つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

明石城【三回目】@兵庫県

2024-02-06 09:00:00 | 100名城
2024年2月6日

昨日に続き、本日も再び日本100名城の明石城にやってきました。

昨日は夕方に訪問したことで、外が暗くなったので断念したエリアを見るのが目的。

やはり城は事前の予習と、ゆっくりと周るための時間が必要だと再認識しました。

明石城の築城は1619年。
江戸時代の初期に明石藩初代藩主、小笠原忠政によって築かれました。

三度目の訪問のため、以前に書いたブログと内容が重複するところもありますが、お付き合い頂けると幸いです。



JR明石駅の目の前が城跡という最高の立地。

本丸下からのショット。
こちらは大きな広場になっていますが、当時は御殿などが多く建築されていたエリア。

休みのはイベントなどが開催されています。
昨年9月に訪問した際は、イベントをやっていたのでこの広場から写真を撮ることができませんでした。

今日は平日なので撮り放題です!

昨日も書きましたが、
現存の三重櫓に目がいきがちですが、奥まで続いている石垣を見ると長い巨大城郭なのが分かります。



まずは昨日同様、階段を登って本丸を目指します。



奥が東の丸、絞りが入って手前側が二の丸になります。

石垣は二段になっていて、高さは5mの石垣の上にさらに約15mの石垣が積まれています。
写真を撮っている位置は5mの石垣の上からになります。

この場所は木村拓哉と綾瀬はるかが主演のレジェンド&バタフライのロケ地にも使われました。

徳川家康が安土城に訪れた時のシーンですね。



現代の明石城の顔とも言える現存の三重櫓。
手前が巽櫓で奥が坤櫓です。

この一瞬だけ奇跡的に天気が晴れました。
この時の時間は朝の8時頃。

早起きは三文の徳!



階段を登ると二の丸に到着します。
小屋のような休憩所からの一枚ですが、二の丸と主郭の間はスーパーモデル並みにキュッと絞り込まれています。

おそらく、敵が攻めてきた際に二の丸から本丸を攻めるときに急激に狭まった通路で敵の侵攻を阻むよう設計されていると予想。



本丸の展望台からのショット。
朝日が眩しく素晴らしい一枚が撮れました。

巽櫓のシルエットと淡路島、海が本当に綺麗。



こちらは反対側の坤櫓。
天守閣がなかった明石城にとって、坤櫓は天守代用の重要な建築物でした。

ちなみに、現在の明石城跡にはこの二機の櫓以外は建築物がありません。

しかし、当時はこの本丸を囲むように、四方に櫓があがっていました。
その内の二つが現存しているということですね。



坤櫓の裏には天守台があります。
本丸から+3.6mの高さの石垣です。



天守台は25m×20m。

熊本城と同規模で、五重の大天守が建築できるほどの大きさ。

写真で改めて見ると大きい天守台だと実感します。

しかし、明石城に天守はあがりませんでした。
理由としては諸説ある中で、砲弾の対象になることを避けるためだったと言われています。



天守台から見た坤櫓。

三重の坤櫓だけでも迫力があるのに、大天守がここにあったら、全国でも屈指の名城になっていた可能性があります。



来た道とは反対側から本丸を眺めます。
奥の方に張り出した石垣が天守台になります。



天守台を下から間近で見ると、その迫力が伝わります。

石垣の反りもとても美しい。



天守台と坤櫓。
ここに五重の天守があがっていたら、どんな景色だったのでしょうか。



坤櫓の脇は城門跡になっていて、一度下っていきます。



手前が坤櫓、奥が巽櫓。

櫓の真下は歩けるようになっています。
昨年の9月に訪問した時は、草が生い茂っていた為にこの道を通ることができませんでした。

坤櫓は高さ13.2m。巽櫓は12.5m。
ちなみに現存12天守の宇和島城の天守閣は15.7m、弘前城は14.4mです。

この数値だけ見ても、明石城の二つの櫓が天守閣に匹敵する規模であることが分かります。



こちらは巽櫓。
巽櫓は阪神淡路大震災でダメージを受け、曳家工法で櫓ごと移動して修復されました。



二の丸下からのショット。
五枚目の写真でも説明した通り、手前側の二の丸と櫓がある本丸は急激に狭まります。



坤櫓と巽櫓を繋ぐ高さ2.3mの土塀は2000年に復元。

明治に取り壊されてから、正確な構造が不明だった為に復元できずにいたが、阪神淡路大震災で被害を受けた櫓を修復中に、なんと土塀の資料が見つかって復元に至ったそうです。

まさに一難を乗り越えたことによる奇跡。



奥までずっと伸びた石垣は東の丸。約15mの高石垣。



昨日は暗くて城の反対側や東の丸の石垣を見れなかったので、今日はしっかりと周りますよ!

