こんばんは。
少し、宗教の話をしましょう。
日本人が、身構えないで聴くことのできる宗教を考えてみましょう。
その上で、私の捉える世界について、書いてみましょう。
身構えないで聴ける宗教、それはせいぜい三つです。
・日本神道
・仏教
・キリスト教
実際には、それぞれ細かい宗派がありますけれども、大枠だけ説明します。
先ず、日本神道。
これは、端的に言えば、自然崇拝です。
恐らく、人類の歴史の中で、最も古く、息の長い宗教の一つでしょう。
既に、日本の生活習慣とも深く結びついている為、誰が信徒だとか言えない状態になっています。
自然に対する恐怖が、畏怖に変わった時、それを崇めるようになります。
そこに人格を見たり、自らのルーツさへ、そこに求めるようになるわけです。
例えば、雷なんて、“神鳴り”というだけあって、神様が怒っていると考えたのでしょう。
また、八百万の神々という言葉があります。
あらゆるもの、物体だけではなく、空気や、場所、催し、思想に至るまで、神が宿るというのです。
これを「物を大切にしましょう」なんて軽薄浅慮な捉え方をするのは簡単ですが、もう少し読んでもいい筈です。
「何かをする前に、一呼吸おいて、考えてみなさい」
世の中には、何も特別なものはなく、全てが不平等である、と。
次に、仏教。
現代的な捉え方は人によって異なりますけれども、原初的には、お釈迦様の考えた「苦しみから逃れる方法」です。
例えば、「嗚呼ビフテキ食べたい」というのは、苦しみです。
現時点では、それが満たされていない、欲だからです。
この、ビフテキ喰いたい欲を捨て去れれば、苦しむことはないですね。
ありとあらゆる欲を捨て去った時、苦しみから解き放たれるよ、というのです。
これを、解脱、なんて言いますね。
苦しみを自覚すること、原因を理解すること、原因を取り除くこと。
こんな事を言うと怒られそうですが、いかにも哲学者が考えそうなことです。
実は、原始的な仏教には、神様なんて居ません。
仏教の神様なんて、本来は存在しないんですね。
最後に、キリスト教。
端的に言えば、恐怖政治です。
「悪いことをすると地獄に落ちるよ、嫌でしょう?」
そう言って、地獄はどれだけ酷いところか説明し、同意を得る。
そこに来て、「(罪に)目覚めよ!」と、既に罪を犯しているのだと宣告する。
ここだけ抜き出すのは狡い行為でしょうか。
キリスト教には、神様が居ます。一人しか居ないので、あまり名前を呼ぶことはありません。
一応、ヤハウェとされています。日本人には、エホバの方が通じるでしょうか。
有名な、エホバの証人が、キリスト教の一宗派である事を考えれば、分りますね。
ヤハウェそのものの性質は、実は聖書にもそれほど描かれません。
罪びとに対する容赦ない仕打ちが描かれはしますが、それは旧約聖書の記述にほぼ限る。
ともかく、「怒らせると怖い人らしいよ」という雰囲気だけで、恐怖心を煽ってる感じです。
さて、各宗教を端的に書きました。
これを読んで、やっぱり宗教なんて、という感想を持ったのであれば、自分を賢いと思いますか?
全くの浅慮と言わざるを得ません。
私は半世紀も生きていない若造です。
短く見ても千年以上、世界中で信仰を集めるアレらが、そんな若造に理解できると思いますか。
実際に信仰されている方々ですら、理解していないのです。私にわかるはずがありません。
大事なのは、貴方は何を信じているか。
例えば、世界の成り立ちについて、どのように考えていますか?
世の中とは、どういうものだと考えていますか?
もっと具体的に、世界は平等だと思いますか?
