アテネの南西より
ケルキラ旧要塞 緯度経度 39°37'34.45"N, 19°55'43.23"E
http://www.panoramio.com/photo/633787
ホバークラフト 緯度経度 37°59'21.50"N, 23°34'9.88"E
ミストラス 緯度経度 37° 4'33.26"N, 22°21'58.40"E
第四代アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン(在位1246年-1278年)は1248
年にモネンヴァシアを占領して半島の統一を達成した。しかし、タイゲトス山脈には
なおスラヴ人の一部族・メリング族が拠り、公国に対して不服従を続けていた。ギ
ヨームは1249年、彼らを監視し服属させるための前線基地としてタイゲトス山脈脇
に良好な条件を備えた丘を見つけここに城を築いた。それがミストラスの始まりで
ある。彼は他に「大マニ城」(1250年)も建設し、重点的に支配の確立を図った。前
哨基地として建設されたミストラスであったが、ギヨームはこの城を気に入り、かな
り多くの時間をここで過ごしたようである。当初は城に滞在していたが、新たに滞
在用の居館(後の宮殿の一部)を丘の中腹に建設している。
アカイア公国の全盛期を築き上げたギヨーム2世であったが、思わぬところで失墜
を経験する。彼はコンスタンティノポリス奪回に大きく前進しつつあった東ローマの
亡命政権ニケア帝国のミハイル8世パレオロゴス帝を牽制すべく、イピロス専制公
国やシチリア王国との同盟に乗り出し、1259年にペラゴニアの戦いでこれに挑ん
だ。しかし同盟軍は大敗を喫し、ギヨームは捕虜となってしまう。彼は三年間の虜
囚生活の後、漸くミストラス、モネンヴァシア、「大マニ城」、ゲラキ四要塞を東ロー
マに割譲することで釈放された(1262年)。こうしてミストラスは東ローマ領ペロポニ
ソスの重要拠点としての歴史を歩み始めることになった。
http://www.panoramio.com/photo/40236908
当初は港湾・要塞都市モネンヴァシアが東ローマ支配の拠点となったが、東ローマ
側がアカイア公国の征服を目指して内陸に進出するとミストラスに中心地が移動し
た。しかも、戦争が膠着状態になったため、戦乱を避けてそれまでスパルタに居住
していたギリシア人住民が安全を求めてミストラスの城下に集まってくるようになっ
た。こうして、それまでは単なる城であったミストラスが都市として発展する土壌が
作られた。Wikipediaより転載