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イエス・キリストの受難(パッション・オブ・クライスト)

2012-04-07 19:30:55 | 成功法則
イエス・キリストの受難(パッション・オブ・クライスト)


イエス・キリストと弟子達が最後の晩餐(最後の過越の食事)後、ゲッセマネの園でイエス・キリストが死の恐怖を神に祈ります。弟子の1人であるイスカリオテのユダの裏切りにあって、司祭長達に神を冒涜したという理由で捕られ、エルサレムに連れ戻られます。そして司祭長や長老達によって死刑の宣告を受けます。

その後、イエス・キリストはパレスチナのローマ総督ピラトの前に連れ出され、イエス・キリストを十字架に架けるか釈放するかの判決を迫られます。総督ピラトの政治生命は危機にさらせれていたために、ガラリアの領主であるヘロド王にイエス・キリストを渡して死刑の判決をさせたのですが、イエス・キリストを総督ピラトに戻してしまったのです。

当時過越際の時に、罪人1人を釈放させる習慣があったので、祭司長、長老や群衆はローマに反抗して罪人となったバラバを、イエス・キリストの代わりに釈放させることを、総督ピラトに訴えたのです。

その時に総督ピラトは群衆の前で手を洗い、祭司長、長老達に判決を任してしまったのです。

その結果、イエス・キリストは鞭打ちされ、ゴルゴダの丘までエルサレムの街道を抜けてその十字架を運ぶこととなります。

イエス・キリストは釘で十字架に架かり、何時間もの拷問の後、“全てが完了した”また“父よ我が霊をみ手に委ねます”と大声で叫ばれ、息を引き取りました。

そしてイエス・キリストの死の瞬間、大きな地震が起こり、厚い神殿の垂れ幕が上から下へと裂け、地は3時間ほど暗闇に包まれるのです。

3日の後、イエス・キリストは死からよみがえるのです。

イースター(復活祭)

2012-04-07 13:40:27 | 成功法則
今年の復活祭(イースター)は、4月8日に世界の各国でイエス・キリストの復活を祝う儀式が行われます。

まずはこの復活祭(イースター)の簡単な説明をしましょう。

復活祭(イースター)は、イエス・キリストの復活を祝い、記念する日です。

8世紀のBedeという神父が唱えた説で、北方神話の春の女神(Eostre)、ゲルマン語の春の女神(Estera)、ギリシャ語のパスハ、フランス語のパスクはヘブル語のパスカまたは英語訳でパス・オーバー(過越の祭り)から由来すると考えられています。

また本来の意味は、キリスト教とはまったく関係のない異教徒の春の祭りだったのですが、キリスト教を布教する際、寒さ厳しい冬から、 草木が芽吹き動物たちが繁殖する春へと移り変わる模様が、十字架で処刑された後に復活したとされるイエス・キリストのイメージと重なることで、徐々に統合されていったのです。そして春の祭りの意味が変わり、復活祭としてキリスト教において普及されたとされます。

イエス・キリストは、過越の祭の際に、首都エルサレムに入り、13日の金曜日にイエス・キリストが十字架での6時間に渡る苦しみ、即ち過越の生贄の小羊(第一のコリント人への手紙第5章7節)として死なれ、3日後に復活された事で、それが現在の復活祭となっています。

聖木曜日に関しての説明

木曜日(過越の祭りの前日)の夕方、イエス・キリストと弟子たちはエルサレムの簡素な二階の部屋で「過越の食事」に着きました。この食事の前に、イエス・キリストが弟子達の足を洗ったことで洗足日とされています。

弟子の裏切りを承知の上で、イエス・キリストはご自分の時が来たことを知られ、弟子たちに対する愛を残る所なく示すため、奴隷のする仕事であったのですが、イエス・キリストが自ら弟子達の足を洗うという行為となったのです。

「最後の晩餐」という言葉はバイブルには記載されていません。実質は、「最後の過越の食事」で、その食事は種なしのパンとぶどう酒とする簡素なものでした。

この過越の食事の席でイエス・キリストはご自身の肉体である種なしのパンを裂いて弟子達に分け与え、多くの人達のために十字架上で流される血であるぶどうの実で作った杯を分け与えています。

