実習

2007-04-24 23:02:47 | Weblog
 心理学系の授業で架空の商品を考えだし、そのセールスポイントや価格を設定してその商品を周囲の学生同士で売り込み合うという実習がこの前あった。架空の商品と言っても『新型の傘』に限定するとの教授からの指示。しかし今までなかったような斬新、かつマトモな傘を5分間で急に考えろと言われても土台無理な話である。どうせ撥水性やら省スペース系のネタばかり出てくるんだろうなぁと思ってたら、案の定周囲からはその手の新型傘のオンパレードである。とはいえ、自分も良いアイディアが全く浮かばず呻吟していた所、残り時間も僅か30秒たらずに。というわけで止むを得ず、泣く泣く、苦し紛れに『コーラン傘』なる物を発案。構造は単純。傘に、コーラン(クルーアーン)を音読したテープを流すためのaudio機器をつけるだけ。

セールスポイント:イスラム教徒増大
価格:1000円

 いわゆる破格である。audio機器を取り付けるだけで赤字経営になること必至なわけだが、どこぞの馬の骨だか判らぬ人達に作って貰う事で人件費が削減され、価格が抑えられたものと仮定していただきたい。とはいえ、交渉が始まるも、拙者の饒舌虚しく、当たり前のように売れないコーラン傘。イスラム教だけではなくキリスト教やユダヤ教、もちろん仏教や新興宗教のプロパガンダなんかにだって応用可能な技術なのに全くニーズが無いらしく、友人にすら爽やかに購入拒否される始末。雨が降るというこの単純な気象学的事実を、audioから美しく響き渡るコーランの言葉を使用する事でアッラーへの帰依を誓う若者を続出させイスラム共同体の繁栄に利用してしまうという、この画期的な新型傘ではあるのだが、聞けども聞けども購入者欄に次々と連なっていく購入拒否のマ-ク。『なるほど、これが日本であった』と意味不明な一人合点をする。実習後に改めて購入拒否のマークの塊を見ていると、日本人の精神を形作るも、その影響が顕在化せずに無視され、そして変形してきた仏陀や八百万の神々達の歪んだ微笑の一端を見たような気にさえなる4月下旬の春雨時である。無論、こんな傘が売れてしまうと中東のみならずこの小さな島国においてもジハードの危険性は益々高まるわけだが。しかもイスラム教の断食の文化が浸透してしまうと日本の美しい食文化が衰退してしまうのではないかという懸念も残る。さらには、交渉中に『中東では売れる』と断言してはみたものの、どうやらあちらはあまり雨が降らなさそうである。何はともあれ、CMは電通に依頼するとして

朝食べた焼き魚定食 600円

使いかけのピンクな玩具 1個 820円

新品のコーラン傘 1本 1000円

西暦からヒジュラ暦への変化  priceless

お金で買えない価値がある。



※この実習の本来の目的は、説得的コミュニケーションがどのような形で行われるのかという事を考える心理テストでした。ちなみに、もちろん私は宗教の信仰を持っておりませぬ(笑)

