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【群馬県太田市・太田天神山古墳】古代”毛野国”を分割したのは誰か?【東日本最大の前方後円墳】

2017-10-29 23:20:39 | 歴史探訪
 何度かお伝えしている通り、4月に催行した太田天神山古墳&岩宿遺跡のツアーが好評だったため、12月9日(土)に再び催行します。

 一昨日の時点で嬉しいことにすでに10名様のお申し込みになっていたため、催行が決定しました。

 昨日の総社古墳群&大室古墳群のツアーの際にも参加者の方々には告知しましたので、まさか早々に予約が一杯になることは無いとは思いますが、もし参加してみたいなあと思った方はこの記事の最後を見てくださいね。

*     *     *


 太田天神山古墳は女体山古墳と同じ方向を向いており、女体山古墳側から歩いて行くと、後円部側から近接することになります。

 後円部側の周溝跡は、今も往時の周溝に沿ってきちんと道路が丸くなっていることでよく分かります。





 現在の周溝跡を見ると一重ですが、往時は中堤を挟んで二重になっていたのです。



 周溝を含めるとその長さはなんと364mになり、その大きさには驚きを禁じ得ません。

 周溝跡をぶった切っている道路を渡り、後円部麓にある標柱の前に来ました。



 私はここから直登してしまいますが、左手に巻いて行くと階段でラクラク登ることができますよ。

 登る途中には葺石が残っています。



 後円部から前方部を見ます。



 太田天神山古墳は墳丘長210mを誇る、東日本で最も大きな古墳ですので、前方部が遠くの方に見えます。



 後円部墳頂に来ました。



 小さな祠があります。



 太田天神山古墳は5世紀前半の築造ですが、この巨大な古墳にはいったい誰が葬られているのでしょうか。

 東日本で一番大きな古墳ですから、5世紀前半に東日本、もしくは関東地方全体を治めていた強大な権力を持った王が葬られていたと考えることもできますが、考古学的に見ると、上毛野は古墳時代を通じて群雄割拠状態で、ましてや関東地方全体を治めることができる権力体が存在した可能性は低いです。

 ただ、上毛野各地の王たちから共立された連合のリーダーのような存在が葬られた可能性はあると思います。

 しかし私は、『古代上毛野の地勢と信仰』で関口功一氏が述べる説が非常に魅力的に思えます。



 関口氏の説では、古代、毛野という国があったのが、ヤマトの政策によって上と下に分割されて、その分割政策を担ったヤマトから派遣されてきた将軍が葬られているというのです。

 太田天神山古墳の位置は、確かに上毛野でも東寄りで、下毛野を合わせると真中くらいになりますね。

 そして、その将軍が具体的に誰かと言うと、この系図を見てください。



 ※『東国の古代氏族』(関口功一著)所収の系図を合成

 『日本書紀』を参照して、東国に派遣された皇族を見てみると、その嚆矢は第10代崇神天皇の子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。

 ただ、トヨキイリヒコに関してはそれ以上分からず、果たして東国へ赴いたのかどうかは不明です。

 つぎに、トヨキイリヒコの孫、彦狭島命(ひこさしまのみこと)も東国へ派遣されたのですが、赴任する途中で亡くなってしまって、東国へは行っていないことになっています。

 そのため、ヒコサシマの子の御諸別命(みもろわけのみこと)が実際に東国へ行って上述した毛野の分割を実施したのではないでしょうか。

 もし太田天神山古墳の被葬者が毛野を分割したとしたら、築造時期から考えて、その人物は西暦400年ころにその事業を為したと考えられます。

 そうすると、世代的にミモロワケがちょうどいいのです。

 実際のところはこの説を完璧に証明することはできないと思いますが、このように考えてみることは、まさしく古代史のロマンではないでしょうか。



 「目塚 天神宮」とありますね。 



 太田天神山古墳の名前の元になっている天神様ですね。



 私は「目塚」というのが気になります。

 本当は「女塚」じゃないでしょうか。

 そうすると、さきほどの話をさらに発展させることができます。

 ミモロワケは毛野へやってきたら当然地元の有力者の娘を嫁にしますよね。

 そのため、実は「女塚」と呼ばれた太田天神山古墳の被葬者は地元有力者の娘で、婿であるミモロワケの方が女体山古墳に葬られているのではないかと考えてみたのです。

 そうすれば、フェミニズムの方々の支持を得ることができるかもしれません。



 古墳一つを見てもこのようなストーリーを考えることができてとても楽しいですね。

 前方部は前回来た時に歩いたので今日はいいでしょう。



 でかすぎて、結構引いても全体が収まらない・・・



 お、東武線!



