※2021年8月17日に補足しました。
この日の探訪箇所
神宮寺山古墳 → 幡多廃寺塔跡 → 備前国庁跡 → 賞田廃寺跡 → 中世山陽道 → 牟佐大塚古墳 → 備前国分寺跡 → 備前国分尼寺跡 → 両宮山古墳および茶臼山古墳・森山古墳・廻り山古墳 → 吉備津彦神社 → 吉備津神社 → 惣爪塔跡 → 楯築墳丘墓 → 造山古墳 → 備中国分尼寺跡 → こうもり塚古墳 → 備中国分寺跡 → 作山古墳
⇒前回の記事はこちら
謎の惣爪塔跡を見た後は、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)を目指します。
古墳マニアとしては吉備に来たら楯築墳丘墓はぜひ見ておきたいです。
目的地を目指して丘を登っていくと、ちょっとした駐車スペースがありました。
多分ここに停めていいんだろうな、と思い、車から降り、今度は歩いて丘を登ります。
お、ここが入口ですな。
「王墓の丘史跡公園」という名前からして期待できます。
坂道を登っていくと、説明板が林立していました。
この場所は、「王墓の丘史跡公園」という広い公園の一部になっており、楯築墳丘墓がある場所は「楯築地区」と呼ばれています。
他の地区にも見てみたい場所がありますが、今日のところは時間の都合で楯築墳丘墓だけを見学します。
あー、綺麗に拭きあげたい。
では実際の墳丘墓を見に行きますよ。
あれがWebで見たこのある給水塔ですな。
おや、池か?
それとも井戸か?
こんな高所に・・・
付近には古墳もポコポコあるようです。
あらまー、これはあからさま過ぎる。
ここは南西の突出部ですが、思っていたより派手に破壊されていますね。
丘からの眺望の説明。
でも実際は樹木が繁茂していて眺望は効いていません・・・
中山茶臼山古墳の位置も載っていますが、墳丘長120mを誇るこの辺では最古級の前方後円墳となります。
宮内庁が「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)」として吉備津彦の墓に治定しています。
今日は時間がないので行けませんが、いつか行ってみたい。
というか、この辺の古墳のネーミングは「茶臼山」が多いんですよね。
こちらにも説明板。
円丘部分の中央付近には謎の立石(りっせき)が並んでいます。
楯築墳丘墓の「謎ポイント」の一つがこれらの立石で、花崗岩の自然石なのですが、当然ながら自然にこのように立つはずがありません。
大きいもので高さが3mもあり、石の表面を加工したりはしてませんが、誰かがこれらを並べたのでしょう。
楯築墳丘墓は弥生後期後半に築造されましたが、発掘調査によってそのときに立てられた証拠は見つからなかったものの、反対にそれを否定する材料も見つかりませんでした。
墳丘の中央には祠があります。
立石は祠の背後のものを1番とし、向かって左側(西側)のものから時計回りで、全部で5番まで番号が付けられています。
なんか、不思議空間だな。
楯築神社跡地の標柱があります。
祠があるのに跡地って変ですが、明治末に北側にある鯉喰神社に合祀されたため、一応ここはもう「跡地」なのです。
そしてその楯築神社には、ご神体として「弧帯文石(こたいもんせき)」と呼ばれる不思議な石があります。
弧帯文石も「謎ポイント」の一つですよ。
弧帯文石の実物を見ることはできませんが、たまに博物館などにそのレプリカが置いてあることがあり、上野の国立博物館の平成館にもレプリカの展示があります。
まるで帯でがんじがらめにされているような装いです。
そして面白いのは顔が彫られているところです。