ちょっとHな隠喩的ボランティア論

2007-03-23 23:32:56 | Weblog
 自論において、いわゆるボランティア活動には大雑把に分けて二種類ある。比喩を使うならonanie的ボランティアとsex的ボランティア。前者はボランティアを徹頭徹尾利他的な行為だと主張するタイプで、無償の愛や優しさを提唱するタイプ。後者は利己的な欲求を認識したうえで利他的行為をして他人が幸せである事が自分も幸せであると感じるタイプ。もちろん前者も後者も結果的にはボランティア活動を通す事で他者にプラスの要素を与えているという意味で、見かけ状は変わらないように見える。
 しかし、である。ここからは美意識の問題にも関わってくるのだが、見かけ状は変わらない二つのタイプのボランティアは結果的には大きな差異を持つようになる、というのが私の自論である。
 sex的ボランティアは自分の利己的な欲求、すなわち自尊心や快楽そして他者の評価等、に自覚的に行為する。一方、onanie的ボランティアはボランティア活動を純然たる他者だけのためであって、自分の利害には関係無いと主張する事で利己的欲求を抑圧してしまうという陥穽に嵌りやすい。これをsexとonanieという性的行為の本来の意味からわかりやすく、AV男優とAV女優、そして視聴者という比喩を使って説明していこう。ここではもちろんAV男優がボランティアでAV女優がボランティア活動を被る側の人間(老人ホームの老人、病人etc)である。そして視聴者とはボランティア活動を見る第三者のことだが、今は便宜的に私であるとしておこう。ここでのAV男優はさっき見たように二つの立場がありえる。つまりsex的ボランティアとonanie的ボランティアである。もちろんsexとonanieという本来の語彙の意味とはやや異なり、両者ともAV女優と絡んでいるという意味において、sexしているという点で一致しているのに注意してもらいたい。確かに両者はAV女優とHをしているわけだが、両者のHの仕方は大きく異なる。一方は女優を逝かす事で自らも満足し自らも逝く、もう一方は自分の快楽を考えず相手を逝かす事だけを考える、というわけだ。前者がsex的ボランティアのメタファーである事はすぐにわかるであろうが、後者がonanie的ボランティアであるというとこれを読んでいる人は首を傾げるかもしれない。何故後者がonanie的であるのか今から説明しよう。
 その前にまずこの事を述べておかなければならない。人間は100%の純度で利他的に行為する事は不可能である。もちろん、その純度が極めて高い利他的行為も存在するのは確かである。マザー・テレサの例を挙げるまでもなく、身近な例で言えば私達が人を愛する事で“己”が希薄となり相手に施しをせずにはいられないように、一見すると利己的欲求から離れているように見える純度の高い利他的行為というのもあるものだ。だがその利他的の純度というと決して100%というわけではない。そもそもその人間が“生きている”という厳然とした生物学的事実が100%ピュアな利他的行為を不可能にしている。というのも“利他的な行為”という概念自体がその行為を行う主体を前提にしているため、自己と他者の区別がつかない自他未分化の状態においては厳密な意味での利己も利他もないわけだ。そうであるならば、他人の利益のために行動するにはその主体の生命が無ければ何かを行為する事すらできないだろう。人間が何かの行為を行う時には意識的であれ、無意識的であれなんらかの原因がある。普段私達がニューロンの発火を意識して夢を見るわけではないように、必ずしも何かを行為する時にその原因や動機が本人でさえ正確にわかるわけではない。もう一度繰り返そう。人間が何かを行為する時には、何かしらの原因がある。
 そこで話をさっきのAV男優とAV女優、そして視聴者の話に戻そう。思い出してもらいたい。比喩とはいえ、AV男優には2種類あると先ほど述べた。sex的ボランティアとonanie的ボランティアである。復習をするならば、sex的ボランティアが利己的な欲求を認識したうえで利他的行為をして他人が幸せである事が自分も幸せであると感じるタイプ。これは自分の利他的行為が利己的な動機に基いていると自覚しているタイプだと言えよう。一方、onanie的ボランティアはボランティアを徹頭徹尾利他的な行為だと主張するタイプであり、自らの利害とは関係無く、つまり自らの利益は利他的な行為をする動機とはなりえないと主張する立場である。これをAV男優を使ってもっとわかりやすくリアルな比喩で説明するとこうなる。sex的ボランティアの立場をとるAV男優は相手も気持ち良くして、こっちも気持ち良く射精したい。このタイプをAさんとしたい。一方、onanie的ボランティアの方は相手を気持ちよくするためだけにピストン運動する。ただし射精をしないように性器に施錠をかけておく。これをBさんとする。もちろん二人のAV男優はsexをしてAV女優に満足を与えているという点では共通している。絡みの後、Aさんは満足そうだ。Aさんは絡みの後のインタビューでこう言う。『いや~女優さんも逝ってくれてうれしかったし凄い気持ち良かったっすよ』。一方Bさんも絡みの後の表情は射精しなかったにもかかわらず何処か誇らしげである。絡み前と変わらず性器はまだ勃起しているようだ。『僕、チ○コに鍵かけてるじゃないですか?僕射精できないし、第一全く性欲無いんですよね~。えっ?何でAV男優になったかって?理由はありませんよ~。女優さんを逝かせればそれでいいんです。』だがその一連のそれぞれのsexをテレビ画面で見ていた視聴者はBさんのsexに何らかの違和感を感じてしまった。
