日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【壱岐の古墳探訪 その2】長崎県最大の古墳・双六古墳【脳内の「古墳固定観念」が破壊される古墳】

2018-09-26 18:43:24 | 歴史探訪
 膝が痛い・・・

 痛い、痛いよー。

 でも思考はしっかりしているので壱岐の古墳レポートの続きを書きますよ。

 明日はクラツーにて座学を2本やるので、その準備もしなければなりませんが、今夜は壱岐の古墳に夢中なの。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 本日は朝から秀吉の朝鮮半島侵攻の拠点となった勝本城跡を見て、海に突き出た「猿岩」という面白い岩とその近くの砲台跡を見た後、双六(そうろく)古墳へとやってきました。

 ここはちゃんと駐車場がありますね。

 多分、古墳はこの丘の上にあるのでしょう。

 丘陵上の古墳の場合は、ほぼ確実に丘陵の尾根上に古墳があるので、もし現地に行って案内板が不親切だったりして場所に迷ったときは尾根の上へ向かって歩くといいです。

 山道をテクテクと登っていくと、急に視界が開けました。

 あったー。



 ここから見ると円墳のように見えますが、前方後円墳ですよ。

 看板に「県内最大の前方後円墳」という素敵なコピーが書かれていますが、説明板はありませんね。

 双六古墳は国指定史跡・壱岐古墳群の6基の古墳の一つに数えられています。

 では、横に回ります。

 うわー、なんだこの形は!



 この形状に、私の脳内にある「古墳固定観念」が破壊されました。

 というのは、双六古墳は6世紀半ばの古墳なので、その頃の前方後円墳はすでに最終形状へ向かっており、前方部と円墳の高さが同じくらいでないといけないのです。

 いけないのです、という言い方は可笑しいかもしれませんが、私がよく見ている関東地方の古墳とはあきらかにデザインが違いますね。

 例えば、埼玉県行田市の埼玉古墳群にある6世紀後半の鉄砲山古墳はこんな感じ。



 後円部の高さが9mに対して、前方部の高さが10mというように、この時代には前方部の方が高い古墳が出現してきます。

 なので、右が後円部ですよ。

 さらに群馬県前橋市の大室古墳群の後二子古墳もこんな感じ。



 双六古墳の形状を見ると、壱岐の豪族にとって、ヤマト王権とはどのような存在なのか考えさせられます。

 そもそも、壱岐島の位置はヤマトよりも朝鮮半島の方が近いですから、その時々の政治情勢で有利な方に付いた方が良いに決まっています。

 単純に直線距離で云々することはできないかもしれませんが、参考までにこんな感じです。



 ※「Yahoo!地図」を加工転載

 しかし、のどかでいい場所だなあ。





 ※「壱岐風土記の丘」にて撮影

 双六古墳の墳丘長は91mあり、壱岐には280ばかりの古墳があることが把握されていますが、『壱岐の島の古墳群~現状調査』を見る限りでは、そのうち、首長墓といえるような大き目の前方後円墳はこの双六古墳と対馬塚古墳(63m)しかなく、あとは小型の前方後円墳がいくつかと、残りの大多数はすべて円墳のようです。

 前方後円墳はヤマト王権のメンバーシップに加入した証として築造されるという通説を信じると、壱岐がヤマト王権の影響下に入ったのは5世紀になってからと考えられますね。

 でも、大型前方後円墳が2基しかないこともあり、5世紀までの時点ではヤマトの影響は薄かったように感じます。

 それが、『双六古墳 発掘調査概報』で触れられている通り、6世紀半ばからは石室に巨石を使用するようになり、かつ古墳の数そのものが激増します。

 これは継体大王による磐井潰し(筑紫君磐井の乱)が行われたあとに当たるので、磐井という人物は壱岐を含めたこの地方にとってもキーマンとなる人物だったことが分かります。





 周りを見渡してもほとんど人工物がない・・・



 これは多分、古墳築造時の風景とほとんど同じだと思いますよ。



 後円部から前方部を見ます。



 では、石室を見てみましょう。

 石室は後円部にあり南西方向に開口しています。



 あー、でも中には入れませんね。



 石室は羨道の先に前室があり、その奥に玄室がある副室構造で、全長11mを測ります。



 ※「壱岐風土記の丘」の展示パネルを撮影し加工

 注目すべきは前室にあるゴンドラ船の線刻です。

 つまりは装飾古墳なのだ!

 いや、でも線刻一つで装飾古墳と言っていいのかなあ。

 もちろん現在は石室が閉じられているので確認することはできません。 



 こんなに素晴らしい古墳ですから、説明板が欲しいなあ。

 では、次へ行きましょう。

 ⇒この続きはこちら

壱岐・対馬と松浦半島 (街道の日本史)
佐伯 弘次
吉川弘文館



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