これは吉備の王を表現しているのか、はたまた神を表現しているのか分かりませんが、帯でがんじがらめにされているのを見ると、どうしてもこの人(神)の呪力を抑えるために封印されているように見えてしまいます。
神社は移転したのですが、その後、このご神体のみ現地に戻ってきて収蔵庫に収められています。
給水塔の隣にあるのが収蔵庫です。
楯築墳丘墓は、円丘の両側に突出部を設けた、双方中円墳のような形状をした墳丘墓で、元々の総長は80mほどあったとされていますが(現地説明板では72m)、残念ながら突出部分はほとんど破壊されてしまいました。
こちら側にも本来は北東突出部があるはずですが、現在は地形が落ちており、眼下には住宅街が広がっています。
総長の80mというサイズは、弥生墳丘墓の中では最大級です。
主体部もまた変わっていて、木棺を木槨で囲んでいる、まるで古代中国の墓を思い起こさせるような構造です。
そして木棺の底には、32㎏以上という大量の朱がまかれていました。
副葬品はほとんど見つかりませんでしたが、前述の弧帯文石と同じような石が数百の破片となって見つかっています。
こちらはご神体よりも小さく顔の造形はありませんが、元々は弧帯文石は2つ造られ、顔が付いている大きい方はそのまま残り、小さな方は破壊されて埋納されたということです。
不思議ですねえ。
なお、埋葬主体はもう一か所見つかっています。
破壊されてしまった突出部に主体部があったかどうかは不明ですが、重要なのは楯築墳丘墓はある特定の人物のために造られた墓だということです。
つまり、集団墓ではないということで、吉備においても他者と隔絶した力を持つ「王」がこの時代に存在したことを表しています。
そして面白いのは、楯築墳丘墓と同じころ、出雲では四隅突出型墳丘墓の西谷3号墳が築造されており、西谷3号墳に葬られた人物も確実に「王」です。
※西谷3号墓
しかしそれにしても、往時の墳丘の形が全く分からないのは残念ですねえ。
もっと当時の雰囲気が分かるのかなと期待して来ましたが、期待外れでした。
でも、ずっと来てみたかった場所ですから、これで溜飲を下げて次へ行きましょう。
次は超々巨大古墳・造山古墳に登りますよ!
⇒この続きはこちら
3.探訪レポート
2018年10月1日(月)備前・備中古代史探訪⑫
この日の探訪箇所
神宮寺山古墳 → 幡多廃寺塔跡 → 備前国庁跡 → 賞田廃寺跡 → 中世山陽道 → 牟佐大塚古墳 → 備前国分寺跡 → 備前国分尼寺跡 → 両宮山古墳および茶臼山古墳・森山古墳・廻り山古墳 → 吉備津彦神社 → 吉備津神社 → 惣爪塔跡 → 楯築墳丘墓 → 造山古墳 → 備中国分尼寺跡 → こうもり塚古墳 → 備中国分寺跡 → 作山古墳
⇒前回の記事はこちら
謎の惣爪塔跡を見た後は、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)を目指します。
古墳マニアとしては吉備に来たら楯築墳丘墓はぜひ見ておきたいです。
目的地を目指して丘を登っていくと、ちょっとした駐車スペースがありました。
多分ここに停めていいんだろうな、と思い、車から降り、今度は歩いて丘を登ります。
お、ここが入口ですな。
「王墓の丘史跡公園」という名前からして期待できます。
坂道を登っていくと、説明板が林立していました。
この場所は、「王墓の丘史跡公園」という広い公園の一部になっており、楯築墳丘墓がある場所は「楯築地区」と呼ばれています。
他の地区にも見てみたい場所がありますが、今日のところは時間の都合で楯築墳丘墓だけを見学します。
あー、綺麗に拭きあげたい。
では実際の墳丘墓を見に行きますよ。
あれがWebで見たこのある給水塔ですな。
おや、池か?
それとも井戸か?
