城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

郡山城@奈良県

2024-02-04 15:00:00 | 続100名城
2024年2月4日

週明け月曜日に堺と神戸で設計打ち合わせがあるため、前乗りして奈良県大和郡山市にある郡山城に行きました。

続100名城に選定されている名城です。

天正8年、筒井順慶がこの一帯を織田信長に与えられたことで入城し、縄張りを行い築城したのが始まり。

天正13年には豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が入城して大改修を行なったことで城が拡張され、城下町も覆う総構えの巨大な城となりました。

織田信長、豊臣秀吉時代に築城された城は織豊系と呼ばれますが、まさに織豊系の築城技術を色濃く残した城跡。

その後、秀長以降は城主が度々変わりますが、郡山城は幕末まで残ります。


近鉄郡山駅から歩いて五分ほど。早速郡山市役所前の交差点に石垣らしきものを発見。

見るからに城門の石垣の遺構。



信号を渡って近くで見ると柳御門跡となっています。

櫓門を連想させる石垣。
郡山城は冒頭からいきなり魅せてくれます!



柳御門を抜けて、市役所一帯は三の丸跡。現在は三の丸緑地として広場になっています。



何があるわけではないのですが土塀でちゃんと囲まれています。

町全体に城の雰囲気があり素晴らしい。



同じく三の丸緑地。





三の丸緑地を過ぎて左に曲がり踏切を渡ると、またしても城門跡が見えてきます。



こちらは鉄御門(くろがねもん)。
右手には水堀と石垣が先まで伸びていて、左手は現在郡山高校になっています。

食い違いの虎口で防御機能も考慮された造りになっていますね。



立派な野面積の石垣。
石材の形をそのまま生かして積み上げる技術は、信長や秀吉時代の特徴的な技術。

石の形も大きさも様々。
先の時代には石垣を加工する技術が増えてきますが、石の形の特徴を読んで積み上げる野面積は、また違った石工職人の技術をビリビリ感じることができて個人的には好きですね。



