良い夜明けじゃったわい

2006-02-11 08:07:35 | Weblog
 と笠智衆が言っております。

《今日のお薦め》
ビゴーが見た日本人  去年の夏に横浜美術館に行った時にこの人が書いた諷刺画を生で見たのですが独特のタッチで、見てるとニンマリしてしまう。岩波文庫からも素描集が出てると思うので興味がある方はそちらもどうぞ。

a kind of report

2006-02-10 07:29:28 | Weblog
  ちょっと待て。冷静に考えて、なんでこんな字数を掛けてブログを書いてるんだよと自分でツッコミを入れてしまった。前日のなんてレポートに匹敵するかのような字数だ。2000字書くのに約一時間を要するからとんでもない労力である。一度文章を書くと切りどころに困る場合がある。でも一つの文章に色々な要素を散りばめようとすると大抵失敗する。どこかのエッセイストが一つのエッセイで言いたい事は一つで終わらしたほうが良いと言ってたが、自分も経験的に学んだ。やっぱり何でも潮時というのがあるものだ。

《今日のお薦め》
さようならギャングたち  高橋源一郎(著)

 超有名な一冊ですが、小学校の頃のマトモな読書は兄貴に強制的に読まされたこの一冊から始まったと言っても過言ではないので記念碑的一冊として。もっとも、この本がマトモであるのかと改めて考えると・・。というよりこんなもん小学生に読ませるな馬鹿タレ!当時は無邪気に読み進めていました。

軽快なるかな二輪車

2006-02-09 04:43:15 | Weblog
 この日は久々に自転車に乗った。久々といっても数ヶ月乗ってないだけだろうと思われるかもしれないが、もう2年近くも乗っていない。だから最初にペダルを漕ごうとすると心なしか一瞬フラついたような気がした。最近は移動手段が主に徒歩となってしまったため自転車には乗らなくなってしまった。そういえばバイクにも乗らなくなったからここ最近は二輪車とは全く縁が無かった事になる。高校へは毎日嫌ってほど自転車やバイク(?)で通学して、『もう二輪車は飽きた』となり、車が主な移動手段になるのならまだわかる。人間の道具を発達させてきた歴史の順序からして言えばそれが至極真っ当なのだ。しかし、何故か移動手段を退化させていった生物がいる。何を隠そうこの筆者である。『自動車の免許を取るタイミングを逃した』という小声の囁きは取りあえず据え置くとして、とにかく徒歩というのが大好きなためだろう。このところは然したる不便も感じないでウォーキングライフを満喫していた。だから自転車のあのユラユラするような感覚を味わうのはとても新鮮だったのだ。さすがに何年も乗っていた乗り物だっただけに、ペダルの漕ぎ方までは忘れていなかったが何とも小気味良い、あの風を切るような疾走感を暫く忘れていた。そういえば、自転車に初めて乗れるようになった時もこんな感じだったんだろうか。もう昔の事だからあの感動も大分ぼやけてしまった。でも補助輪を極度に嫌がってた覚えが強くある。それは自分にとって御節介な邪魔者だったし、幼さの象徴のように思えた。補助輪を取ること。それは幼少期の些細な抵抗、しかし一つの大きな冒険でもあった。だから、無理を言って外してしまったのだけれでも、いざ補助輪無しの自転車を漕ごうとしても、これがまるで暴れ馬のように言う事をきいてくれない。兄が見本を見せてくれるが、真っ直ぐに進むその乗り物の原理がどうしてもうまくわからない。そうこう悪戦苦闘するうちに幾日か経った頃に今まで乗れなかったのが嘘であったかのように途端に乗れるようになった。暴れ馬は従順な二つの車輪に変わり、全身でバランスを取りながら、今まで感じた事のないスピードで移動する事を可能にさせたその道具は自分に大きな快感を与えた。しかし最初の内は注意深くバランスをとったり、細心の注意を払いながら乗っていたその乗り物もいつの間にか只の退屈な乗り物に変わっていた。自分はそれを『徒歩より早い』という観点からのみ捉えるようになっていたし、目的地に到着するためのツールとして無意識にただただ漕ぐだけになっていた。でも少なくともこの日は違った。一漕ぎ一漕ぎを噛み締めるように、そして単なる便利なツールとしてではなく、自転車そのモノが持つ楽しさを味わいながら。力強く、そして早く漕ぐと風が自分の鼓膜を刺激するのがわかる。『ボォーボォー』。バイクに乗ってると不快に感じるその音もこの日だけは体が久々の再開を楽しむように寛容に反応しているのがわかった。疲れる。でも心地よい。やれやれ、この感覚も毎日だったらどうせイナッフになるのになぁ・・とかなんとか思いつつも、ウキウキしながらペダルを漕ぎまくる。無意識に物事を行える事自体は別に悪い事じゃない。だって一々意識的に物事を行っていたら疲弊してしまうもの。ある行為や意識が日常化によって暗黙知になった状態というのが物事を効率的に行うのに良い場合も多くあるのだ。そこには物事の一回性が無い代わりに慣れない事に付いて回る“ストレス”を除去する事を可能にする。しかし考えてみると今日忌避されがちな“ストレス”というのも快感を得るためには必要なものであるようにこの日、自転車を乗った事を通して思った。適量のストレスがあるからこそ、その対照としての快感を感じることができるのではないだろうか。ストレスが無ければ無感覚に効率的にその物事を行える。しかし其処にはおそらく、感動は無い。もちろんそれはあくまで“適量”でなければならないとは思うが・・。

