夕凪の街 桜の国東北新社このアイテムの詳細を見る |
劇場で観る機会を逃し、DVDを購入した映画。原作のマンガも広く読まれている作品ですし、以下ネタバレ有りで感想を書きます。
映画公開が原爆が落とされた夏のさなかで、DVD発売がタイトルに相応しく桜の季節、というのはいいですね。ジャケットの桜色も綺麗です。
しかし、その内容は……やはり原作は超えられなかったな、というのが率直な感想です。
いや、真摯に作られた良い映画だとは思います。今の時代に必要な作品であるとも思っています。
だったら尚更、皆実の死はあのように穏やかなものであってはいけないと思うのです。「あの原爆」の後も生き続けて来た自分自身をようやく受け入れることができそうだった彼女が、その直後に倒れ、血を吐き、目さえ見えないようになり、もがき苦しんで命を終える。その悲しみや怒りが、あれでは伝わりません。
同じように苦しみ抜いて死んだ姉、霞の存在を無きものにしてしまったことや、被爆直後の皆実自身の「非道」な行いに触れなかったことも、彼女の抱える罪悪感や恐怖を描ききれなかった一因となったと思います。
それに原作の皆実は、元から「儚げ」な訳でも薄幸イメージがある訳でもなく、いつもは快活な女性で、だからこそ、そういう彼女が……という不条理さが胸に迫って来たのです。麻生久美子さん自身は雰囲気のある女優さんだし、あの映画の皆実としては相応しい演技だったと思いますが。
また原作では、臨終に到る数ページはあくまでも彼女の視点から描かれていますが、第三者の視点にカメラを置いての描写では、ああならざるを得なかったということでしょうか。皆実が苦しむ姿をあえて出さないことで、映画が告発調になるのを避けたのかも知れません。
原作を超えられないと言うよりは、これに関してはマンガの表現がまさっていたと言うべきでしょう。原作「夕凪の街」のラストから1ページ前とその前の半ページは、「目も見えなくなった」皆実の状態そのまま、何も絵のはいっていない真っ白いコマ割りの中に、彼女の思いを表す言葉(ネーム)だけがぽつりぽつりと置かれています。
そして、そういう構成の中でこそ、「あの言葉」は読者の胸に痛烈に突き刺さるのです。
嬉しい?
十年経ったけど
原爆を落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」
とちゃんと思うてくれとる?
但し、原爆は「落ちた」のではなく「落とされた」のだということを、はっきり台詞にして皆実に語らせたのは、有効な脚色だったと思いました。
そして、「終わらない」物語は「桜の国」へと続きます。
こちらは七波役の田中麗奈も好演していたし、打越氏と再会した旭が「あの日」と同じように川辺で水切りするシーンなど、いい演出もありました。
しかし、原作の感想で書いたように、「夕凪の街」「桜の国(一)」では顔さえ出なかった彼が、「(二)」で話を牽引する存在となっていると気づいた時の驚きは、映画にはありませんでした。
そもそも原作「桜の国(一)」では、そこに出て来る登場人物が「誰」なのかさえ、注意深く読まなくては判らず、「(二)」に到ってようやくすべてが解き明かされます。原作が話題となったのは、読者を深い読みや謎解きに誘うミステリ的快感もあったからだと自分は思っていますが、映画からそれは受け取れませんでした。
もっとも、前のページをめくって見直すことのできる本と違い、映画は直線的で不可逆な時間の中で全て判るように描かなくてはならないのだから、それを求めるのは無いものねだりなのかも知れません。
そして物語のクライマックスに当たる、旭の回想と七波のそれがシンクロして、七波が
そして確かに
このふたりを選んで
生まれてこようと
決めたのだ
と思うに到る一連のシーンについては、原作の方が遥かに「映画的」演出をしていたと思います。旭の回想シーンに七波自身がはいり込んで「見ている」映画の演出は、何だか説明的で感心しませんでした。
そうは言っても、原爆とその被害、また被爆二世と呼ばれる人たちの心情を、あくまでも「日常」の中でとらえ描いた作品として、一見の価値はある映画だと思います。
しかし、映画を先にご覧になったかたや、ご興味を持たれたかたには、ぜひ原作をお読み下さい、とお願いしておきます。
映画『夕凪の街 桜の国』公式サイト
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