受験生のための『世界史B』 もくじ
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どうもこんにちは。
今日は久々にヨーロッパです。
前回は、東ヨーロッパ世界の成立を描き、ヨーロッパは東西に分かれたんだよー、という話をしました。
今回はそれがさらに分裂するんだからややこしいですが、まあそんなに難しくはないのでご安心。
[フランク王国の分裂]
みなさんご存知源頼朝は、鎌倉幕府を開いたことで有名です。
ところでみなさん、あの1192年のあと、幕府がどうなったかご存知ですか?
世界史を取っていらっしゃるみなさんはもしかしたらご存知ないのかも。
頼朝というリーダーが亡くなったあと、2代将軍頼家の時点ですでに、政治の実権は北条氏に移ってしまうんですね。
つまり、強烈なリーダーシップや個人的なつながりだけでは、自分の影響力をその国にずっと残していくことはなかなか、叶わないのです。
それと同じことがフランク王国にもいえます。
カール大帝の死後、王国内では内紛が起こり、
843年 ヴェルダン条約
870年 メルセン条約
という両条約で、東フランク、西フランク、イタリアという3つに分裂することになります。
ヴェルダン条約については、「やっぱりよかった3つに分けて(843年)」と覚えると便利。
なお、この3つがそれぞれ現在のドイツ、フランス、イタリアにつながる、と教科書では書いてありますが、うん、まあ、地理だけ見ればそう言えるかもしれませんね。
[分裂した王国のそれぞれ]
[東フランク]
では、分裂した王国はそれぞれどのように各自で動き出したのでしょうか?
まず、東フランク。
ここでは、まもなくカール大帝の家系であるカロリング家の血が途絶え、王様は選挙で選ばれるようになります。
結果、選ばれたのがザクセン家のオットー1世。
彼は東からやってきたマジャール人という民族を撃退し、その功のために、ローマ教皇から「あんたがローマ皇帝だ!」というお墨付きをもらいます。
100年ほど前、カール大帝ももらってたやつですね。
けっこうすぐくれるんですね。
さて、オットーがローマ皇帝になったので、東フランクは名目上「ローマ帝国」という位置づけになります。
そして、ここに成立した「ローマ帝国」のことを特別に区別して、神聖ローマ帝国と呼びます。
つまり、オットーは神聖ローマ帝国の初代皇帝、ということになりますね。
神聖ローマ帝国はとても実態がつかみにくく、受験生を悩ませる存在としてこの後17世紀ぐらいまで君臨し続けるので、ここをしっかりおさえておいてください。
神聖ローマ帝国は教皇の承認のもとに成立した帝国でしたから、その意味では皇帝は教皇よりも「下」になるわけです。が、皇帝としては何かあったときに教会に足元をすくわれるような事態は避けたい。
そこで、皇帝は教会に対して強い影響力を行使することをめざします。具体的には、「帝国教会政策」というのですが、聖職者の任免権を皇帝がもつ、というものです。つまり、僧侶が職を得られるかどうかは皇帝しだい、という状況にしてしまうわけ。
皇帝たちは、その帝国教会政策の維持のために、カトリック教会の中心地へ干渉をくりかえします。
それはもちろん、イタリアのこと。
世に言う、イタリア政策というやつです。
皇帝という主人がイタリアにかかりっきりになっている間、配下の人間はどうしていたか?
主人からの自立をめざして、力をたくわえていたのです。
[西フランク]
いやはや、東フランク情勢がかなり盛り上がってしまいましたが、西フランクを忘れちゃいけません。
ここでも、カロリング家の血統が断絶し、パリの人、ユーグ=カペーというひょうきんな名前の人が王位につき、カペー朝が開かれます。
えー、「カペー幕府」とでも考えてください。
しかし、カペー朝の勢力は弱く、王様クラスの力をもつ「諸侯」はそこらじゅうにゴロゴロいました。
「あ? カペー? 誰や、知らんがな」状態だったでしょうね。
つまり、カペー朝の王権は弱い。
これ、意外と大事なんです。
[イタリア]
神聖ローマ皇帝のイタリア政策やらイスラーム勢力の侵入やらで大混乱。
以上。
さて今日は、今後のヨーロッパ情勢にも深くかかわってくる思いのほか大事なポイントがいくつかありました。
整理してみましょう。
◎今日のポイント◎
・神聖ローマ帝国の初代皇帝と、皇帝たちが代々こだわった土地はどこか?
・西フランク、カペー朝の王権は弱いのか、強いのか?
