「受験生のための『世界史B』」 もくじ
↑ここから各項目に入れます。
最近はなんだか忙しくって、時間を有効に使うことの大事さが身にしみる次第であります。
[前回まで]
統治者はゲルマン人にすりかわっちゃったけど、なんかローマ教会とくっついて西ローマ帝国が復活したらしいよ!
まあ、実際はフランク王国だけどね!
[ビザンツ帝国とは]
前回までは4世紀にふたつに分裂したローマ帝国のうち、西ローマ帝国を見てきました。
西ローマ帝国はいったん滅亡するものの、そんなんじゃいかん! と怒ったローマ=カトリック教会によりフランク王国の形を借りて「復活」しました。
これによって、
フランク王国+ローマ・カトリック教会=西ヨーロッパ世界
という方程式が成り立ちました。
西ヨーロッパ世界というひとつの枠組みを作り出す動機となったのが、ローマ・カトリック教会が恐れていた東ヨーロッパ世界の存在でした。
東ヨーロッパでも、西ヨーロッパと同じように、国+宗教という形で統治がなされていました。
その国というのが、東ローマ帝国、別名ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープルの昔の名前ビザンティウムから取られています)であり、宗教というのがギリシア正教会でした。
ビザンツ帝国を最初に率いたのはユスティニアヌス帝です。
彼はゲルマン人の王国を次々と破壊し、帝国の全盛期を創出します。彼が編さんさせた『ローマ法大全』はセンター頻出です。
制度としては、軍管区制(テマ制)を採用してなんちゃらかんちゃらしました。
[聖像崇拝の是非を巡って]
さて、みなさん。
キリスト教徒の開祖である「イエス・キリスト」といえばどんな図・イメージが思い浮かびますか?
おそらくだいたいの方々は、
質素な身なりで、もじゃもじゃのヒゲをたくわえ、なんとも悲しそうでそれでいて信念の強そうな表情のおじさんを想像するのではないでしょうか。

たとえば、こんなような。
どうしてみなさんがそういったイエスをイメージできるかというと、
そのように表現されたイエスの像や絵を恐らく見たことがあるからですね。
では、仏教の開祖であるブッダ(ガウタマ=シッダールタ)は。
それに、儒教の開祖である孔子は。
きっと、すぐに思い浮かぶのではないでしょうか。
じゃあ、イスラーム教の開祖、ムハンマドはどうでしょう。
思い浮かぶ人は、きっと少ないはず。
いや、思い浮かべられたとしても、それはあなたが勝手に抱いたイメージで、何の根拠もありません。
なぜなら、イスラーム教は神とその預言者であるムハンマドの姿を描くことを一切禁止しているからです。
それはどうしてか。
聖像(神や預言者の像)に対して拝むことは、神や預言者を直接拝むのではなく、そのニセモノである聖像(=偶像)を崇拝するということ、つまり偶像崇拝につながる、とされたからです。
わかりやすく言えば、自分の恋人の顔や見た目だけを好きになって、性格や中身を無視してしまう、ということですかねえ。
そのため、イスラーム教が礼拝を行うモスクには、キリスト教の教会のような十字架だとか、イエスの像だとか、そういった「拝めるモノ」は何もありません。
ただ、聖地であるメッカの方向を見て礼拝するだけ。
シンプルなもんです。
ので、宗教画などでどうしてもムハンマドの姿を描かなければならないときなどは、わざわざムハンマドの顔に白い布をかけてあります。
ところが実は、偶像崇拝を禁止しているのはイスラーム教だけではありません。
キリスト教の前身であるユダヤ教でも禁じられているんですね。
ただ、キリスト教はそんな規律をなんとなくスルーしちゃってて、しかも、西のローマ・カトリック教会ではゲルマン人に対する布教のために偶像を積極的に利用していたんですね。
ゲルマン人は字が読めないし、やっぱり絵とか像で示したほうがわかりやすいですから。
しかしこの時期(8世紀ごろ)、イスラーム勢力が勢力を拡大してきて(トゥールなんちゃらの戦いとかありましたもんね)、その厳しい偶像崇拝否定に影響されて、キリスト教も偶像崇拝を禁じなければ! という動きが広がります。
その流れの中で、726年、レオン3世が聖像禁止令を発布します。
その名のとおり、聖像を禁止したわけですね。
これで困ったのが、前述のローマ・カトリック。こんなもの出された日には、居心地悪くてゲルマン人への布教が進まないではありませんか。
これによって東西の教会は争いと対立を深め、1054年、お互いを破門(社会的に抹殺すること)し合い、完全に分裂しました。
[東ヨーロッパ世界の成立]
とはいえ、これによって東ヨーロッパ世界もビザンツ帝国+ギリシア正教という形でしっかりと確立することになりました。
ちなみに、西ヨーロッパでは皇帝の権利と教皇の権利ははっきりと分離されていたのですが、東ヨーロッパでは皇帝が教皇を任命する権利をもちました。つまり、皇帝が政治も宗教もどっちも思うがままにできる、ということですね。
今日は簡単にまとめてみました。
以上です。
◎今日のポイント◎
・西ヨーロッパ、東ヨーロッパはそれぞれどのような勢力で成り立ってるのか?