キリスト教のパンとぶどう酒の儀式は、ここから発しています。

さてその過越の食事の後、イエス・キリストは「時が来ました。今晩、私は捕えられ、殺されます。貴方達は私につまずき、私から逃げ去ります。しかし、私はよみがえって、ガリラヤに行きます。」と言われました。そして使途の中に裏切りをする者がいることを説かれます。その時にイスカリオテのユダは、「先生。まさか私のことではないでしょう。』と答えています。

そしてイエス・キリストはイスカリオテのユダに対して「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と言われたのでした。

食事の後、イエス・キリストはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子達だけを連れてオリーブ山のふもとにあるゲッセマネの園へ向います。

その園でイエス・キリストの教えを聞いていた弟子達は、寄りかかるにふさわしい場所を見つけて寝ってしまうのです。その後すぐにイエス・キリストはやがて自分に襲ってくる死の恐れと戦うこととなります。

イエス・キリストに襲いかかる死の恐れは尋常なものではありませんでした。その死は愛のための死であったにも係わらず、きわめて残酷で、惨めなものなのでした。苦しみに悶えます。そして汗が血のしずくのように地に落ちた、孤独で死のせまった苦悩の戦いだったのです。

そしてイエス・キリストは神に祈ります。「アッバ、父よ、貴方は何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マタイの福音書第26章29節)

ヘブライ人への手紙第5章7節では、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげられた」と記載されています。

この祈りに対して神は一切答えることは無かったのです。しかし天使が降りてきて力を与えています。

メル・ギブソン監督の「パッション」はこのシーンでサタンと蛇を使って、イエス・キリストに対しての霊的な戦いを写しだしています。

その後、祭司達から遣わされた者達が手に剣や棒をもってイエス・キリストを捕えるために、ゲッセマネの園やってきました。その先頭には、イエス・キリストを銀貨30枚で裏切ったイスカリオテのユダがいたのです。そして彼はイエス・キリストに接吻をすることで、手先達に合図をして、イエス・キリストを引き渡したのです。

しかし、その後イスカリオテのユダは自分のしたことを後悔して、祭司長達の元へ出かけて、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言ったのですが、祭司長達は「私たちの知ったことか。自分で始末するこ とだ」と言われ、その結果、銀貨30枚を神殿に投げ込み、首を吊って自殺したのです。

聖金曜日に関しての説明


捕縛されたイエス・キリストは、サドカイ派の祭司長、パリサイの律法学者、そして長老達からなる最高議会で尋問されることとなります。しかし死刑はすでに確定しており、それに見合う理由を見つけるための尋問であり、全く不当なものでした。

そして彼等はイエス・キリストを死刑にするため議会から連れ出し、異邦人の代表であるローマ総督ピラトに引き渡したのです。その理由は、当時、死刑の場合は、ローマの総督の許可なしには行使できなかったからです。

たまたま過越祭の警備のためにエルサレムにやってきた総督ピラトは、事の異常性を感じ取り、すんなりと死刑をさせることをさせなかったのです。

総督ピラトは、イエス・キリストを官邸に連れ込み尋問をします。「貴方は、ユダヤ人の王ですか」、「貴方は何をしたのですか」など尋ねます。そしてイエス・キリストはこの質問に対して答えず、「私の国はこの世の者ではない」と答えたのです。

総督ピラトは、「それでは、貴方はその国の王なのか」と聞き返しますが、イエス・キリストは「その通り」と答えます。またイエス・キリストは、「私は真理を証しするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者は皆、私の声に聞き従います」と 言ったのです。そして総督ピラトは、「真理とは何ですか」と尋ねます。

総督ピラトにとっては、イエス・キリストの言う「王である」という言葉は、ロー マに反逆しているとは解釈できなく、ローマにとって無害であると判断したのです。イエス・キリストを十字架に架けようとする最高議会の人達に、「私は、あの人には罪は認めません」と言ったのです。

総督ピラトは、過越の祭りに囚人の1人を赦免する慣習を利用して、イエス・キリストを十字架に架けることを避けようとしますが、最高議会の人達はローマ軍に対してのテロ活動をして捕まった囚人バラバの釈放を要求したのです。

