敵に塩を送るという諺がある。由来は、甲斐の戦国大名武田信玄が、今川、北条の太平洋側の大名から塩の供給を止められて困っているときに、越後の上杉謙信が、敵とはいえ塩を止めるのは卑怯だということで、日本海側から塩を送ったというものである。新潟県では今でも、糸魚川から諏訪方面に抜ける街道を塩の道という。
さて、この話は、江戸時代に、武士の価値観の手本として紹介されたものである。敵に塩を送るのは立派な武士道だというのである。
しかし、江戸時代の武士階級の期待はともかく、上杉謙信自身が、そんな価値観を持っていたとは思われない。上杉謙信は、今で言えば一流の「経営者」であった。江戸時代ならば、どちらかといえば町人の価値観に近かっただろう。
実際には、次のような事が起きたのだろう。
それまでは、信濃南部と甲斐へは今川氏の駿河や北条氏の相模から、北信濃へは上杉氏の越後から、塩が販売されていたと考えられる。ところが、今川と北条の塩止めによって、越後の商人は、それまで販路を持たなかった信濃南部と甲斐へ市場を拡大する、いわば「新規参入」するチャンスを得たのである。経営者上杉謙信は、これを商業を活発化させて国を富ませるチャンスととらえたのだ。特に何もしなかったかもしれないし、承認に塩への税を1~2割下げる程度の奨励策はとったかもしれない。市場が3倍になれば、税を1~2割下げても税収は増える。
敵にも塩は売る、というわけだ。
経営者上杉謙信を示すいくつかの例のうち、代表的なもうひとつは、長尾から上杉への家名変更である。これは、当時は弱体化して有名無実となっていた関東管領上杉氏の家名を継いだものであるが、関東管領が名ばかりで実態の伴わないものであることは謙信も知っていた。これをもって、謙信が室町幕府という古い伝統の擁護者だったという評価があるが、それはおかしな議論で、伝統の擁護者ならかえってそんなおそれおおい家名を継がないだろう。そうではなくて、謙信の経営感覚がそうさせたのだ。
関東管領職は、過去に有名だったが倒産した企業のようなものである。かつてライブドアの堀江貴文氏は、オンザエッジという社名からわずかなお金で倒産していたライブドアを買収して社名をそのライブドアに変えたとき、その理由を「広告をたくさん出していて名前が有名な会社だったから」と述べている。これと同じで、上杉謙信も有名な「のれん」に乗り換えたわけである。
これによって、かなりの武力行動が正当化されるようになり、越後を統率するために、毎年のように県外遠征に出かける大義名分を得た。
「また、遠征ですか」と言われても、
「あたりまえだ、俺は、関東管領なんだから、それが仕事だ」と言えたのである。
またこれによって堂々と将軍に会いに行く大義名分も得た。一国の守護(もともと守護代だった)と関東管領では、実際の権力はともかく、将軍の前での序列は大いに違う。
このように見ていくと、上杉謙信の行動は、実に面白い。越後の虎ならぬ、越後の企業家であったのだろうか。
さて、この話は、江戸時代に、武士の価値観の手本として紹介されたものである。敵に塩を送るのは立派な武士道だというのである。
しかし、江戸時代の武士階級の期待はともかく、上杉謙信自身が、そんな価値観を持っていたとは思われない。上杉謙信は、今で言えば一流の「経営者」であった。江戸時代ならば、どちらかといえば町人の価値観に近かっただろう。
実際には、次のような事が起きたのだろう。
それまでは、信濃南部と甲斐へは今川氏の駿河や北条氏の相模から、北信濃へは上杉氏の越後から、塩が販売されていたと考えられる。ところが、今川と北条の塩止めによって、越後の商人は、それまで販路を持たなかった信濃南部と甲斐へ市場を拡大する、いわば「新規参入」するチャンスを得たのである。経営者上杉謙信は、これを商業を活発化させて国を富ませるチャンスととらえたのだ。特に何もしなかったかもしれないし、承認に塩への税を1~2割下げる程度の奨励策はとったかもしれない。市場が3倍になれば、税を1~2割下げても税収は増える。
敵にも塩は売る、というわけだ。
経営者上杉謙信を示すいくつかの例のうち、代表的なもうひとつは、長尾から上杉への家名変更である。これは、当時は弱体化して有名無実となっていた関東管領上杉氏の家名を継いだものであるが、関東管領が名ばかりで実態の伴わないものであることは謙信も知っていた。これをもって、謙信が室町幕府という古い伝統の擁護者だったという評価があるが、それはおかしな議論で、伝統の擁護者ならかえってそんなおそれおおい家名を継がないだろう。そうではなくて、謙信の経営感覚がそうさせたのだ。
関東管領職は、過去に有名だったが倒産した企業のようなものである。かつてライブドアの堀江貴文氏は、オンザエッジという社名からわずかなお金で倒産していたライブドアを買収して社名をそのライブドアに変えたとき、その理由を「広告をたくさん出していて名前が有名な会社だったから」と述べている。これと同じで、上杉謙信も有名な「のれん」に乗り換えたわけである。
これによって、かなりの武力行動が正当化されるようになり、越後を統率するために、毎年のように県外遠征に出かける大義名分を得た。
「また、遠征ですか」と言われても、
「あたりまえだ、俺は、関東管領なんだから、それが仕事だ」と言えたのである。
またこれによって堂々と将軍に会いに行く大義名分も得た。一国の守護(もともと守護代だった)と関東管領では、実際の権力はともかく、将軍の前での序列は大いに違う。
このように見ていくと、上杉謙信の行動は、実に面白い。越後の虎ならぬ、越後の企業家であったのだろうか。