・ビザンツ帝国の全盛期を築いたのは誰?
・東西教会の分裂の原因となったのはどんな出来事?
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最近はなんだか忙しくって、時間を有効に使うことの大事さが身にしみる次第であります。
[前回まで]
統治者はゲルマン人にすりかわっちゃったけど、なんかローマ教会とくっついて西ローマ帝国が復活したらしいよ!
まあ、実際はフランク王国だけどね!
[ビザンツ帝国とは]
前回までは4世紀にふたつに分裂したローマ帝国のうち、西ローマ帝国を見てきました。
西ローマ帝国はいったん滅亡するものの、そんなんじゃいかん! と怒ったローマ=カトリック教会によりフランク王国の形を借りて「復活」しました。
これによって、
フランク王国+ローマ・カトリック教会=西ヨーロッパ世界
という方程式が成り立ちました。
西ヨーロッパ世界というひとつの枠組みを作り出す動機となったのが、ローマ・カトリック教会が恐れていた東ヨーロッパ世界の存在でした。
東ヨーロッパでも、西ヨーロッパと同じように、国+宗教という形で統治がなされていました。
その国というのが、東ローマ帝国、別名ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープルの昔の名前ビザンティウムから取られています)であり、宗教というのがギリシア正教会でした。
ビザンツ帝国を最初に率いたのはユスティニアヌス帝です。
彼はゲルマン人の王国を次々と破壊し、帝国の全盛期を創出します。彼が編さんさせた『ローマ法大全』はセンター頻出です。
制度としては、軍管区制(テマ制)を採用してなんちゃらかんちゃらしました。
[聖像崇拝の是非を巡って]
さて、みなさん。
キリスト教徒の開祖である「イエス・キリスト」といえばどんな図・イメージが思い浮かびますか?
おそらくだいたいの方々は、
質素な身なりで、もじゃもじゃのヒゲをたくわえ、なんとも悲しそうでそれでいて信念の強そうな表情のおじさんを想像するのではないでしょうか。

たとえば、こんなような。
どうしてみなさんがそういったイエスをイメージできるかというと、
そのように表現されたイエスの像や絵を恐らく見たことがあるからですね。
では、仏教の開祖であるブッダ(ガウタマ=シッダールタ)は。
それに、儒教の開祖である孔子は。
きっと、すぐに思い浮かぶのではないでしょうか。
じゃあ、イスラーム教の開祖、ムハンマドはどうでしょう。
思い浮かぶ人は、きっと少ないはず。
いや、思い浮かべられたとしても、それはあなたが勝手に抱いたイメージで、何の根拠もありません。
なぜなら、イスラーム教は神とその預言者であるムハンマドの姿を描くことを一切禁止しているからです。
それはどうしてか。
聖像(神や預言者の像)に対して拝むことは、神や預言者を直接拝むのではなく、そのニセモノである聖像(=偶像)を崇拝するということ、つまり偶像崇拝につながる、とされたからです。
わかりやすく言えば、自分の恋人の顔や見た目だけを好きになって、性格や中身を無視してしまう、ということですかねえ。
そのため、イスラーム教が礼拝を行うモスクには、キリスト教の教会のような十字架だとか、イエスの像だとか、そういった「拝めるモノ」は何もありません。
ただ、聖地であるメッカの方向を見て礼拝するだけ。
シンプルなもんです。
ので、宗教画などでどうしてもムハンマドの姿を描かなければならないときなどは、わざわざムハンマドの顔に白い布をかけてあります。
ところが実は、偶像崇拝を禁止しているのはイスラーム教だけではありません。
キリスト教の前身であるユダヤ教でも禁じられているんですね。
ただ、キリスト教はそんな規律をなんとなくスルーしちゃってて、しかも、西のローマ・カトリック教会ではゲルマン人に対する布教のために偶像を積極的に利用していたんですね。