竹林橋櫓跡から入城します。
この先が主郭となります。



竹林橋櫓の右手。
櫓を前にせり出すことで視覚が増えて、敵が攻めてきた際の迎撃範囲が広がります。
※これは個人的な想像。



左手も同じく櫓が前にせり出しているので、均整のとれた美しい城になっています。



竹林橋櫓を抜けると先には本丸跡と天守台があります。



右手には白沢門跡があり、極楽橋へと繋がります。



極楽橋は令和3年に再建された新しい橋。



極楽橋の右手からのショット。
かなり高さのある空堀。

おそらく敵がここまで攻めてきた際は、最後の手段としてこの橋を落とすことで本丸を分断し、守りを固める事を想定した築城と思われます。

国宝の彦根城も同じ意図で橋が架かっていました。



極楽橋からの空堀。
かなり迫力ある石垣です。

高さ約10mの石垣をこれだけの範囲で壮大に積み上げたのは、豊臣政権の威厳が反映された城だからでしょうか。

実際に弟の豊臣秀長を入城させたことを考えても、非常に重要な位置付けの城であったことは間違いなさそうです。



反対側から見た極楽橋。
よく見ると極楽橋は木造で再建されています。

本丸を繋ぐ橋なので、この橋があるのと無いのでは雲泥の差です。
この橋一つあるだけで、当時のイメージが膨らんで築城における意図を想像することができます。

これは大和郡山市の努力に感謝です。



本丸の天守台に行く前に、毘沙門曲輪から下って追手櫓に向かいます。

こちらは追手向櫓。
現在の郡山城のシンボル的存在。



そして向かい側には追手門。
巨大な枡形虎口となっていて、立派な櫓門です。

郡山城の建築物は関ヶ原の戦いの後、二条城に移築されたそうです。しかし、この追手門は再び郡山城に再移築されました。



明治期に追手門を含めて郡山城は取り壊されます。

豊臣家の家紋が煌びやかに輝く現在の追手門は、1980年に豊臣秀長の時代に近い形で復元されました。



追手門から見た追手向櫓と多聞櫓。
枡形虎口がより分かりやすいショット。

白漆喰の城もかっこいいですが、下見板で木が全面に見えるのもシブい。





追手門を抜けると90度折れ曲がります。
枡形の上から見下ろすと、攻撃しやすい形状に計算されているのが分かります。


追手門脇からのショット。
二重の望楼型。追手向櫓と多聞櫓は1987年に復元。
追手向櫓→多聞櫓→追手門の内部は繋がっています。



内部は現在、盆梅展が開かれており建築物内は梅の展示がされていました。

観覧料金を支払って内部に潜入です。
もしかしたら、普段は櫓内には入らない可能性があります。

こちらは、追手門の内部になります。



続いて多聞櫓内部。
ちゃんと木造で復元されています。



追手門と多聞櫓の繋ぎ目。



追手向櫓の内部。
残念ながら2階には行くことはできませんでしたが、十分に雰囲気を味わうことができました。

ちなみに、近鉄列車からはこの追手向櫓が見えます!
そこも計算して復元したと思われます。



線路脇から撮った写真。
こちらは追手門の脇にある東隅櫓。



近鉄の列車内から撮った一枚。
何気に電車からのショットが一番絶景な気がします。

手前が東隅櫓、左奥が追手向櫓。
二段式の石垣も美しく見えます。



電車の中からだと、こんなに綺麗に東隅櫓を見ることができます。

線路脇からだと電線などがどうしても映り込んでしまいますからね。



戻りまして、追手門を抜けると常盤曲輪があり、本丸を方向を見ると天守台も一望することができます。



野面積みの石垣も綺麗に見えます。



本丸をぐるりと周ると、見る角度によって見え方も変わるのが石垣の魅力。

この時代はまだ山城で土塁や土堀などの城が多かったので、総石垣の城というだけで威厳がありました。

時代が変わると石垣に巨石を使うようになり、大きな石を門の脇などに積むことで、威厳を表現するように築城されました。



天守台の前にやってきました。
二段の石垣の形状からすると、天守の前には付櫓などが連結していた可能性もありそうですね。



天守台の前からの一枚。
堀の石垣、奥には追手向櫓など一望することができます。



天守台の角の石垣は算木積み。
これだけの総石垣の城郭な為、石材が足りず転用石が使用されています。

石垣の至る所に石仏や石塔などが使用されているので、神社仏閣から運び込まれたものと思われます。

織田信長が築城した安土城や、明智光秀が築城した福知山城なども転用石が使われています。

石垣の城が出現し始めたこの時代ならではの遺構と言えます。



いよいよ天守台の上に登ります。



上からの景色は格別です。

元々、資料が少なく天守があがっていたのかも分からず実在が疑問視されていて、幻の天守と称されていましたが、2013年から4年がかりで発掘調査を開始。

天守台を解体した際、礎石が見つかり天守閣があったことが確実になりました。

出土した瓦から豊臣期のものが有力となり、さらに裏込にも転用石が使用されていることが判明し、600点との石仏や石塔が発見されたそうです。

まるでタイムカプセル。



最後はゆるり城の周りを歩き、松蔭門の前にやってきました。

水堀などの石垣に比べて、石材が加工されているように思います。

石垣を見れば同じ城でもつくられた時代が違うのが分かります。



松蔭門から続く石垣。
石垣から水堀を挟んで麒麟曲輪があります。



反対側の松蔭門から続く石垣。



麒麟曲輪を沿って歩くと空堀があり下に降りることができるとパンフレットの表記を見たので向かったのですが、残念ながら現在整備していて工事中。

橋の上から空堀を眺めます。



堅牢な城の遺構がここまで綺麗に残っていることに驚きました。

郡山城の石垣を作った石工職人は穴太衆です。
信長の伝説の城、安土城の石垣を積んだ石工集団です。
ちなみに、穴太衆の技術は現代でも滋賀の粟田建設によっておよそ300年継承され続けています。

野面積みの石垣を見ると本当に技術を感じます。
一つ一つ形が違う石なのに、ここになければ巨大な石垣が完成しないと言わんばかりのドンピシャな積み方。



400年以上も前の石垣が現代でも残っていることがまさに技術の高さを証明しています。



豊臣秀吉が築城した城はもう残っていません。
大阪城も石垣を含めて全て徳川が作り変えたもの。
流れゆく時代の中で廃城になったり、改修されたりして豊臣期に築城した城自体が貴重です。

この時代の荒々しくも威厳があり、守りを意識した要塞感が残る郡山城が個人的にはとても好きです。

これからも、より多くの方に魅力を伝え続けて頂きたいと思います。

100名城をしのぐ、続100名城の郡山城でした。


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


最新の画像もっと見る

コメントを投稿