総督ピラトにとっては、バラバの釈放はテロ活動を認めることとなるのでの、非常に苦しい立場となってしまったのです。そして大司祭達の目的が、イエスに対しての妬みであることは理解していたのですが、群集が騒ぎ出していることが、過越の祭り時、治安が壊れてしまうことを恐れてしまったのです。

そして総督ピラトはイエス・キリストがガリラヤ人であることで、この煩わしい問題であるイエス・キリストをガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスに押し付けたのです。

ヘロデは好奇心ゆえにいろいろとイエス・キリストに質問するのですが、イエス・キリストは一言も答えなかったのです。このイエス・キリストの沈黙に、ヘロデは怒りを覚え、イエス・キリストを「侮辱したり嘲弄したりしたあげく、派手な衣を着せて、総督ピラトに送り返した」のです。

イエス・キリストは総督ピラトの元に送り返されました。そして総督ピラトはイエス・キリストを釈放しようと祭司長達と指導者達、民衆を呼び集めて、二度目の無罪を言い渡すのです。「この人は死罪に当るようなことは、何一つも見当たりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します」と宣言します。そして三度目も、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には死に当る罪は、何も見つかりませ ん。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します」と宣言したのです。

しかしユダヤの祭司長達はピラトの弱である、民衆が暴動を起こすことを試みるのです。そこで総督ピラトは祭司長達に対して、「では、イエスを私にどうせよというのか」と尋ねたのです。そして民衆は総督ピラトの発言に誘発されて「十字架につけろ」と叫んだのです。そして民衆の要求が通ってしまったのです。

ついに総督ピラトは、イエス・キリストの無罪を知りながら、祭司長達の要求通り、死刑を宣告してしまったのです。その時、総督ピラトは水を取り、群衆の前で手を洗ったのです。そして、「この人の血について私には責任がない。お前達が自分で始末するがよい」と言って、イエス・キリストを祭司長達に渡したのです。

その日の夜から過越の祭りが始まるため、その前に十字架の刑を執行しなくてはならず、死刑を宣告されたイエス・キリストは、その日の内に十字架に架けられることと成ります。

死刑を宣言されたイエスキリストに群集はつばを吐きつけたり、殴りつけたいの暴行をおかしているのです。そのためにイエス・キリストの顔はすでに元の形が無くなっていました。そして鞭打ちが始まります。

当時ローマ軍が使っていた鞭は、短い木の棒の先にベルトのような革紐が数条括りつけられ、その革紐の先に金属片が付けられていたのです。その鞭打ちは、背中の肉に食い込まれ、引き裂かれるために、かなりの激痛を与え、外傷性ショックで死に至ることもある刑罰だったのです。

そしてローマ兵士達に引き渡されたイエス・キリストは彼らによって、ユダヤ人の王が着る緋色の上着を着せさられ、いばらで編んだ冠をイエス・キリストにかぶらされ、王の権威の印である笏の代わりに、葦の棒をイエスに持たされ、その棒でイエスの頭をたいたのです。

ペテロの第一の手紙第2章24節に、「イエス・キリストの打ち傷のゆえに、貴方がたは癒されたのです」と記載されています。

当時のローマの慣習では、十字架刑を宣言された者達は十字架を背負って、処刑の場所まで運んで行かなければなりませんでした。

そしてイエス・キリストも例外では有りませんでした。そして過越祭の前だったために大勢の群集がエルサレムに詰め掛けていていました。そしてイエス・キリストは、十字架を背負って処刑される場所であるエルサレムの城壁の外にあるカルバリの丘(ゴルゴタの丘)なで歩くこととなります。

そこまでの道のりを、今でも「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼ばれて、カリバリの丘で磔と成ります。
ゴルゴタの丘の十字架にはイエス・キリストを中心として、左右に2人の罪人がいました。1人の罪人はイエス・キリストに対して「お前はイエス・キリストではないか。自分と私たちを救え」と言いましたが、もう1人の罪人は彼をたしなめ、「我々は、自分のしていることの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言ったのです。そして「貴方の御 国の位にお着きになる時には、私を思い出してください」と言いったのです。