東の丸の高石垣の下からのショット。

ここから見ると東西に長い城なのが分かります。
高石垣の全長は東西約380m!
この380mの内に本丸、二の丸、東の丸があります。



東の丸、高石垣の端部。
90度曲がってこちらからも城郭に向かうことができます。



石垣を間近で見ると矢穴の跡があります。
このギザギザは石材を加工した証です。



明石城の石垣には至る所に石材に刻印がされています。

明石城は徳川秀忠の命によって天下普請で築城された城。
各地の大名が持ち回りで築城しました。
現代の国家プロジェクトのような位置付けでしょうか。

とくに天下普請の城には築城の証として石垣に家紋などを刻印することが多いです。

先人が残してくれたメッセージです。



今回は二の丸から反対側に降りてみます。
これは昨日も、去年の9月も行っていなかったエリア。

目の前に広がるのが本丸の石垣。
やなり二の丸と本丸の間は急激に絞っています。



こちらのアングルからだと分かりやすいです。

左側が二の丸、右側が本丸。
やっと城の全容が分かってきました。



本丸の石垣。
この両端部にも当時は高さ11mクラスの櫓がありました。

ちゃんと発掘調査もされているので、いつか復元されるのを期待しています。



本丸の裏側には桜堀があり、森になっています。

これもまた明石城の面白いところで、櫓側から見ると典型的な平城のように思えるのですが、裏側は山城のようなテイスト。



裏側から見た本丸跡。
こちらも石垣が二重になっています。



こちらは櫓の脇にある稲荷曲輪の石垣。
城全体を歩くと主郭を全て石垣で囲んだ鉄壁の軍事施設であることが分かります。

さすが天下普請で築城された城。
しかし、阪神淡路大震災では1/8の石垣が崩壊したそうです。

綺麗に修復され、こんなに素敵な城を現代に残して頂いた行政と職人には頭が下がります。

この稲荷曲輪の上に本丸があります。



稲荷曲輪の隅から見た坤櫓。
この角にも櫓がありました。



城郭の全体。
本丸と二の丸を繋ぐ道が極端に狭いのが分かります。

そして、天守台を見ると城郭の隅に極端に偏っています。

天守側が大阪方面。東の丸側が西国の方面。
この理由には築城時の時代背景があります。

大坂の陣後は大阪城には徳川家が入城しました。
その際に明石城は大阪城を防備する為、西国の抑えとして築城されました。

つまり、味方である大阪側からの攻撃は一切想定していない構造となっています。

豊臣家が滅んだ後も江戸幕府が西国を警戒していたことがわかります。

兵庫といえば姫路城が有名ですが、明石城は姫路城から電車で20分ほどの近い場所にあります。

天守はあがっていなかったものの、姫路城に劣らず威厳ある城だったと思われます。

現在は公園となっていて、ワタクシが訪問した平日の早朝は通勤や通学で多くの方々が、この城跡内を歩いていました。

おそらく城郭内が駅に向かうショートカットできる道なのですね。

桜堀では釣りをしている人がいて、石垣の周りを運動している人もいます。

築城時とは用途や形は変われど、明石のシンボルであり、地域と共に時が進んでいることには変わりないようです。


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明石城【二回目】@兵庫県

2024-02-05 19:00:00 | 100名城
2024年2月5日

東大阪の現場視察、堺市での設計打ち合わせが15時半頃の終了した為、急いで兵庫県の明石城に向かいました。

昨年に明石城には一度訪問しているのですが、均整の取れた現存の三重櫓に圧倒されすぎて、他の見どころを完全に見落としてしまった為、再度訪問しました。

ちなみに、明石城は個人的に好きな城のトップ3に入るほどお気に入り。

大阪駅から神戸線に乗って不覚にも到着が17時30分頃。

既に外は薄暗かったのですが、予定通り決行です!