ゲルマン人は字が読めないし、やっぱり絵とか像で示したほうがわかりやすいですから。
しかしこの時期(8世紀ごろ)、イスラーム勢力が勢力を拡大してきて(トゥールなんちゃらの戦いとかありましたもんね)、その厳しい偶像崇拝否定に影響されて、キリスト教も偶像崇拝を禁じなければ! という動きが広がります。
その流れの中で、726年、レオン3世が聖像禁止令を発布します。
その名のとおり、聖像を禁止したわけですね。
これで困ったのが、前述のローマ・カトリック。こんなもの出された日には、居心地悪くてゲルマン人への布教が進まないではありませんか。
これによって東西の教会は争いと対立を深め、1054年、お互いを破門(社会的に抹殺すること)し合い、完全に分裂しました。
[東ヨーロッパ世界の成立]
とはいえ、これによって東ヨーロッパ世界もビザンツ帝国+ギリシア正教という形でしっかりと確立することになりました。
ちなみに、西ヨーロッパでは皇帝の権利と教皇の権利ははっきりと分離されていたのですが、東ヨーロッパでは皇帝が教皇を任命する権利をもちました。つまり、皇帝が政治も宗教もどっちも思うがままにできる、ということですね。
今日は簡単にまとめてみました。
以上です。
◎今日のポイント◎
・西ヨーロッパ、東ヨーロッパはそれぞれどのような勢力で成り立ってるのか?
・ビザンツ帝国の全盛期を築いたのは誰?
・東西教会の分裂の原因となったのはどんな出来事?
今回の記事ですっきりしました(^^)
それから、ようやくTwitterフォローしましたのでよろしくお願いします。(o^^o)
これはなかなか難しいハナシで、キリスト教の中でも聖像崇拝に偏る時期があったり、逆に聖像破壊に走っちゃう時期があったりで、この時期の宗教研究の大きなテーマになってるみたいですね。
あ、Twitterのアカウントわかりません(笑)
どれ(笑)
よければ、続きも更新して頂けたら嬉しいです。期限などはそんなにないので、次何か更新することがあれば、優先などして頂けたら嬉しいです!
ヨーロッパ更新しました~!
もうなんか最近はリクエストがないと更新しないですね(笑)
ありがとうございました!!
今ヨーロッパしているので、更新とても助かります!
勉強がんばってくださいね!
本当に心の底からこのサイトには感謝しています!本当にわかりやすいです!!
授業では先生の一言で終わってしまった歴史の出来事も実はスゴく重要なポイントだったってことをここで気づかされます!目からウロコです!
このサイトを参考に毎回ノートまとめさせてもらっています(^O^)
来年受験生なのですがたくさん活用させてもらうつもりです!
セプテンバーさんにぜひ更新を続けてもらいたいです!! 多分、たくさんの高校生がこれに助けられてると思いますよ(^O^)
「授業では先生の一言で終わってしまった歴史の出来事も実はスゴく重要なポイントだったってことをここで気づかされます」という一言に僕自身もうれしく思います。
実際の授業ではさまざまな制約があって、本当は先生が教えたいと思っているところも十分にできず、悔しい思いをされている先生もたくさんいらっしゃるんではないでしょうか。
そういった部分を埋め合わせられるようになればよいと思います。
励ましのお言葉ありがとうございます。
がんばります。
一つ質問なんですが、聖像禁止令を出されて、ローマカトリック教会が困るのは分かるんですが、これによって何故東西の対立も深まるのですか❔
ここでいう「東西」というのは、東ヨーロッパと西ヨーロッパのことでして、さらに、
東ヨーロッパ=ローマカトリック教会
西ヨーロッパ教会=ギリシア正教
と考えてもらえればよいと思います。
聖像禁止令によってお互いの考えの違いがはっきりした、ということですね。