《今日のお薦め》
 異邦人 カミュ(著)

 やっぱりムルソーがカッコ良すぎる。実存主義の作家としてもはや古典となった感があるカミュですが、実存主義が終わったら構造主義、構造主義が終わったらポスト構造主義、次は現象学、んで次は・・・etc とった具合にフランス思想を次々と消費していった当時の日本ですが、確かにそれぞれの主義主張に利点があるように欠点もありました。もちろんこのカミュにも。しかし、消費物のように流行りが過ぎたら捨てるのではなくて、やはり過去の学問体系に学ぶべきは学ばねばならないでしょう。この異邦人にも当時のフランスの学問や時代背景が色濃く反映されていますが、この時代だからこそ解釈できる部分があるはずです。少なくとも某映画のように『カミュなんてしらない』なんてアンチアカデミズムを気取って言って欲しくないですね。(某として成立してませんが 笑)

再訪

2006-02-08 03:28:44 | Weblog
 バイトやら何やらでかなり忙しかったので、更新がもの凄く遅れてしまいました。数日で大量に更新する予定です。何はともあれ、3月6日から沖縄へ行ってきます。最後に行ったのが幼稚園に入る前だから20年近くの時を経ての再訪。足の裏の皮膚を針で刺すような砂浜の熱が忘れられない。といっても、当時の記憶といったら海の異常な青さとその砂浜の熱くらいしか覚えてないです。この歳になって見え方が大分違うかもしれないんですが、良い意味での違和感を感じれるといいなと思います。言葉の数だけ現実を切り取れるツールが増えるのですから、当時と違った世界が見えるのは、ある意味では当然なのだけれども・・。それでも、当時の感覚としての『ウミ、キレイ、アオイ、アツイ』といったダイナミックな捉え方もそれはそれである意味素敵なのかもしれないですね。もちろんその表現という意味ではなくてその“見え方”がという意味ですが。

《今日のお薦め》
伝奇集 J.L・ボルヘス(著) 

 ボルヘスは一般的に難解と言われてますが難解なだけではなく、カヴァーを見ても分かるように気味の悪い文章を書く人です。もちろんストーリーが気味悪いという意味ではありません。あれをストーリーと呼べるかどうかはいささか疑問ですが・・。とにかく文体が何処かおかしい。まぁ奇天烈な書物を求めてる方は一読をお薦めします。

フォルム

2006-02-07 03:42:49 | Weblog
 とりあえずここにトイレ置いときますね。

《今日のお薦め》
蒼天航路  李 學仁 (著), 王 欣太 (イラスト) 
 熱い漫画を求めてる人にお薦めです。普通の三国志系の話は劉備が主人公ですが、これは曹操が主人公の漫画です。『郭嘉ーーーー!!!!』、この場面で泣いた人は何人居るのでしょうかw 

