊園がたくさんあるの。どこも新しくて綺麗で団地で、値段別に!区画整理されてて、げんなりしますよ。ただし、ここは相当山の中。産業廃棄物処理場のすぐそばに水源があり、この墓があります。ここの水を飲んでます。写真とは関係ないけど。 返信する Unknown (Unknown) 2006-09-12 20:09:39 産業廃棄物+水源=墓? そちらの蝙蝠も飛べなくなるかも・・・ともかく、バルタン星人は都市の背景として登場するのです。何か私の作業場を盗られたような気がしますが、当然ながら違いますね。視点が、、、特にこの一枚が違います。個性が出てるという意味です。私の方がやはりイヌに近い。 返信する Unknown (remico) 2006-09-12 21:31:35 >Taxieさんでしょ?ばるたん星人は、ウルトラQにもでるの?ほんとは産業廃棄物処理場を撮りにいったわけ。新聞で叩かれてガードが固くて、撮れません。水源がなくて隣町にもらい水してるくせに、貯水池のうえにマンションつくるのを許可する変な町です。私は、申し送れましたが、猫派デシタ。墓の一個一個に注視する視点は、今の所あまり無いのです。全景として捉えてしまうところが、未熟なのは自覚してイマス。。。 返信する Unknown (Taxie) 2006-09-12 23:24:51 そう言われてみれば・・ウルトラマンに切り替わってから登場したのかも・・私もネコ好きです。飼ってましたし、今も近所の震災ノラを引き取ろうか迷っているところです。犬の臭いが染みついてるにもかかわらず大抵のネコに好かれますし。ただ生まれた時から警察犬達と一緒に育ち、若い頃犬の学校で教えてたり(絵を)何十頭もの犬と親戚関係にありましたので・・やっぱ犬派かな、どちらかと言えば。> 全景として捉えてしまうところが、未熟関係ないと思いますね。貴女と私とでは世界の広さが違うのですよ。学生の頃、船に乗っていて気が付いたのですが、狭い世界に限られた人数しか居ない毎日が続くと、一人一人について普段気にも留めない(見えない)些細な事がスゴクよく見えるようになります。極小な事柄の比重が変わるのです。ご存知のように現在の私は家族を除けば社会的な存在では殆どありません。この2年間、毎日同じような所で同じようなモノばかり撮ってきました。remicoさんがマクロ的視野で墓場を見てるのに対し、私はミクロ的に見ている。「私の方がやはりイヌに近い」と言ったのは、そういう意味です。それに、先ず「撮る」目的、というか行為の意味が貴女と私では異なりますしね。男に比べて女は視野が狭い、或いは能力が違う、と言われてきましたが、私は同じ問題だと思います。住む世界が限られたら、それに順応するのが人間です。自分の事ばかり持ち出して恐縮ですが、物心付いて以来、震災に遭うまで私の目は常に広く、先を見通すことに長けておりました。今は全く逆です。子供達から小言が多い、細々とウルサイ、キチキチし過ぎる、と評価されてます。 返信する Unknown (remico) 2006-09-13 01:10:38 (起きてきて復活・・・)おはようございます。寝ぼけ眼で長い手紙のようなコメント読みました~!眼が覚めましたよ~!(笑)いつもお邪魔しては長いコメント書いては、しまった(笑)と思ってたので、これでおあいこですね~。 さて、「住む世界が限られていたら見るものが違う」同感ですね。ミクロ的世界での話、よくわかります。赤ん坊と接する日々を、社会性が閉ざされた育児的日常と毛嫌いする女性が多いです。しかしあえてフェミニストから誤解される言い方をしてしまいますが、ミクロだからこそ、見える世界の豊穣さがあるのだと、常日頃感じています。そのことのはがゆさをいつも感じて暮らしてきました。こどもから見る世界は、弱者の視点、経済効率から外れた、命を循環として捉える眼差し、それが、今の社会に欠けているのです。ここで制度についてフェミニズムについて言いたいのではなくて、赤ん坊や子どもの世界から見えるミクロ的視点から、世界を自分の暮らしの場を視ることに繋げていく感性を、自ら磨耗させてほしくないと思いますね。 また、職人さんなども、その分野でのミクロなデティールに迫れば迫るほど、面白い話ですね。古い映画で「母の眠り」だったとおもいますが、寝たきりの母を姉が介護する。