これに対して、自分の考える、何かしらの答えを持っているのであれば、それは宗教です。
“宗教”は、“宗派の教え”ですから、あまり正確な表現ではないかも知れませんが、
貴方と言う宗派の教えなのです。
誰かに諭されて、世界の成り立ちやら、世の中とはなんぞやとか、世界は平等だ不平等だ、と思うのは結構な事ですけれども、
それだけではいけない。
それは単に諦観しているのであって、何も生みません。
諦観するのではなく、達観してください。
さすれば、何かを得る事でしょう。
では、長くなりましたが、私の世界観を。
私の捉える世界は、上記三つで言えば、日本神道に近い。
だから、信仰を問われれば、「日本神道です。」と答えます。
より具体的なものを問われれば「タケミカヅチ信仰です。」と答えています。
タケミカヅチというのは、諏訪大社系の信仰ですけれども、
私は諏訪大社の氏子でも何でもないです。
単に、「諏訪大社系の神話が面白いから」タケミカヅチ様を選んだに過ぎません。
私は、“独特の世界観”と表現される世界観を持っています。
先ず、“存在”を、あらゆるものに見ます。
それは、手で触ったり、目で見たりするものだけではなくて、ちょっとした思い付きでも、妄想でもよい。
ともかく、ありとあらゆるもの、思考の対象に“した、する、するかもしれない”全てに、“存在”を見ます。
“個”とは、その“存在”すべてを含む“集合”と同一視します。
このように捉えると、“個”と“別の個”の間には、共通部分が存在しない事に気付きます。
それでいいのです。全ての“個”を含む全集合があり、それは有限集合であると捉えています。
全集合を、唯一神と見てもよいし、世界や、宇宙と捉えてもよいでしょう。
私としては、神であれ、友人であれ、あっちから歩いてくる通行人であれ、それは私の中にのみ存在します。
実は“個”として在るのかも知れませんが、私の見る彼らは私の中にしか在りません。
自分以外の“個”は、決して知る事が出来ないのです。
私は、世界を矛盾なく説明する理論を導き、信じているわけではありません。
ただ、物事について考える時、それは特に宗教や科学など、個々人が独自に信念を持つような物事である時、客観的に見る事が出来る立場を求めた結果です。
宗教は、先に書いたように、代表的なものを並べるだけでも多種多様で、比較出来るような代物ではありません。
何が優れている、優れていないというものではないのです。
正しい、正しくないと言うものでもありません。
だからこそ、客観的に見る為には、自らの信念が重要です。
自分は世界をどのように見ているのか。それを理解しなければなりません。
さらに言えば、その信念が、中立であれば尚良いわけですけれども、そこまで分析的にはならなくてよいでしょうか。
皆さんは、世界をどのように捉えていますか?
何かしらに権威を求めたり、救いを求めたりしたくなりますでしょうか?
それとも、そんなものは期待せず、自らの力で切り開かねばならないと思いますか?
或いは、権威ある者を求めないけれども、救いだけは求めますでしょうか?
一度、その辺りを考えてみるのはどうでしょう。
自身の思考が、現実主義なのか、理想主義なのか、そういった傾向を知る事は、意外と重要です。
例えば、何かに迷った時、自身にとって、最もよい選択肢とは、自身の恒から外れない選択肢だからです。
以上。
少し、宗教の話をしましょう。
日本人が、身構えないで聴くことのできる宗教を考えてみましょう。
その上で、私の捉える世界について、書いてみましょう。
身構えないで聴ける宗教、それはせいぜい三つです。
・日本神道
・仏教
・キリスト教
実際には、それぞれ細かい宗派がありますけれども、大枠だけ説明します。
先ず、日本神道。
これは、端的に言えば、自然崇拝です。
恐らく、人類の歴史の中で、最も古く、息の長い宗教の一つでしょう。
既に、日本の生活習慣とも深く結びついている為、誰が信徒だとか言えない状態になっています。
自然に対する恐怖が、畏怖に変わった時、それを崇めるようになります。
そこに人格を見たり、自らのルーツさへ、そこに求めるようになるわけです。
例えば、雷なんて、“神鳴り”というだけあって、神様が怒っていると考えたのでしょう。
また、八百万の神々という言葉があります。
あらゆるもの、物体だけではなく、空気や、場所、催し、思想に至るまで、神が宿るというのです。
これを「物を大切にしましょう」なんて軽薄浅慮な捉え方をするのは簡単ですが、もう少し読んでもいい筈です。
「何かをする前に、一呼吸おいて、考えてみなさい」
世の中には、何も特別なものはなく、全てが不平等である、と。
次に、仏教。
現代的な捉え方は人によって異なりますけれども、原初的には、お釈迦様の考えた「苦しみから逃れる方法」です。
例えば、「嗚呼ビフテキ食べたい」というのは、苦しみです。
現時点では、それが満たされていない、欲だからです。
この、ビフテキ喰いたい欲を捨て去れれば、苦しむことはないですね。
ありとあらゆる欲を捨て去った時、苦しみから解き放たれるよ、というのです。
これを、解脱、なんて言いますね。
苦しみを自覚すること、原因を理解すること、原因を取り除くこと。
こんな事を言うと怒られそうですが、いかにも哲学者が考えそうなことです。
実は、原始的な仏教には、神様なんて居ません。
仏教の神様なんて、本来は存在しないんですね。
最後に、キリスト教。
端的に言えば、恐怖政治です。
「悪いことをすると地獄に落ちるよ、嫌でしょう?」
そう言って、地獄はどれだけ酷いところか説明し、同意を得る。
そこに来て、「(罪に)目覚めよ!」と、既に罪を犯しているのだと宣告する。
ここだけ抜き出すのは狡い行為でしょうか。
キリスト教には、神様が居ます。一人しか居ないので、あまり名前を呼ぶことはありません。
一応、ヤハウェとされています。日本人には、エホバの方が通じるでしょうか。
有名な、エホバの証人が、キリスト教の一宗派である事を考えれば、分りますね。
ヤハウェそのものの性質は、実は聖書にもそれほど描かれません。
罪びとに対する容赦ない仕打ちが描かれはしますが、それは旧約聖書の記述にほぼ限る。
ともかく、「怒らせると怖い人らしいよ」という雰囲気だけで、恐怖心を煽ってる感じです。
さて、各宗教を端的に書きました。
これを読んで、やっぱり宗教なんて、という感想を持ったのであれば、自分を賢いと思いますか?