そしてイエス・キリストは、「貴方は今日、私と一緒にパラダイスにいます」と答えました。

正午から午後三時にかけて、突然黒雲が空を覆い、恐るべき沈黙と暗黒が全地を覆った後で、イエス・キリストは、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と神に呼びかけたのです。また、十字架上で唯一イエスが肉体的苦しみを表わした言葉が、「私は渇く」という一言でだったのです。

そしてローマ兵士のひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエス・キリストに飲ませようとしたのです。そしてイエス・キリストはもう一度大声で、「完了した」と叫んで、ついに息を引き取られたのです。

すると神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたのです。そしてまた地震があり、岩が裂け、墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返ったのです。

更にイエス・キリストの死によって、ローマの百人隊長は、「この方は誠に神の子であった」と言ったのです。

当時十字架に架けられ死んだ者達は、そのまま放置されて埋められるか、あるいは燃やされるかの いずれかであったのですが、イエス・キリストの亡骸は、弟子であったアリマタヤのヨセフとニコデモによって葬られたのです。

アリマタヤのヨセフは総督ピラトのところに行って、イエス・キリストの身体の引き渡しを願って、許可され、自分のために造って置いた新しい墓にイエスを納めたのです。イエス・キリストがこの墓に納められた時間夕暮れで、その夜から始まる過越祭と安息日のために、完全なものではなかったのです。そのため、安息日後、ちゃんとした葬りをするために墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰ったのでした。

ところが、祭司長達は、イエス・キリストが「自分は三日の後によみがえる」と言ったことを思い出し、総督ピラトのところに集まり、イエスの亡骸が盗まれて死からよみがえられたと吹聴されないように、三日間、兵士たちを墓の警備に当るように嘆願し、受け入れられたのです。

そのため墓はしっかりと封印され、墓は警備 されることになったわけなのです。

復活の日

そして安息日が終わり、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきたのです。すると、また大きな地震が起こったのです。それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきにころがし、その上にすわったためなのです。そしてその姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように真っ白だったのです。

見張りをしていた兵士達は、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになってしまいまし。

そしてこの御使は女達にむかって、「恐れることはない。貴方がたは十字架に架かったイエス・キリストを捜していることは、私に解っているが、もうここにおられない。かねて言われた通りに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子達にこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、貴方がたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。貴方がたに、これだけ言っておく」と言ったのです。

そこで女達は恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子達に知らせるために走って行ったのです。すると、イエス・キリストは彼等に出会、「平安あれ」と言われたので、彼等は近寄りイエス・キリストのみ足をいだいて拝したのです。

その時、イエス・キリストは彼等に、「恐れることはない。行って兄弟達に、ガリラヤに行け、そこで私と会えるであろう、と告げなさい」と言われたのです。

女達が行っている間に、番人の内のある人達が都に帰って、一切の出来事を祭司長達に話したのです。そして 祭司長達は長老達と集まって協議をし、兵卒達に沢山の金を与えて、「弟子たちが夜中にきて、我々の寝ている間に彼を盗んだ」と言え。そして 万一のことが総督の耳に入っても、我々が総督に説いて、貴方がたに迷惑が掛からないようにさせる」と言ったのです。そこで、彼等は金を受け取って、教えられた通りにしたのです。

11人の弟子達はガリラヤに行って、イエス・キリストが彼等に行くように命じられた山に登ったのです。 そして、イエス・キリストに出会ったのです。しかし、弟子の中に疑う者もいたのですが、 イエス・キリストは彼等に近づいてきて、「私は、天においても地においても、一切の権威を授けられた。 それゆえに、貴方がたは行って、全ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼等にバプテスマを施し、 貴方がたに命じておいた一切のことを守るように教えよ。見よ、私は世の終わりまで、いつも貴方がたと共にいるのである」と言ったのです。

イエス・キリストの復活は、まぎれもない事実です。そしてイエスの復活が、教会の基礎となり、信仰の根拠となりました。

ヨハネの福音書第11章25,26節には、「私は、甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません」と書かれています。

ですので唯一の神にイエス・キリストをこの地上に送って下さったことを感謝、感謝、感謝してください。