ちょっと前に、「答えは無数」というタイトルの
コラムの中で、客観うんぬん書いたんだけれど・・・。
いま、とあるブログを読んでいて
『客観視』と言っても、いろんな捉え方があって
難しいものなんだなぁ・・・と、ふと思う。
あくまで、わたしの持つイメージは
『自分を鏡で見る』客観は、大歓迎なもので。
自分だったら?自分の家族だったら?
という、主観的立場の想像力を抜きにした、他人事の『客観』
いわゆる『人を指差して、何か、もの申す』客観は
事実をえぐり出したとしても、
もの申す人には、火の粉が降りかからない、
痛くも痒くもないものであり。
もの申される人にとっては、
「心を理解されないもの」でしかなかったりする。
要は、いま実際に自分が痛みを感じているのか、どうか。
客観的に人に向けた刀=「客観的に、もの申す」ことが
不必要に、相手のことを傷つけているのではないか。
果たして、自分が受ける立場で喜べることであるのか
わたしの言うことは、なまっちょろくて、甘いかもしれない。
かつ、人間には無理なことだと思う。
ひとの痛みを、わが痛みと感じられるのは
阿弥陀様でしかないのだと思うのだけれど・・・。
コラムの中で、客観うんぬん書いたんだけれど・・・。
いま、とあるブログを読んでいて
『客観視』と言っても、いろんな捉え方があって
難しいものなんだなぁ・・・と、ふと思う。
あくまで、わたしの持つイメージは
『自分を鏡で見る』客観は、大歓迎なもので。
自分だったら?自分の家族だったら?
という、主観的立場の想像力を抜きにした、他人事の『客観』
いわゆる『人を指差して、何か、もの申す』客観は
事実をえぐり出したとしても、
もの申す人には、火の粉が降りかからない、
痛くも痒くもないものであり。
もの申される人にとっては、
「心を理解されないもの」でしかなかったりする。
要は、いま実際に自分が痛みを感じているのか、どうか。
客観的に人に向けた刀=「客観的に、もの申す」ことが
不必要に、相手のことを傷つけているのではないか。
果たして、自分が受ける立場で喜べることであるのか
わたしの言うことは、なまっちょろくて、甘いかもしれない。
かつ、人間には無理なことだと思う。
ひとの痛みを、わが痛みと感じられるのは
阿弥陀様でしかないのだと思うのだけれど・・・。