偶有性をどう捉えるか

2006-02-06 03:08:37 | Weblog
 宗教問題を考えるには、やっぱりコンティンジェンシー(偶有性、不確定性)が問題の核になる。今日は社会学的観点からそれを考えていきたい。宗教問題に関心のない人及び、特定の宗教の信仰がある人はスルーする事をお薦めします。
 社会学は『異なる人々がどうして互いにコミュニケーションを行う事ができるのか』という問題を出発点にする。社会学者達はこの問題を軸に自らの理論体系を構築しようとしたし、それはまた『社会秩序はいかにして可能なのか』という問題を考える事にも繋がる。社会的な場で何かを行為しようとすれば、自分の行為の選択は他人の行為の選択に依存し、同じように他人の行為の選択も自分の行為の選択に依存する。つまり、相互行為は不安定な状態にあると言える。
 これらの相互行為の不安定さに加え、個別の行為においても、現在行われている行為は、選択の結果であり、一般的に言って、選択は絶対的な必然性に基いて行われるわけじゃない。つまり、ある選択が行われた背後には、それと同様に選択可能であった、他の選択の可能性がつねに存在するのである。現実の選択とは異なる他の選択もまた可能であったのだ。ちなみにここで重要になってくるのがcomlexity(複雑性)という概念である。これはあるシステムにおいて多様な関係が可能であるという事実を指す概念だ。ここが宗教問題に大きく関わる。というのも、相互行為の場面において、過度の複雑性を前にすると、人々は行為の選択不能の状態に陥る。無限の選択肢を前にしては、行動の決定が不可能になってしまい広い意味での“不安”が人々を襲う。したがって人々の社会生活、コミュニケーションが可能であるためには過度の複雑性をなんらかのかたちで回避し、選択を制限しなければならない。
 宗教のようなあるシステムはこのような過度の複雑性を回避するために、複雑性を縮減する。これはもちろん裏をかえして言えば、環境にはシステム内部より以上の複雑性が存在するという事なのだが、宗教はある特定の行為に“意味”を与えることによって、実現可能な多様な選択肢のうちから選択を行う事を可能にする。例えば、自由意志を否定したキリスト教の“予定説”、もしくはある宗教での“真理”、“教義”なんてのも同じ働きをする。要するに、本来規定不可能なものを規定可能なものに変換する機能が宗教にはあるのだ。これがいわゆる宗教の一つの機能だろう。ある事柄を真理と規定する事で人々は“思考を介さず”善悪の判断を下す事ができる。真理や道徳のように絶対化されているものがいかに社会的に形成されたかを歴史的にたどろうとしたのがニーチェやフーコーだ。彼らについての詳しい説明は別の機会に譲るが、簡単に言うと真理や道徳とはこの世の複雑性を単純化して人々に掲示するための装置なのだ。
 もちろんこれには良い面、悪い面がある。ここに宗教の存在価値も欺瞞も集約されていると言っていいかもしれない。良い面はおそらく、ある共同体に秩序を与える事ができる面だろう。そしてそのシステム内では“意味”が限定されているため、人々に安心を与える。だって何が“良い”生き方か決められているんだから、自分で考える必要ないもの。悪い面も色々あるが、その最たるものがいわゆる宗教戦争に見るような、単純化から起きる自らのシステムの極度の絶対化だろう。もちろんナチのホロコーストもその類。ある価値が固定的になってるため、その他の価値観はその共同体では排除される。本来何が正しいというのは自明の理ではないのにもかかわらず。環境保護の胡散臭さも同じ理由からくる。つまり環境とは人間にとって都合が良い環境保護なわけで他の生物の立場からすれば虐殺にも生態系の破壊にもなりうるのだ。
 偶有性が排除される事で起こる、ある種のわかりやすさに安住するのか、それとも偶有性に憑いて回る広い意味での“不安”に耐えながら“生”に何かを見出そうとするのか。これが宗教に与するか否かの境目だろう。皮肉に聞こえるかもしれないが、勿論どっちが良いって言ってるわけじゃない。でも自分には、自らの価値観が絶対的に正しいと思い込んでる方々と議論する準備は無い。そういった議論は往々にして無意味に終わるからだ・・。うっぷ

《今日のお薦め》
市民ケーン 監督: オーソン・ウェルズ
 
 世界の映画監督が選ぶ20世紀ナンバー1にランクインされた映画です。一回くらい見てみるのもいいんじゃないでしょうかね。

KAFUN

2006-02-05 05:50:31 | Weblog
 なんか怪しい画像ですが決してミクロレベルの下ネタではありません。花粉を電子顕微鏡で見るとこんな風に見えるらしいです。人間の視力も限定されたもので良かったですね。こんなものが一々見えていたら・・と思うと恐ろしい。

《今日のお薦め》
GREEN-農家のヨメになりたい  二ノ宮 知子 (著)