時間がないのでJR明石駅から門を抜けてストレートに本丸方面へ向かいます。

写真撮影も省略しました。


まずは左手には三重の坤櫓。
櫓とは思えぬほど風格があります。

こちらは現存の櫓で天守閣が無かった明石城の天守代用とされた櫓です。



続いて右手には巽櫓。
こちらも現存の三重櫓。

この二つの櫓が本丸の両隅にあり、迫力が満点すぎて前回はつい櫓を見るのに夢中になりすぎました。


こちらが主郭への入り口です。
奥に見えるのは二の丸、さらに奥には東の丸があります。

前回、そちらには全く行かなかったので後悔しておりました。



明石城の定番かもしれませんが、この角度からのショットが好きです。

約5mの石垣の上に、15mの石垣が乗り、さらに約13mの櫓が上がっているので、グランドラインから見ると30m以上を見上げる事になります。

この数値だけでも、明石城の凄さがお分かり頂けると思います。



こちらは本丸の櫓の反対側、東の丸の石垣。
この上には二重の櫓が上がっていました。



奥から東の丸→二の丸→本丸と連郭式となっています。

張り出した石垣が東の丸で、引っ込んだ石垣が二の丸。



主郭部に向かう門跡。
ここを抜けると左手が本丸、右手が二の丸になります。



東の丸から見た二の丸と本丸の写真。
この時、既に暗くなりつつあります。



二の丸跡。
今は門の跡と広場のみとなっています。



上から眺めた眺望。
現在、下には明石公園として広場や野球グラウンドになっていますが、以前は御殿などが広がっていました。

城郭面積は姫路城よりも大きかったそうです。

さすが将軍徳川秀忠による天下普請で築かれた城。



東の丸入り口からの城門。
枡形虎口となっていて、石垣のみが残ります。

この先には薬研堀があり、土橋で城外に繋がります。
そちらは、暗すぎて写真を撮ることができませんでした。



二の丸と東の丸を繋ぐ城門跡。

形から推測するに、長屋のような建築物がこの石垣の上にあったと思われます。



二の丸から見た本丸。
現存櫓の反対側から見た景色で、本丸がかなり張り出しているのが分かります。

ここから見た石垣も迫力があり凄まじい。

下に降りる道はあるのですが、やはりこちらも暗すぎて断念。
写真は加工しているので明るく見えますが、この時間で既に18:00でしたのでかなり暗いです。



本丸の巽櫓。
巽櫓と坤櫓の間は土塀を復元しており、展望台となっています。

ここからの景色も素晴らしい。
奥には淡路島と明石海峡大橋が見えます。



登城した逆側から降りて本丸の下周りを歩きます。

本丸の石垣。
こちらにも当時は櫓がありました。



本丸の石垣と奥には天守台があります。
右手は稲荷曲輪が広がります。

以前も通っている道なのですが、ちゃんと調べてから周ると見どころが多い城跡だと改めて実感します。



このショットもお気に入り。
天守台、坤櫓、タワーマンション。

ライトアップも綺麗で、城漆喰の櫓が昼とは違った顔を見せてくれます。



比べると天守台が巨大なのが分かります。
ちなみに、明石城の天守台は熊本城並みの大天守が上がるほどの規模。

坤櫓だけでも迫力あるのに、ここに大天守があったらと、想像せずにはいられません。







到着した17時半からちょうと1時間が経過したことで完全に暗くなり、再び戻って同じアングルからのショット。

さっきとは全く別物に見えます。



ライトアップの明石城。カッコ良すぎます。
2000年に復元した土塀は高さ2.3m、長さ96m。

阪神大震災を乗り越えて現代に生き続ける名城。



明石駅からのショット。
この写真を見ていただくと分かるのですが、櫓がある本丸に目がいきがちですが、とても横に広い城郭なのが分かると思います。

暗くて逆側を見ることができなかったの
結果として次の日も行く事にしました。

明石城の歴史等に関してはそこで触れたいと思います。


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郡山城@奈良県

2024-02-04 15:00:00 | 続100名城
2024年2月4日

週明け月曜日に堺と神戸で設計打ち合わせがあるため、前乗りして奈良県大和郡山市にある郡山城に行きました。

続100名城に選定されている名城です。

天正8年、筒井順慶がこの一帯を織田信長に与えられたことで入城し、縄張りを行い築城したのが始まり。

天正13年には豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が入城して大改修を行なったことで城が拡張され、城下町も覆う総構えの巨大な城となりました。