 視聴者は何故Bさんのsexに違和感を感じてしまったのだろうか。検証していこう。いきなり核心に入るならば、そもそもsex《行為》は本人の勃起した性器《主体》がなければ行えない。そして何故勃起するかというと興奮した脳の命令《原因》によってである。つまり勃起するためには脳の命令という名の利己的な欲求が必要になるわけである。Bさんが勃起しているのにもかかわらず、射精もしなかったのにインタビューの質問に心底満足そうな顔で応えたのは何故か?それは女優が逝ってくれた《他者の承認》からである。当たり前だが、他者に承認されるのはもちろんその行為を行ったBさん自身である。という事は射精《利己的欲求の表面的な発露》をせずに、一見すると性器に施錠をしてまで利己的にならないようAV女優だけのために《徹頭徹尾利他的に》献身的なピストン運動をしてきたBさんのsexする動機は結局の所、射精とは違った形での満足、すなわち他者の承認による満足から来るものだったのである。私はこれを、自らの真の欲求を抑圧及び隠蔽しているという意味で『他人の体を借りた、別の形でのonanie』だと申しているのである。もちろん射精はしないので本来のonanieとは異なるわけだが、施錠をしているという点に潔くないというか、ある種の卑しさを視聴者は感じてしまうのだ。これが美意識の問題である。
 ここからが重要である。というのも一番の問題はBさんが厳密な意味で自分と他人の欲求の区別がついていないという点である。自らも勃起(自己を承認して欲しいという欲求や自らの快感に対する欲求)しているし、AV女優の承認が本来的な無意識レベルでの欲求であるのにもかかわらずAV女優に行うピストン運動は他者だけのためにある行為であると誤認している、もしくは真の欲求を抑圧しているため、いわば他者を自己と同化して認識しているのだ。ここには相互的な方向性ではなく一方的な力が作用している。
 Aさん、つまりsex的ボランティアの行うsexは相手も気持ち良くして自分も気持ち良くするというものであるため、矢印は相互的なものとなり、“対話”的であるのに対して、onanie的ボランティアであるBさんのsexの矢印は一方向的なものとなるため“モノローグ”的だと言える。まとめるなら、sex的ボランティア=Aさん=対話ベースのコミュニケーション、一方はonanie的ボランティア=Bさん=モノローグベースのコミュニケーションとなる。
 そろそろsexという比喩から離れよう。実際の様々な行為に置き換えても、対話ベースとモノローグベースの行為には大きな差異が生じる。わかりやすく自然保護運動の例を使ってみよう。その自然保護の主張がonanieであるか否かを分けるのは『私達の利益にもなるからこそ、環境や動物を守る。それが仮に人間中心的なものであり、時にそれが生態系の破壊になる保全や保護になるとしても、極力バランスが良くなるような道を試行錯誤で模索していくべきだ』というような『人間と自然』という対話べースの視点や認識を通した主張であるかどうかにかかってくるだろう。onanie的な自然保護の主張は人間という存在を考慮に入れない、もしくは抑圧して自然保護を高らかに謳歌する。何故か?それは利己的である事を隠蔽したほうが他者の承認を得やすいし美談になるからだ。本当は自分達のためでもあるのにも関わらず、そこに目を瞑るからモノローグ的な主張になる。それは対話ベースではないので独善的な価値基準の下での(必ずしも生態系にすら良き影響をもたらさないような)行為となりやすく、(利他的な仮面をした)美談になりやすい行為をするため何処か空回りな、滑稽で、卑しいonanie(中国の山間部におけるペンキで緑化運動等)に終わる事が多い。そういうonanie的な行為がボランティア活動においては押し付けがましいものに変わったり、日常においては適度な距離感を失う幼稚な人間関係に変わったりする。広い意味で、真に他者のために行動するためには徹底的に自己と他者の差異を認識したうえで、利他的行為が利己的欲求の基に成り立っている事を自覚しなければならない。そういう意味で、ボランティアのような活動において『onanie(モノローグ)ではなくsex(対話)をしろ』という事を言いたいのだ。マザー・テレサの与えた行為がいかに一般的な俗的美談になろうとも空回りしていない理由は、『この世で最大の不幸は“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。』というマザーテレサのこの言葉からもわかるように、彼女が利他的行為が利己的動機に基いているという事を深く認識していたためであろう。20世紀の利他的行為の代名詞となった彼女のような人物が利他的行為の背景として自分が他者や神の承認を得る必要があったという事を自覚していたというのは何とも示唆的ではないだろうか。“相手を気持ちよくさせる”というだけの抑圧的な主張、それに対して“相手も気持ち良くして自分も気持ち良くなる”という、悪く言えば、利己的動機の開き直り、良く言えば潔いと取れる主張。私が提唱している立場は言うまでもないだろう。あなたの立場はどちらの立場に近いだろうか?この文章をネタorベタとして捉えるかどうかは読む方の度量に任せるとして、私は今せっせとキボードを叩くのである。カタカタ。