 またまた“のだめ”繋がりかよと思った方もいるかもしれないが、この人の作品はやっぱ面白い。農業ねぇ・・        

帰路

2006-02-03 04:10:37 | Weblog
 この日もいつものように最寄駅から徒歩で帰路につく。この日課が始まってから随分経つのだが、どうやら自分は毎日帰り道のパターンを微妙に変えたくなる習性があるらしい。この日も妙な冒険心が無難な選択をしようとする脳を刺激して自分を遠回りさせてしまった。それも今まで一度も通った事のない道へ。これはちょっと珍しい。というのも、今まで一度も通った事のない道というのは15年近くもここに住んでるとあまり地元では見掛けなくなってしまうからだ。大抵の道は好奇心旺盛な小学生だった頃の自分に先を越されてしまっている。だから新しい帰り道を発見しようとする試みは大抵すぐに頓挫してしまうのだ。でもこの日は初めて通る道をまるで自分が新雪を蹂躙しているかのような征服感や、未知なる事柄に付き物のとても素敵な予感を抱きながら一歩一歩進んで行った。
 こんな狭い町では何処もかしこも幼い頃の瑣末な思い出で溢れかえっている。一つの路地に楽しさや痛さや恐怖が多少姿を変えてまだ其処に残っているのだ。でも何年も住んでるとそういう思い出の場所は目に見える形でどんどん姿を変える。近くのグランドは雑草が茂り、子供が遊ぶのもあまり見なくなった。中学の時に彼女と遊んだ公園はいつの間にか一軒家になっていた。そしてかつて其処にあったであろう場所の細部が何故か思い出せなくなっているのだ。なるほど故郷の喪失とはこういう事なのかと一人合点をしながら再び帰路につく。
 この前、大学の友人と『故郷って何だろう』という話になった。彼曰く『場所、つまりその土地の景色は変化するし、場所だけじゃ故郷と呼べない。かつての知人達とセットで故郷は存在するのではないか』という話をしていた。なるほど。確かに旧友の中に私達は故郷を見るのかもしれない。懐かしいその顔を見るだけで私達を幼き日に戻してしまう。そんな旧友が確かに存在する。しかし、その再現された仲は完全に昔の形のままではない。何故なら場所と同じように人も変化するからだ。
 そうすると私達は本質的に何に故郷を感じると言えるのだろうか。それは、その場所や人に残る“面影”であるように自分は思う。きっと、故郷とは絶えず変化する現実にありのままにあるのではない。おそらく、変わり行くその物の中に残る“面影”のような不確かな存在なのではないだろうか。そうすると、故郷の喪失とはその“面影”すら読み取れず、かつての姿を想像すらできない事態を意味する。完全には無くなってはいないものの、近くのグランドや公園で感じたあの喪失感はそういった“面影”が消えつつあり、かつての記憶さえ消えてしまった事から起きたのだろう。自分にとっての故郷とはそういう、常に時間の流れに侵食される存在だ。冬の季節感漂う、侘しい帰路が自分にそう思わせたのかもしれない。でも、ふとそんな気がしたのだ。だが、時間の流れが故郷の存在を左右するものであるとしたら、それは今、現在の場所や人が将来の故郷になるものとして生成されつつある事も意味しているのではないだろうか。 だから、私達が新たな人や場所との“出逢い”が起きた時に喜びを感じるのは、そこに新たな故郷の可能性を発見するからなのかもしれない。

《今日のお薦め》
アメリカの影  監督: ジョン・カサヴェテス

 これはカサヴェテスのデヴュー作です。近くの図書館の視聴覚資料の所にたまたまあるのを見かけ、ただならぬオーラを感じたので試しに借りてみると・・カッコよすぎる!そりゃゴダールも黒澤も淀川さんも大好きなはずです。白黒だし、人種差別等の問題で当時の時代背景が反映されまくってますが、不思議と古さを感じない。古さを感じないっていうのは画質的な意味ではなくてこの映画の作り其の物が洗練されているのでとっても小気味よく見れるんです。本当にセンスいいなぁ~と感服してしまう映画ですよ。

春夏秋冬

2006-02-02 14:57:55 | Weblog
 自分は季節の中で秋が一番好きですがやっぱり夏も好きです。というか花粉症が出る春以外だったら何でも良いです。 まだ春の足音は聞こえませんが、そろそろあの地獄の季節がやってくると思うと・・((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル でも花見したいなぁ

《今日のお薦め》
 
地下鉄のザジ
  監督:ルイ・マル

 ルイ・マル作品で最も有名かつポップな作品。本当に『鬼火』を撮った監督なのか・・という疑問を呈したくなるほど作風が異なる。本作はいかにもフランス的でアメリとか好きな人にはお薦め。映像がとても綺麗です。高校2年生の時に初めて見てから、今までに何回も見た映画。クレラップのCMはこの作品のパロディーなのかな。

試験が終了致しました

2006-02-01 01:41:30 | Weblog
 やっと終了。皆様、いかがお過ごしでしょうか。自分は試験が終わっても肉体的、精神的な疲労が中々取れません。
今部屋の掃除をしております。環境を変えると心境も自然と変化しますよね。そういえば風水というのがありますが、自分は以前からそれについて疑問に思ってる事があります。まぁ、よく知らないから何とも言えないですが・・笑 あっ、別に信じてませんが、話の話題として楽しむ分には占いとか血液型について話すのは大好きですよ。それに御節料理を頬張る口に古人の知恵で述べたように想像力の端緒になるとは思います。ただね、ただね・・・


         


              『東って突き詰めると西じゃね。』

くだらなくってごめんね 笑
《今日のお薦め》
坂口安吾 ちくま日本文学全集  坂口安吾(著)
 
 安吾の代表作を収めたお得な一冊。彼に倣って堕落しちゃってくだされ。