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どうもこんにちは。
今日は久々にヨーロッパです。
前回は、東ヨーロッパ世界の成立を描き、ヨーロッパは東西に分かれたんだよー、という話をしました。
今回はそれがさらに分裂するんだからややこしいですが、まあそんなに難しくはないのでご安心。
[フランク王国の分裂]
みなさんご存知源頼朝は、鎌倉幕府を開いたことで有名です。
ところでみなさん、あの1192年のあと、幕府がどうなったかご存知ですか?
世界史を取っていらっしゃるみなさんはもしかしたらご存知ないのかも。
頼朝というリーダーが亡くなったあと、2代将軍頼家の時点ですでに、政治の実権は北条氏に移ってしまうんですね。
つまり、強烈なリーダーシップや個人的なつながりだけでは、自分の影響力をその国にずっと残していくことはなかなか、叶わないのです。
それと同じことがフランク王国にもいえます。
カール大帝の死後、王国内では内紛が起こり、
843年 ヴェルダン条約
870年 メルセン条約
という両条約で、東フランク、西フランク、イタリアという3つに分裂することになります。
ヴェルダン条約については、「やっぱりよかった3つに分けて(843年)」と覚えると便利。
なお、この3つがそれぞれ現在のドイツ、フランス、イタリアにつながる、と教科書では書いてありますが、うん、まあ、地理だけ見ればそう言えるかもしれませんね。
[分裂した王国のそれぞれ]
[東フランク]
では、分裂した王国はそれぞれどのように各自で動き出したのでしょうか?
まず、東フランク。
ここでは、まもなくカール大帝の家系であるカロリング家の血が途絶え、王様は選挙で選ばれるようになります。
結果、選ばれたのがザクセン家のオットー1世。
彼は東からやってきたマジャール人という民族を撃退し、その功のために、ローマ教皇から「あんたがローマ皇帝だ!」というお墨付きをもらいます。
100年ほど前、カール大帝ももらってたやつですね。
けっこうすぐくれるんですね。
さて、オットーがローマ皇帝になったので、東フランクは名目上「ローマ帝国」という位置づけになります。
そして、ここに成立した「ローマ帝国」のことを特別に区別して、神聖ローマ帝国と呼びます。
つまり、オットーは神聖ローマ帝国の初代皇帝、ということになりますね。
神聖ローマ帝国はとても実態がつかみにくく、受験生を悩ませる存在としてこの後17世紀ぐらいまで君臨し続けるので、ここをしっかりおさえておいてください。
神聖ローマ帝国は教皇の承認のもとに成立した帝国でしたから、その意味では皇帝は教皇よりも「下」になるわけです。が、皇帝としては何かあったときに教会に足元をすくわれるような事態は避けたい。
そこで、皇帝は教会に対して強い影響力を行使することをめざします。具体的には、「帝国教会政策」というのですが、聖職者の任免権を皇帝がもつ、というものです。つまり、僧侶が職を得られるかどうかは皇帝しだい、という状況にしてしまうわけ。
皇帝たちは、その帝国教会政策の維持のために、カトリック教会の中心地へ干渉をくりかえします。
それはもちろん、イタリアのこと。
世に言う、イタリア政策というやつです。
皇帝という主人がイタリアにかかりっきりになっている間、配下の人間はどうしていたか?
主人からの自立をめざして、力をたくわえていたのです。
[西フランク]
いやはや、東フランク情勢がかなり盛り上がってしまいましたが、西フランクを忘れちゃいけません。
ここでも、カロリング家の血統が断絶し、パリの人、ユーグ=カペーというひょうきんな名前の人が王位につき、カペー朝が開かれます。
えー、「カペー幕府」とでも考えてください。
しかし、カペー朝の勢力は弱く、王様クラスの力をもつ「諸侯」はそこらじゅうにゴロゴロいました。
「あ? カペー? 誰や、知らんがな」状態だったでしょうね。
つまり、カペー朝の王権は弱い。
これ、意外と大事なんです。
[イタリア]
神聖ローマ皇帝のイタリア政策やらイスラーム勢力の侵入やらで大混乱。
以上。
さて今日は、今後のヨーロッパ情勢にも深くかかわってくる思いのほか大事なポイントがいくつかありました。
整理してみましょう。
◎今日のポイント◎
・神聖ローマ帝国の初代皇帝と、皇帝たちが代々こだわった土地はどこか?
・西フランク、カペー朝の王権は弱いのか、強いのか?
ヨーロッパ世界って面白いなって思えました!
ありがとうございます!
応援してます!