織田信長、豊臣秀吉時代に築城された城は織豊系と呼ばれますが、まさに織豊系の築城技術を色濃く残した城跡。

その後、秀長以降は城主が度々変わりますが、郡山城は幕末まで残ります。


近鉄郡山駅から歩いて五分ほど。早速郡山市役所前の交差点に石垣らしきものを発見。

見るからに城門の石垣の遺構。



信号を渡って近くで見ると柳御門跡となっています。

櫓門を連想させる石垣。
郡山城は冒頭からいきなり魅せてくれます!



柳御門を抜けて、市役所一帯は三の丸跡。現在は三の丸緑地として広場になっています。



何があるわけではないのですが土塀でちゃんと囲まれています。

町全体に城の雰囲気があり素晴らしい。



同じく三の丸緑地。





三の丸緑地を過ぎて左に曲がり踏切を渡ると、またしても城門跡が見えてきます。



こちらは鉄御門(くろがねもん)。
右手には水堀と石垣が先まで伸びていて、左手は現在郡山高校になっています。

食い違いの虎口で防御機能も考慮された造りになっていますね。



立派な野面積の石垣。
石材の形をそのまま生かして積み上げる技術は、信長や秀吉時代の特徴的な技術。

石の形も大きさも様々。
先の時代には石垣を加工する技術が増えてきますが、石の形の特徴を読んで積み上げる野面積は、また違った石工職人の技術をビリビリ感じることができて個人的には好きですね。