 やっと全身が入った。



 南側の周溝の境は良く分からないですね。



 というわけで、ここでツアーの告知です。

 「歴史への旅」10月10日号のスキャンをご覧ください。



 冒頭にお伝えしたツアーは、上の段の右側に載っています。

 太田天神山古墳も女体山古墳も素晴らしい古墳ですが、同じ日に訪れる元島名将軍塚古墳は関東地方における最古級の古墳ですので、こちらも要チェックです。

 元島名将軍塚古墳の形状は「前方後方墳」で、もしかするとその築造時期は3世紀の後半まで遡り、東海からやってきた勢力が築いた古墳と考えられるのです。

 3世紀後半というと、邪馬台国の卑弥呼が亡くなって数十年後で、ヤマト王権が芽生えてきた時代ですね。

 ですので、関東の古代史に興味がある方は、邪馬台国や初期ヤマト王権にまで視野を拡げて、一緒に古代史のロマンを楽しみましょう。

 詳細ならびにお申込みはクラブツーリズムの公式ページをご覧ください。


 ⇒クラツーの公式サイトはこちら


 あと、もう一点お伝えします。

 上のチラシのスキャンの下段に「お城EXPO 2017」というのが並んでいますが、一番左側の八王子城のツアーは私がご案内しますので、山城に興味のある方は下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラツーの公式サイトはこちら


 続いて同じ太田市内にある円福寺茶臼山古墳へ行きますよ。

 ⇒つづきはこちら

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1 コメント

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凄いですね (りひと)
2017-10-30 10:11:43
ファンが付いてますね!
一番大きな古墳ですし、まだはっきり分からないからさらにロマンが広がります。

太田の山の所かな?と思ったらまた平野部なので新らしいですし、近畿の古墳に比べたら結構早い方でなおかつ大きいとは凄い技術力ですね。

昨日台風でしたけど卑弥呼の講演会には相当たくさんの方がいらしていたので興味ある分野でしょうから稲用さんマーケットはかなり大きいですよ、先があるお仕事安心ですね。ロボットでは出来ない仕事ですし、ブランド化も、安泰ですよ。

で視点が同じです。毛野も二つ上下にされてますね。吉備なのかな?あそこは三つに前中後です。そこに人間の意図ありそうですね。上総下総はどうかな?ただ以前調べた時は毛野と吉備は分けられたのは古いと認識してます。

で関わるには入彦さんの家系、茨城と千葉には祭神となっている神社が結構あるんで歴史の中の方がこっちまででびっくりした事あります。
で金山っていうのも父のキーワードなんですけど私も婿の代名詞みたいに感じてますので金山城が近くにあって大きなお墓っていうと婿っぽいですね。崇神の系統が来ているように思います。
昨日の講演会でも大きい墓っていうのはちょっと自己主張っぽいも感じるイメージだと、古墳の歴史も当初それぞれ独自の型にはまらずがそのうち巨大化してくる事でも権威の誇張をするように、元から人望あればしなくても十分なはずです。で古墳はその後から棺などに工夫や思いを込めるようになってくるんでしたよね。ちょうど関東で巨大化しないといけない時期だったんでしょうね。

で別件で茨木氏や丹比氏が気になっていて御諸別命調べたら葛原氏も出てきたんでかなり大阪奈良京都とも関係出てきそうに思います。大和から行った時にすでに栄えていた可能性もありますね。
大和が全国に乗り出したあたりでしょう、そここそ歴史が見えない部分、参加者もロマン持ってまた質問等もどんどん専門性を持っているはずで大変でしょうけど、誠実にさえ答えていれば大丈夫でしょう。お人柄も考えも幅がとても広いので。

その地何度も行ける役得いっぱい得て下さいね、みなさま感じる事大事に出来る世で良かったですね。1371

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