そこへキャリアウーマンの妹が帰ってきて、ふたりの暮らしを目の当たりにする。まったく違う視点で暮らしが存在することに愕然とするのですが、その母と姉の唯一の楽しみは、鏡の反射光を壁に映し、そのきらめきの美しさを眺めて微笑むというものでした。全体に重いストーリーのなかで、そのシーンがとても強烈でしたね。何故なら、赤ん坊を抱いてちいさな部屋のなかで、陽だまりへと移動する暮らし、そのミクロなかけがえのない美しさ、それとダブりました。陽の光に映し出されるちいさな命の愛しさ。社会の速度に合わせない暮らしのなかで、命を育むという愛しさ。。。。そんなものがこの世にはあるのです。社会性がなんだ、と思いますね。ああなんだか書いていて、この写真がまったく小さく見えてきました。(笑)Taxieさんのお話からどんどん、拡がって。。。。 返信する Unknown (Taxie) 2006-09-13 12:36:49 拡がっていきますねぇ、この件は。以前の書き込み(私のHP?)から現状に幻滅しておられるように感じましたので、長々とスミマセン、最後にもう一言だけ。前にシンポジウムを開いた話しましたね。私はその点では楽観的なのですよ。全体を見渡せる人が必ずしも部分まで理解する能力が有るとは限りません。往々にして、大局的に物事を見れる人は、部分を見ようとする人を内心小馬鹿にしているからです。それを能力の違いだと、口には出しませんが、思ってます。ところが、今、部分に囚われてる人にはその傲慢さが有りません。結論から言いますと、部分から全体をイメージさせるような、またその逆の写真を撮れるのは、男より女の方が有利な立場に立たされているということです。男が「変容」するのは容易ではありません。このままの方が居心地が良いですし、どちらの性からも現状維持を求められてますから・・・ 釈迦に説法でした。 返信する Unknown (remico) 2006-09-13 17:47:34 釈迦に説法だなんてとんでもないですよ。女性が有利といってもねえ、わたしというひとりの人間のなかでさえ、上記の「母性原理(なんちゅう反動用語か)である部分と、少年の部分、アグレッシブな部分とインナーチャイルドな部分とありますからねえ。またmixiのフェミニストは恐ろしく論理的な論客揃いですが、その点私は、直感的というか、たとえば新宿のバスのなかでおっぱいをはだけて、授乳するような女です。どちらかというと、エコロジカルフェミニズムの影響を受けてきましたか。屋久島の山尾三省くらいミニマルに暮らしたらさぞかし。。。と思うこともあります。だけど、この世に解脱して子どもを育てるわけにはいかんのです。どだい、長男が学齢期になったとき、国家に人質にとられた気分でしたけど、それでも純粋培養なんてできっこない。「部分と全体」というホワイトヘッドの哲学書がありましたが、とんでもなく難しくて読めませんでした。哲学書のほとんどを読めませんが、かろうじてこないだいった森岡正博氏だけは面白かった。なんかね、男であることで成り立っているこの社会の価値観を脱却しようとしている螺旋状のあがき(マゾ的な)がこれでもかというくらい、独白めいた文章で書いてあるんですよ。すべてが消費社会にからめとられていく文明の危機感と男性原理の限界、そのうめき声が代弁者のようにひとり芝居の語り部のように延々と琵琶法師のように続く。先入観捨ててTaxieさんも読んでみてくださいな? 返信する 規約違反等の連絡
この写真は当にそのシーンですよ・・・バルタン星人現る!
そちらの墓地ってスゴク整然としてるんですねぇ。新興住宅団地みたい。
こんなとこなら夜一人で瞑想してても、ちっとも怖くないでしょうね。
そうなんです、新興住宅地のそばに墓地霊園がたくさんあるの。どこも新しくて綺麗で団地で、値段別に!区画整理されてて、げんなりしますよ。
ただし、ここは相当山の中。産業廃棄物処理場のすぐそばに水源があり、この墓があります。
ここの水を飲んでます。写真とは関係ないけど。
ともかく、バルタン星人は都市の背景として登場するのです。
何か私の作業場を盗られたような気がしますが、当然ながら
違いますね。視点が、、、特にこの一枚が違います。
個性が出てるという意味です。私の方がやはりイヌに近い。
ばるたん星人は、ウルトラQにもでるの?
