司法の父といわれる江藤新平
西日本新聞には、この写真が掲載されていました
数日前の朝の事である。
「tak君、佐賀の乱が改称されるらしいよ」
佐賀市出身のT先輩が言った。
「どういう事ですか?」
「ほら、ここに書いてるよ」
T先輩は、読んでいた西日本新聞を差し出した。(6月12日の)
「へえー」
「明治政府の陰謀だったらしいよ」
「たしか、“裁判長、わたくしは・・”という言葉を残して死ぬんですよね」
「うん」
「これで無念もはれますよね」
私も少なからず、江藤新平という人物に興味を抱いていたので、
何故か胸のつかえがとれた思いがした。
佐賀出身のT先輩も感無量といった様子。
“新聞によりますと・・”(私達年配には聞き覚えのあるTV番組のフレーズ)
旧佐賀藩士族の反乱とされる「佐賀の乱」の呼称問題が、
11日の佐賀市議会一般質問で取り上げられた。
「明治政府を下野した江藤新平が首謀した乱ではなく、明治政府の陰謀だった。」
とする新学説が唱えられるようになったことが背景にあり、
議員側が「佐賀の役」や「佐賀戦争」と呼称を変更するよう主張。
市側は運動が盛り上がれば対応を検討することを表明した。
地元の運動の盛り上がりによっては、
同市が文部科学省に教科書の記述書き換えを求める可能性も出てきた。
・・・毛利敏彦・大阪市立大名誉教授(明史維新史)が2004年に
「江藤新平は明治政府への反逆者ではなく、政府の謀略の側面が強い」との研究を発表。
・・・同市の田部井洋文教育長は「深い検証が進む過程で佐賀市としての考え方を(文部省などに)
示すのはやぶさかではない」と答弁。秀島敏行市長も
「(江藤は)はめられたという印象を持っている。できるだけ名誉回復をしていきたい」と答えた。
とある。
記事横の“佐賀の乱”の解説は次の通りである。
1874(明治7)年2月、明治政府に不満を募らせた佐賀の士族の反乱。
政府が素早く軍を送って鎮圧し、江藤新平らが処刑された。
通説では、征韓論を唱えて政府を去った江藤が首謀者とされるが、
近年では大久保利通ら政府側が、政敵の江藤を陥れるためし仕組んだ謀略との学説も出ている。
最初の士族反乱とされ、3年後西南戦争が起きる引き金となった。
私が三十代前後に読んだ、司馬遼太郎さんの『歳月』という小説がある。
むろん、江藤新平を描いたものである。
たいていの場合、司馬さんの小説は読後感がよいのだが、
この小説だけは後味のわるさがあった。
罪を着せられたままの状態で終わっていて救いがない。
おまけに、屈辱的な「梟首(さらしくび)」の刑を言いわたされる。
さらに、日本の司法を作り上げた江藤新平がその司法によって(その法を曲げてまで)
裁かれる無惨さ。
教え子とも言うべき『河野敏鎌』が、
「除族(士族に対する極刑)の上、梟首(きゅうしゅ)、申しつける」と判決文を読み上げたとき、―
(以下、『歳月』の最終章、―大久保日記―を引用します)
―この意外さと災厄と屈辱に、江藤はどう行動すべきかもわからず、
なにはともあれ鬱懐(うつかい)を吐きつけねばならぬとおもい、
とっさに立ち上がろうとした。その縄尻を背後の獄吏がひいた。
江藤の不幸は、この期に及んで尻餅をついたことであった。
このため「腰を抜かした」と、のちにいわれた。
江藤はこのとっさの激情から、たったひとことだけ叫んだ。
「裁判長、私は」
ということばであった。が、獄卒の一人がそういう江藤の腕をつかみ、他の一人が背後から
くびを締め、そのままかれの自由をうばいつつ、ちからずくで退廷させてしまった。
江藤新平という日本史上稀代の雄弁家にとってその半ちぎれの片ことが、
この世間の公式の場所における最後の発言になった。
「江藤、醜態、笑止なり」
と、大久保はこの四月十三日付けの日記に書いた。江藤は死をおそれ、判決をきいて醜態を露呈した、
という意味のことを大久保は書いているのである。しかも具体的にどうしたとも書かず、
それが後世の読み手にどのような卑劣さにも想像できるよう、ごく抽象的に書いているのである。―
唯一、救いがあるとすれば、
「ただ、皇天后土(天地)のわが心知るあるのみ」と江藤新平が叫んだことだろうか。
天地だけが知っている。最大の雄弁家の最後のことばである。
私などが史実をしるよしもないが、
ただ、心情として、この新聞記事には救われた感がある。
『歳月』からも陰謀説をうかがえる。
無念の思いが晴らされるには、これほどの歳月を必要とするのだろうか。
今日は少し、おもむきの違うブログになってしまいましたが、
「葬儀社の日常」にいれさせていただきました。
私の勤める まごころ葬儀羅漢は
こちらです