こんな高所に・・・
付近には古墳もポコポコあるようです。
あらまー、これはあからさま過ぎる。
ここは南西の突出部ですが、思っていたより派手に破壊されていますね。
丘からの眺望の説明。
でも実際は樹木が繁茂していて眺望は効いていません・・・
中山茶臼山古墳の位置も載っていますが、墳丘長120mを誇るこの辺では最古級の前方後円墳となります。
宮内庁が「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)」として吉備津彦の墓に治定しています。
今日は時間がないので行けませんが、いつか行ってみたい。
というか、この辺の古墳のネーミングは「茶臼山」が多いんですよね。
こちらにも説明板。
円丘部分の中央付近には謎の立石(りっせき)が並んでいます。
楯築墳丘墓の「謎ポイント」の一つがこれらの立石で、花崗岩の自然石なのですが、当然ながら自然にこのように立つはずがありません。
大きいもので高さが3mもあり、石の表面を加工したりはしてませんが、誰かがこれらを並べたのでしょう。
楯築墳丘墓は弥生後期後半に築造されましたが、発掘調査によってそのときに立てられた証拠は見つからなかったものの、反対にそれを否定する材料も見つかりませんでした。
墳丘の中央には祠があります。
立石は祠の背後のものを1番とし、向かって左側(西側)のものから時計回りで、全部で5番まで番号が付けられています。
なんか、不思議空間だな。
楯築神社跡地の標柱があります。
祠があるのに跡地って変ですが、明治末に北側にある鯉喰神社に合祀されたため、一応ここはもう「跡地」なのです。
そしてその楯築神社には、ご神体として「弧帯文石(こたいもんせき)」と呼ばれる不思議な石があります。
弧帯文石も「謎ポイント」の一つですよ。
弧帯文石の実物を見ることはできませんが、たまに博物館などにそのレプリカが置いてあることがあり、上野の国立博物館の平成館にもレプリカの展示があります。
まるで帯でがんじがらめにされているような装いです。
そして面白いのは顔が彫られているところです。
これは吉備の王を表現しているのか、はたまた神を表現しているのか分かりませんが、帯でがんじがらめにされているのを見ると、どうしてもこの人(神)の呪力を抑えるために封印されているように見えてしまいます。
神社は移転したのですが、その後、このご神体のみ現地に戻ってきて収蔵庫に収められています。
給水塔の隣にあるのが収蔵庫です。
楯築墳丘墓は、円丘の両側に突出部を設けた、双方中円墳のような形状をした墳丘墓で、元々の総長は80mほどあったとされていますが(現地説明板では72m)、残念ながら突出部分はほとんど破壊されてしまいました。
こちら側にも本来は北東突出部があるはずですが、現在は地形が落ちており、眼下には住宅街が広がっています。
総長の80mというサイズは、弥生墳丘墓の中では最大級です。
主体部もまた変わっていて、木棺を木槨で囲んでいる、まるで古代中国の墓を思い起こさせるような構造です。
そして木棺の底には、32㎏以上という大量の朱がまかれていました。
副葬品はほとんど見つかりませんでしたが、前述の弧帯文石と同じような石が数百の破片となって見つかっています。
こちらはご神体よりも小さく顔の造形はありませんが、元々は弧帯文石は2つ造られ、顔が付いている大きい方はそのまま残り、小さな方は破壊されて埋納されたということです。
不思議ですねえ。
なお、埋葬主体はもう一か所見つかっています。
破壊されてしまった突出部に主体部があったかどうかは不明ですが、重要なのは楯築墳丘墓はある特定の人物のために造られた墓だということです。
つまり、集団墓ではないということで、吉備においても他者と隔絶した力を持つ「王」がこの時代に存在したことを表しています。
そして面白いのは、楯築墳丘墓と同じころ、出雲では四隅突出型墳丘墓の西谷3号墳が築造されており、西谷3号墳に葬られた人物も確実に「王」です。
※西谷3号墓
しかしそれにしても、往時の墳丘の形が全く分からないのは残念ですねえ。
もっと当時の雰囲気が分かるのかなと期待して来ましたが、期待外れでした。
でも、ずっと来てみたかった場所ですから、これで溜飲を下げて次へ行きましょう。
次は超々巨大古墳・造山古墳に登りますよ!
⇒この続きはこちら