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エミリー・ウングワレー展・国立新美術館

2008-06-30 23:50:08 | オーストラリアとその映画・演劇
のちときどき
乃木坂の国立新美術館『エミリー・ウングワレー展─アボリジニが生んだ天才画家─』を見に行きました。
平日の午前中、また朝まで雨が残っていたのに、かなりの人が訪れていたのは、テレビ東京【美の巨人たち】、NHK教育テレビ【新日曜美術館】で特集されたことも影響しているかも知れません。

エミリー・ウングワレーは1910年頃、オーストラリア中央部アリススプリングス近く、「ユートピア」と呼ばれる砂漠地帯に生まれたアボリジニの女性画家です。
長年伝統的な生活を送っていましたが、1977年からアボリジニの経済的自立を目的としたプロジェクトの一つとして企画されたバティック(ろうけつ染め)制作に参加。
1988年からアクリル絵具を用いてカンバス画を手がけ始めるや、美術界に大いなる衝撃を与え、以後、1996年に亡くなるまで3千点または4千点とも言われる作品を制作。アボリジナル・アートを超えてオーストラリアを代表するアーチストとして称賛を浴びることになります。

様々な色彩の乱舞する点描画。その表現や手法も様々で、たとえば筆先を広げ押し付けるように置かれた絵具は、その一つ一つが花のように見えます。
アボリジニ女性が儀礼の際に施すボディ・ペインティングに由来するストライプ画。彼女の「ドリーミング」であったヤムイモが地面に作り出す割れ目や、その地下茎を描いたと言われる網目状に絡み合う曲線。筆による鋭角的なストローク。そして幅広い刷毛を用いた最晩年の作品に到るまで、決して長いとは言えない画家としての制作期間に、彼女は驚くほど多様な手法を試み、自らを革新して行くのです。
そうして生み出された作品は、ひとことで言えばアブストラクトということになりますが、おそらくエミリー自身はそんな言葉も知らなかったでしょう。
たとえば、鑑賞者が彼女の作品を見て、晩年のモネを、またはブラマンクを、時にシャガールを、更にはピカソを思い出すことがあったとしても、エミリーは彼らの名前すら聞いたことはなかったはずです。
エミリーはただ、「ユートピア」近くの故郷アルハルクラをひたすら思い、讃え、描き続けただけ。自分が描くのは「すべてのもの」。故郷で実際に触れ、見てきた「すべてのもの」であるという彼女の言葉が残っています。
会場内で資料として見られる写真やビデオに映し出されたオーストラリア中部の風景、赤い大地やそこに住む人たちの工芸品等を見れば、その言葉にも納得できます。あの色彩は本当にその場所に存在するものだったのです。
しかし、「オーストラリア」に限定されることない見方もまた鑑賞者の自由であると思います。
たとえば会場内で二枚並べられた大作「カーメ─夏のアウェリエ」と「ムーネ・アーテーケ」を前にして、私はそこに日本の山の秋と夏の風景を見出しました。実際そういう自由さが残されていなければ、エミリーの作品がこれほど広く受け入れられることはなかったでしょう。彼女自身はきわめてナショナルな作家でしたが、その作品は見る者を縛ることなく世界に広がって行くのです。

エミリー・ウングワレー展 アボリジニが生んだ天才画家
「メッセージ」をクリックすると現れる「オフィシャル・サポーター」の皆さんの中に、「ヒューゴ・ウィーヴィングさん(オーストラリア在住)」もいらっしゃるので笑……いえ、嬉しくなりました。

【新日曜美術館】および【美の巨人たち】の特集ページにもそれぞれリンクしておきましょう。
赤い大地をふみしめて描く アボリジニ画家 エミリー・ウングワレー | 新日曜美術館
エミリー・ウングワレー 「無題(アルハルクラ)」

【美の巨人たち】で取り上げられたその一枚は、あれほど奔放に色彩と戯れた作家が最後に残した、ベージュまたは淡いグレイを帯びた「白い絵」でした。それでも、その向こうにはやはり豊かな色彩が見える気もする、そういう絵です。

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