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<東日本大震災>これこそ活きたネットワーク、フットワーク

2011-03-28 16:43:39 | 東日本大震災

今回の「東北地方太平洋沖地震」への義援金は、

日本赤十字社本社だけで 3月25日(金)現在 401億7,986万3,867円(100万6,271件)である。
今こうして書いている間にも増え続けているのは間違いないです。

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ご参考:阪神・淡路大震災(平成7年1月17日発生)の義援金受付状況

平成7年1月31日 1,153,283件  164億0,577万8,663円
    3月31日 2,520,387件  892億2,310万2,475円
    6月30日 2,588,298件  978億3,683万2,681円
    9月30日 2,599,810件  990億7,207万6,084円
   12月31日 2,611,817件 1,001億3,913万0,656円
平成8年1月31日 2,645,040件 1,006億7,897万1,076円(受付窓口閉鎖)
(海外の赤十字社からの義援金などは含まれていません。)
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「阪神・淡路大震災」と比べると違いの凄さがわかる。(比較するべきものではないが)
 
ただ、よく考えなくてはならないことは

「寄付」したからOKでは終わらない。

例えば、今1万円寄付しても 明日 被災地に「あたたかい味噌汁」を何人かに届けられるわけではない。
 
寄付金は、日本赤十字社本社にプールされて何ヵ月後(半年かもしれないし、一年先かもしれない)に
計画的に使われるはず・・・。
出来る限り早く平等に有効に使って欲しいものである。
できれば、具体的に「何に」「いくら」使用したか提示して頂きたいものである。
 
前置きが長くなってしまったが、今言いたいことは

「今すぐ」明日にでも被災地に届く救援物資・救助作業が必要なのです。

実際に現地で作業している方には頭が下がります。即戦力そのものです。
 

2011.3.21付けの「msn産経ニュース」に こんな記事がありました。

「野口健さん、被災地に寝袋1430個」

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110321/dst11032111510036-n1.htm

野口さんのツイッターでの呼びかけで被災地に寝袋計1430個などを届けたのである。

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「1枚の毛布にくるまっての、寒く暗い夜がどれだけきついか、登山家としての経験から想像はついていた」
という野口さんだが、支援物資を寝袋に決めたきっかけは、
野口さんのツイッターのフォロワー(愛読者)から「低体温症で多くの被災者が避難所で凍死している。
早く寝袋を届けて!」というメッセージが届いたことだった。
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これこそ活きたネットワーク、フットワーク

今も助けを待っている被災者が大勢いるのです。

私は救助の専門家ではありませんし、プロの組織や現地のボランティアにまかせるしかありません。

自分のできる範囲で援助するしかありません・・・

 

「自粛」モードは逆効果という意見もありますが、羽目を外すことだけは程ほどに。

最近の日本人を象徴する三無主義「無関心・無責任・無気力・(無視)」が払拭(ふっしょく)されますように。。。



       

<東日本大震災>「若い僕たちが立ち上がらないと。町の復興も僕らがやります」

2011-03-28 10:12:59 | 東日本大震災


        
msn産経ニュース   
2011.3.27 22:37



「1・17」生まれ、15歳の心意気 「町は僕らが立て直す」

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110327/dst11032722390075-n1.htm


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2011.3.27


氷のように冷たい水に何時間もつかりながら、津波に襲われた車からお年寄りを次々と救い出した少年がいる。東日本大震災で死者が2000人を超えた 宮城県石巻市。助けを求める声を聞き、われを忘れて救助し続けた。少年は自宅を流され幼なじみも亡くし、温かい町が変わり果ててしまったことに落胆しなが らも、阪神大震災のちょうど1年後の「1・17」に生まれたことに今、宿命を感じている。「若い僕たちが立ち上がらないと。町の復興も僕らがやります」。 (藤原由梨、写真も)

 石巻市の中学を卒業し、地元の水産高校に進学する菊地透也君(15)。自宅近くで買い物を済ませ、母の由理さん (43)が運転する車中に居ながら、激しい揺れがすぐに分かった。気付けば津波はすでに間近まで来ており、あわてて2人でやや高台にあるJR渡波駅に駆け 込んだ。「振り向いたら車がおもちゃのように流されていて信じられなかった」

 駅は海岸から約2キロ離れていたが、こぢんまりとした駅舎を取り囲むように濁流が押し寄せ、何人もが目の前を流されていった。駅舎にはすし詰めになるほどに大勢が逃げ込んだが、「助けて」という悲鳴にも誰も動けなかった。何もできないふがいなさと怒りがこみ上げてきた。

 水の流れが落ち着いたころ、駅前のロータリーに流れ着いた車数台に人影を見つけた。車の上にさらに車が積み重なり、危険な状態だった。

身長170センチ、体重50キロのきゃしゃな体。由理さんに「大人に任せなさい」と制止されたが、覚悟は決まっていた。「自分がやらなかったら、死んでしまう」。ジャンパーにスエットという軽装のまま、胸まで水につかりながら車のドアをこじ開けた。

  日が暮れてからは、誰かの持っていた懐中電灯の明かりだけが頼りだった。「車体が壊れてなかなかドアが開かない車もあったが、なぜかそのときは強い力が出 た」。駅舎にいた人たちも手助けしてくれるようになった。高齢者を6~7人助け終えたとき、寒さで震えている自分にやっと気付いた。

 水が 引いた翌日、避難所になっていた近くの小学校で、家族全員と再会できた。海に近かった自宅は土台しか残っておらず、周辺は半数以上の家屋が被害にあった。 2軒隣に住んでいて「何でも話し合えた」という幼なじみの同級生の女の子は、自宅から1キロ以上離れた場所で遺体で見つかった。「あいさつをすれば言葉が 返ってくる温かい町が、震災を境に寂しくて悲惨な場所になってしまった」

 震災から1週間後、「お礼を言いたい」という高齢者のメッセージ を携えて市職員が避難所に訪ねてきた。「そんなつもりで助けたのではない」と直接会うことは断ったが、助けた人が自分を覚えていてくれたことがうれしかっ た。そして、阪神大震災からちょうど1年後の平成8年1月17日に生まれたことを今になって意識するようになった。

 「阪神大震災もみんなが力を合わせて復興したんですよね。この町も僕ら若者が立て直します」。避難所で炊き出しなどに走り回るボランティアをみて、将来は困っている人を助けられる人間になりたいと心から思っている。

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