自覚せよ

2006-06-26 02:11:32 | Weblog
 コンプ野郎に喝   

《今日のお薦め》
 
内省と遡行  柄谷行人(著)  
 ドイツサポーターはスウェーデンに勝って路上で喜んでただけなのにイングランドのフーリガンに写真のように殴られましたが、柄谷のおっさんも彼等に負けないくらい理不尽です。

sense of place and out of place or ...   

2006-06-08 03:17:43 | Weblog
“場所”というのは自分にとって、ひとつの大きなテーマになっている。ここでの“場所”というのは単純に物理的な意味でもあるし、共同体、スタイル、自分等といった一種の“場所”の事でもある。これらの場所に対して私達はどのような帰属意識や距離感覚を築くべきなのだろうか。もちろんこれを考えるにあたって、タイトルにある《sense of placeとout of place》のような二元論では片付けられない。なぜならその“場所”の種類によって私達の心的な態度は異なるためだ。国家に対して帰属意識を強く持つ者が自己に対しても同じような帰属意識を示すとは限らないように、様々なレヴェルにおける“場所”に対する私達の感覚は一様ではない。また、ある特定の“場所”においても、それに対する感覚の有無を単純に<YES/NO>の図式で分ける事もできないだろう。その“場所”に対して帰属意識を抱いていないわけではないが、微少にしかそういったものを抱けなかったり、あるいは次第に帰属意識が増していく場合があるように、グラデーション状に意識が変化してゆく事も考えられる。また、強い帰属意識を持っているにも拘らず、ある側面には違和感を覚える事があるように、一つの場所の中で私達の意識は葛藤する。
 タイトルにある“sense of place”。これは映画監督ヴィム・ヴェンダースの来日記念講演の題目である。そして“out of place”。これはオリエンタリズムという主著で知られるE.W.サイードの自伝『遠い場所の記憶』の原題となったものである。“場所の感覚”と“場所の外”。対照的な両者の主張をまず整理してみたい。

《ヴィム・ヴェンダースの主張する “sense of place”》
  
 ヴェンダースの作品の撮り方やタイトル(“ベルリンの天使の詩”、“パリ、テキサス”、“リスボン物語”等)が特定の地名を含んだものが多い事からもわかるように、彼にとっての“場所”は特別な位置を占めている。
 彼の主張を要約するとこうなる。『ハリウッド映画を主流とする現代映画は物語中心の構成であり、場所やキャラクターは二義的な意味しか持たないものに貶められた。そういった状況においては何処で撮っても、誰が撮っても、誰を役者に使っても同じような映画が出来てしまう。それらは実体験の喪失と交換可能な映像の横溢を招いた。もし私達がそういった視覚文化の消費化に抗おうとするのならば、想像力や自尊心の源泉となっている“場所の感覚”の重要性を再認識すべきではないだろうか。』
 ハリウッド映画に対する彼の批判にはひどく共感できる。それらの物語は使い古され、ほとんど紋切り型でしかありえなくなっている。細部が異なるだけで、何回も何十回も同じ物語が再生産されているのだ。また、映画の撮影法に限らず彼の主張するような場所における内在的なあり方は、アイデンティティを保障する。例えば一つの“自分”という場所、“国家”という場所、“文体”という場所に内在している感覚。
 彼は講演の最後をこう締めくくった。
“場所が私達に帰属するのではなく私達が場所に帰属する事。それこそが大事なのではないだろうか” 

《E.W.サイードにおける“out of place”》
 
 サイードはエグザイル(故国喪失)を肯定的に捉える。

“エグザイルは知っている。世俗の偶発世界では故郷=家庭は一時的なものであることを。境界や障壁は慣れ親しんだ領域という安全圏にわたしたちを閉じ込めるものであったが、牢獄にもなりうるし、しばしば理由や必然性などおかまいなしに、守り通さねばならないものとなる。エグザイルは境界を横断する。思考と経験との壁を壊す。”<E.W.サイード著 故国喪失についての省察より>

 エグザイル的な在り方。すなわち、ある場所から外に出る外在的な在り方は、特定の場所に対する俯瞰的な見方を可能にする。サイードがここで述べてるのは主にナショナリズムの文脈での事だが、ナショナリズム的に帰属意識が過剰になる場所は何も国家に対してだけではない。それは自分自身やその他の事柄に対しても言えるのではないか。例えば先に述べた“アイデンティティ”や“宗教”や“言語”。そのような特定の“場所”から外に出る事で新たな可能性が見えてくるのも確かである。それらは自己の生きる世界の自明性を解体するという作用がある。サイードはある本でこうとも述べている。

“あるべきところから外れ、さ迷い続けるのがよい。決して本拠地など持たず、どのような場所にあっても自分の住まいにいるような気持ちは持ちすぎないほうがよいのだ”


《sense of place and out of place or...》

 前者が、ある“場所”における内在的な生き方であり、後者がその“場所”に対する外在的な生き方だ。これはあくまで便宜的な分け方であって、最初に述べたように<YES/NO>はっきり区別できる問題ではない。もちろん“場所”の種類によってもスタンスが異なるだろう。だが、あくまで私見を述べさせてもらうならば、あらゆる内在的な在り方は幸福であるか不幸であるのかは別にしてサイードの言うように“牢獄”なのではないだろうか。そこにはおそらく窓すらない。他の価値基準が犇く外界の素晴らしさはおろか、自己の基準からでしかその場所を理解する事ができない。そして、そういった在り方に必ず付いてまわるのが“排他性”なのだ。そこでは外界に開かれた他者性を感受しようとすらしない感性が養われる。では、外在的な生き方が素晴しいと言えるのだろうか。場所の外に出る事は自己の世界の自明性を解体する事で、元居た世界すらも異なる見方で見る事を可能とする。それゆえ生を解放し豊饒化すると言える。しかし、その生き方は“根無し草”の状態であるため、常に自己解体の危険を孕んでいる。そうであるならばout of placeすらも乗り越える必要があるのではないだろうか。外在的な在り方は、ある意味では自由であるが、自己や共同体の連続性が基盤となっている人間の存在の確かさのようなものが失われてしまうかもしれない。だからこそ内在的な在り方が再度必要となる。しかし、そこでの内在的な在り方とは外在的な在り方を通過する前の内在的な在り方とは全く異なる。なぜなら外の世界に出る事で今まで居た場所の意味もまた変わるからだ。つまり、内在的な生き方を外在的な生き方で超えて、さらにまたカッコつきの《内在的な在り方》で戻ることで、根を持ちながらも排他性を超え、他者性に開かれた、“生“がたち現われてくるのではないだろうか。