全くの浅慮と言わざるを得ません。
私は半世紀も生きていない若造です。
短く見ても千年以上、世界中で信仰を集めるアレらが、そんな若造に理解できると思いますか。
実際に信仰されている方々ですら、理解していないのです。私にわかるはずがありません。
大事なのは、貴方は何を信じているか。
例えば、世界の成り立ちについて、どのように考えていますか?
世の中とは、どういうものだと考えていますか?
もっと具体的に、世界は平等だと思いますか?
これに対して、自分の考える、何かしらの答えを持っているのであれば、それは宗教です。
“宗教”は、“宗派の教え”ですから、あまり正確な表現ではないかも知れませんが、
貴方と言う宗派の教えなのです。
誰かに諭されて、世界の成り立ちやら、世の中とはなんぞやとか、世界は平等だ不平等だ、と思うのは結構な事ですけれども、
それだけではいけない。
それは単に諦観しているのであって、何も生みません。
諦観するのではなく、達観してください。
さすれば、何かを得る事でしょう。
では、長くなりましたが、私の世界観を。
私の捉える世界は、上記三つで言えば、日本神道に近い。
だから、信仰を問われれば、「日本神道です。」と答えます。
より具体的なものを問われれば「タケミカヅチ信仰です。」と答えています。
タケミカヅチというのは、諏訪大社系の信仰ですけれども、
私は諏訪大社の氏子でも何でもないです。
単に、「諏訪大社系の神話が面白いから」タケミカヅチ様を選んだに過ぎません。
私は、“独特の世界観”と表現される世界観を持っています。
先ず、“存在”を、あらゆるものに見ます。
それは、手で触ったり、目で見たりするものだけではなくて、ちょっとした思い付きでも、妄想でもよい。
ともかく、ありとあらゆるもの、思考の対象に“した、する、するかもしれない”全てに、“存在”を見ます。
“個”とは、その“存在”すべてを含む“集合”と同一視します。
このように捉えると、“個”と“別の個”の間には、共通部分が存在しない事に気付きます。
それでいいのです。全ての“個”を含む全集合があり、それは有限集合であると捉えています。
全集合を、唯一神と見てもよいし、世界や、宇宙と捉えてもよいでしょう。
私としては、神であれ、友人であれ、あっちから歩いてくる通行人であれ、それは私の中にのみ存在します。
実は“個”として在るのかも知れませんが、私の見る彼らは私の中にしか在りません。
自分以外の“個”は、決して知る事が出来ないのです。
私は、世界を矛盾なく説明する理論を導き、信じているわけではありません。
ただ、物事について考える時、それは特に宗教や科学など、個々人が独自に信念を持つような物事である時、客観的に見る事が出来る立場を求めた結果です。
宗教は、先に書いたように、代表的なものを並べるだけでも多種多様で、比較出来るような代物ではありません。
何が優れている、優れていないというものではないのです。
正しい、正しくないと言うものでもありません。
だからこそ、客観的に見る為には、自らの信念が重要です。
自分は世界をどのように見ているのか。それを理解しなければなりません。
さらに言えば、その信念が、中立であれば尚良いわけですけれども、そこまで分析的にはならなくてよいでしょうか。
皆さんは、世界をどのように捉えていますか?
何かしらに権威を求めたり、救いを求めたりしたくなりますでしょうか?
それとも、そんなものは期待せず、自らの力で切り開かねばならないと思いますか?
或いは、権威ある者を求めないけれども、救いだけは求めますでしょうか?
一度、その辺りを考えてみるのはどうでしょう。
自身の思考が、現実主義なのか、理想主義なのか、そういった傾向を知る事は、意外と重要です。
例えば、何かに迷った時、自身にとって、最もよい選択肢とは、自身の恒から外れない選択肢だからです。
以上。
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