ほんとは産業廃棄物処理場を撮りにいったわけ。
新聞で叩かれてガードが固くて、撮れません。
水源がなくて隣町にもらい水してるくせに、貯水池のうえにマンションつくるのを許可する変な町です。
私は、申し送れましたが、猫派デシタ。
墓の一個一個に注視する視点は、今の所あまり無いのです。全景として捉えてしまうところが、未熟なのは自覚してイマス。。。
私もネコ好きです。飼ってましたし、今も近所の震災ノラを引き取ろうか迷っている
ところです。犬の臭いが染みついてるにもかかわらず大抵のネコに好かれますし。
ただ生まれた時から警察犬達と一緒に育ち、若い頃犬の学校で教えてたり(絵を)
何十頭もの犬と親戚関係にありましたので・・やっぱ犬派かな、どちらかと言えば。
> 全景として捉えてしまうところが、未熟
関係ないと思いますね。貴女と私とでは世界の広さが違うのですよ。
学生の頃、船に乗っていて気が付いたのですが、狭い世界に限られた人数しか
居ない毎日が続くと、一人一人について普段気にも留めない(見えない)些細な
事がスゴクよく見えるようになります。極小な事柄の比重が変わるのです。
ご存知のように現在の私は家族を除けば社会的な存在では殆どありません。
この2年間、毎日同じような所で同じようなモノばかり撮ってきました。
remicoさんがマクロ的視野で墓場を見てるのに対し、私はミクロ的に見ている。
「私の方がやはりイヌに近い」と言ったのは、そういう意味です。
それに、先ず「撮る」目的、というか行為の意味が貴女と私では異なりますしね。
男に比べて女は視野が狭い、或いは能力が違う、と言われてきましたが、私は
同じ問題だと思います。住む世界が限られたら、それに順応するのが人間です。
自分の事ばかり持ち出して恐縮ですが、物心付いて以来、震災に遭うまで私の
目は常に広く、先を見通すことに長けておりました。今は全く逆です。
子供達から小言が多い、細々とウルサイ、キチキチし過ぎる、と評価されてます。
おはようございます。寝ぼけ眼で長い手紙のようなコメント読みました~!眼が覚めましたよ~!(笑)
いつもお邪魔しては長いコメント書いては、しまった(笑)と思ってたので、これでおあいこですね~。
さて、「住む世界が限られていたら見るものが違う」同感ですね。ミクロ的世界での話、よくわかります。
赤ん坊と接する日々を、社会性が閉ざされた育児的日常と毛嫌いする女性が多いです。しかしあえてフェミニストから誤解される言い方をしてしまいますが、ミクロだからこそ、見える世界の豊穣さがあるのだと、常日頃感じています。そのことのはがゆさをいつも感じて暮らしてきました。こどもから見る世界は、弱者の視点、経済効率から外れた、命を循環として捉える眼差し、それが、今の社会に欠けているのです。ここで制度についてフェミニズムについて言いたいのではなくて、赤ん坊や子どもの世界から見えるミクロ的視点から、世界を自分の暮らしの場を視ることに繋げていく感性を、自ら磨耗させてほしくないと思いますね。
また、職人さんなども、その分野でのミクロなデティールに迫れば迫るほど、面白い話ですね。
古い映画で「母の眠り」だったとおもいますが、寝たきりの母を姉が介護する。そこへキャリアウーマンの妹が帰ってきて、ふたりの暮らしを目の当たりにする。まったく違う視点で暮らしが存在することに愕然とするのですが、その母と姉の唯一の楽しみは、鏡の反射光を壁に映し、そのきらめきの美しさを眺めて微笑むというものでした。全体に重いストーリーのなかで、そのシーンがとても強烈でしたね。
何故なら、赤ん坊を抱いてちいさな部屋のなかで、陽だまりへと移動する暮らし、そのミクロなかけがえのない美しさ、それとダブりました。
陽の光に映し出されるちいさな命の愛しさ。
社会の速度に合わせない暮らしのなかで、命を育むという愛しさ。。。。そんなものがこの世にはあるのです。社会性がなんだ、と思いますね。
ああなんだか書いていて、この写真がまったく小さく見えてきました。(笑)
Taxieさんのお話からどんどん、拡がって。。。。
以前の書き込み(私のHP?)から現状に幻滅しておられるように感じましたので、
長々とスミマセン、最後にもう一言だけ。
前にシンポジウムを開いた話しましたね。私はその点では楽観的なのですよ。
全体を見渡せる人が必ずしも部分まで理解する能力が有るとは限りません。
往々にして、大局的に物事を見れる人は、部分を見ようとする人を内心小馬鹿に
しているからです。それを能力の違いだと、口には出しませんが、思ってます。
ところが、今、部分に囚われてる人にはその傲慢さが有りません。
結論から言いますと、部分から全体をイメージさせるような、またその逆の写真を
撮れるのは、男より女の方が有利な立場に立たされているということです。
男が「変容」するのは容易ではありません。このままの方が居心地が良いですし、
どちらの性からも現状維持を求められてますから・・・ 釈迦に説法でした。
女性が有利といってもねえ、わたしというひとりの人間のなかでさえ、上記の「母性原理(なんちゅう反動用語か)である部分と、少年の部分、アグレッシブな部分とインナーチャイルドな部分とありますからねえ。またmixiのフェミニストは恐ろしく論理的な論客揃いですが、その点私は、直感的というか、たとえば新宿のバスのなかでおっぱいをはだけて、授乳するような女です。
どちらかというと、エコロジカルフェミニズムの影響を受けてきましたか。屋久島の山尾三省くらいミニマルに暮らしたらさぞかし。。。と思うこともあります。だけど、この世に解脱して子どもを育てるわけにはいかんのです。どだい、長男が学齢期になったとき、国家に人質にとられた気分でしたけど、それでも純粋培養なんてできっこない。
「部分と全体」というホワイトヘッドの哲学書がありましたが、とんでもなく難しくて読めませんでした。哲学書のほとんどを読めませんが、かろうじてこないだいった森岡正博氏だけは面白かった。なんかね、男であることで成り立っているこの社会の価値観を脱却しようとしている螺旋状のあがき(マゾ的な)がこれでもかというくらい、独白めいた文章で書いてあるんですよ。すべてが消費社会にからめとられていく文明の危機感と男性原理の限界、そのうめき声が代弁者のようにひとり芝居の語り部のように延々と琵琶法師のように続く。
先入観捨ててTaxieさんも読んでみてくださいな?