竹林橋櫓跡から入城します。
この先が主郭となります。



竹林橋櫓の右手。
櫓を前にせり出すことで視覚が増えて、敵が攻めてきた際の迎撃範囲が広がります。
※これは個人的な想像。



左手も同じく櫓が前にせり出しているので、均整のとれた美しい城になっています。



竹林橋櫓を抜けると先には本丸跡と天守台があります。



右手には白沢門跡があり、極楽橋へと繋がります。



極楽橋は令和3年に再建された新しい橋。



極楽橋の右手からのショット。
かなり高さのある空堀。

おそらく敵がここまで攻めてきた際は、最後の手段としてこの橋を落とすことで本丸を分断し、守りを固める事を想定した築城と思われます。

国宝の彦根城も同じ意図で橋が架かっていました。



極楽橋からの空堀。
かなり迫力ある石垣です。

高さ約10mの石垣をこれだけの範囲で壮大に積み上げたのは、豊臣政権の威厳が反映された城だからでしょうか。

実際に弟の豊臣秀長を入城させたことを考えても、非常に重要な位置付けの城であったことは間違いなさそうです。



反対側から見た極楽橋。
よく見ると極楽橋は木造で再建されています。

本丸を繋ぐ橋なので、この橋があるのと無いのでは雲泥の差です。
この橋一つあるだけで、当時のイメージが膨らんで築城における意図を想像することができます。

これは大和郡山市の努力に感謝です。



本丸の天守台に行く前に、毘沙門曲輪から下って追手櫓に向かいます。

こちらは追手向櫓。
現在の郡山城のシンボル的存在。



そして向かい側には追手門。
巨大な枡形虎口となっていて、立派な櫓門です。

郡山城の建築物は関ヶ原の戦いの後、二条城に移築されたそうです。しかし、この追手門は再び郡山城に再移築されました。



明治期に追手門を含めて郡山城は取り壊されます。

豊臣家の家紋が煌びやかに輝く現在の追手門は、1980年に豊臣秀長の時代に近い形で復元されました。



追手門から見た追手向櫓と多聞櫓。
枡形虎口がより分かりやすいショット。

白漆喰の城もかっこいいですが、下見板で木が全面に見えるのもシブい。





追手門を抜けると90度折れ曲がります。
枡形の上から見下ろすと、攻撃しやすい形状に計算されているのが分かります。


追手門脇からのショット。
二重の望楼型。追手向櫓と多聞櫓は1987年に復元。
追手向櫓→多聞櫓→追手門の内部は繋がっています。



内部は現在、盆梅展が開かれており建築物内は梅の展示がされていました。

観覧料金を支払って内部に潜入です。
もしかしたら、普段は櫓内には入らない可能性があります。

こちらは、追手門の内部になります。



続いて多聞櫓内部。
ちゃんと木造で復元されています。



追手門と多聞櫓の繋ぎ目。



追手向櫓の内部。
残念ながら2階には行くことはできませんでしたが、十分に雰囲気を味わうことができました。

ちなみに、近鉄列車からはこの追手向櫓が見えます!
そこも計算して復元したと思われます。



線路脇から撮った写真。
こちらは追手門の脇にある東隅櫓。



近鉄の列車内から撮った一枚。
何気に電車からのショットが一番絶景な気がします。

手前が東隅櫓、左奥が追手向櫓。
二段式の石垣も美しく見えます。



電車の中からだと、こんなに綺麗に東隅櫓を見ることができます。

線路脇からだと電線などがどうしても映り込んでしまいますからね。



戻りまして、追手門を抜けると常盤曲輪があり、本丸を方向を見ると天守台も一望することができます。



野面積みの石垣も綺麗に見えます。



本丸をぐるりと周ると、見る角度によって見え方も変わるのが石垣の魅力。

この時代はまだ山城で土塁や土堀などの城が多かったので、総石垣の城というだけで威厳がありました。

時代が変わると石垣に巨石を使うようになり、大きな石を門の脇などに積むことで、威厳を表現するように築城されました。



天守台の前にやってきました。
二段の石垣の形状からすると、天守の前には付櫓などが連結していた可能性もありそうですね。



天守台の前からの一枚。
堀の石垣、奥には追手向櫓など一望することができます。



天守台の角の石垣は算木積み。
これだけの総石垣の城郭な為、石材が足りず転用石が使用されています。

石垣の至る所に石仏や石塔などが使用されているので、神社仏閣から運び込まれたものと思われます。

織田信長が築城した安土城や、明智光秀が築城した福知山城なども転用石が使われています。

石垣の城が出現し始めたこの時代ならではの遺構と言えます。



いよいよ天守台の上に登ります。



上からの景色は格別です。

元々、資料が少なく天守があがっていたのかも分からず実在が疑問視されていて、幻の天守と称されていましたが、2013年から4年がかりで発掘調査を開始。

天守台を解体した際、礎石が見つかり天守閣があったことが確実になりました。

出土した瓦から豊臣期のものが有力となり、さらに裏込にも転用石が使用されていることが判明し、600点との石仏や石塔が発見されたそうです。

まるでタイムカプセル。



最後はゆるり城の周りを歩き、松蔭門の前にやってきました。

水堀などの石垣に比べて、石材が加工されているように思います。

石垣を見れば同じ城でもつくられた時代が違うのが分かります。



松蔭門から続く石垣。
石垣から水堀を挟んで麒麟曲輪があります。



反対側の松蔭門から続く石垣。



麒麟曲輪を沿って歩くと空堀があり下に降りることができるとパンフレットの表記を見たので向かったのですが、残念ながら現在整備していて工事中。

橋の上から空堀を眺めます。



堅牢な城の遺構がここまで綺麗に残っていることに驚きました。

郡山城の石垣を作った石工職人は穴太衆です。
信長の伝説の城、安土城の石垣を積んだ石工集団です。
ちなみに、穴太衆の技術は現代でも滋賀の粟田建設によっておよそ300年継承され続けています。

野面積みの石垣を見ると本当に技術を感じます。
一つ一つ形が違う石なのに、ここになければ巨大な石垣が完成しないと言わんばかりのドンピシャな積み方。



400年以上も前の石垣が現代でも残っていることがまさに技術の高さを証明しています。



豊臣秀吉が築城した城はもう残っていません。
大阪城も石垣を含めて全て徳川が作り変えたもの。
流れゆく時代の中で廃城になったり、改修されたりして豊臣期に築城した城自体が貴重です。

この時代の荒々しくも威厳があり、守りを意識した要塞感が残る郡山城が個人的にはとても好きです。

これからも、より多くの方に魅力を伝え続けて頂きたいと思います。

100名城をしのぐ、続100名城の郡山城でした。


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