※以前、地元の友人と飲んだ時にonanieとsexというこの二項対立の概念を使ってボランティアを始めとして、愛や人間の良心等に関する自論を説明したのだが、この悩ましい二項対立ゆえにか誤解や曲解をされて当人の文章に引用されていたので注釈的説明となったら幸いです。それと意図的であるのか否かは別として、受け売りである事を明示しないだけではなく正確に引用しない(しかも俺が利用していないmixiにおいて) のは不愉快であるのでやめていただきたい。自身のフェアネスが問われると思うよ。

粉より団子

2007-02-18 01:32:09 | Weblog
 初めてうどんを麺から作りましたよ。箒で。何故かというと、うどん作り当日に麺棒を買う予定だったのですが、何処にも売っておらず、仕方が無く100円ショップで代用品を買う事に。麺棒の代わりになりそうなものをピックアップしていったところ、有力なものが①鎌の木製の柄の部分。②箒のプラスチック製の柄の部分。うどん作りの際に使う麺棒は通常木製なので鎌の柄の部分は長さといい、木の質感といい麺棒の資質を多分に備えているものだったのですが、刃の部分がうどんを引き伸ばす時に回転するため、命懸けでうどん作りをするリスクを考えると泣く泣く消去法的に②の箒を選択せざるをえなかったのです。こうして本来掃除道具であるはずの箒は自らのアフォーダンスを大いに私達に示す結果となったのですが、完成したうどんの味見をしてみると、何故か二人の言葉がでない。しばしの空白を置いた後に『おいしいね・・』。何故か冷や汗が垂れる。麺は一応三人前作り、当日に二人分を食べ、残りの一人分は等分して互いが持ち帰る予定だったのですが、サランラップに彼女の分の麺を包んでる時に彼女が一言『いや、持ち帰って・・』。結果的には半ば強制的に等分して置いてきたのですが、相手の家族の食後の感想

                                     『粉っぽい』
泣けた。箒に。

《今日のお薦め》  

少年少女 福島聡(著)  
 黒田硫黄や浅野いにおが好きな人ならおそらく気に入るはずの漫画。ただし、少年少女以外の福島作品はあまり面白くない。

ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか

2007-02-13 01:20:28 | Weblog
 ティプトリーの小説を夜中に読む。まだ我が目で見ぬ地球の外側に想いだけは馳せながら、体は日本という小さな島国の、其の又小さな東京の一地域である、“東久留米”という街の地酒を吸収する。もっとも、地酒なのに東村山市産。それが久留米人クオリティ。 
 21世紀を生きる私達の“生”の実感はほとんど<社会>という閉じたシステムの中にある。原始的共同体においては、アニミズムやトーテミズムに見られるように、動物だろうが森だろうが死者だろうが、<世界>のあらゆるものがコミュニケーション可能なものとして体験されていたわけだが、主に言語の発達により<社会>が複雑になると、コミュニケーション可能なものとコミュニケーション不可能なものとが区別されるようになり、<世界>から<社会>が乖離するようになった。それゆえ<世界>が<社会>の外側に位置するようになり、近代人は<社会>という閉じたシステムで“生”を構築し、<世界>と接し難い存在となってしまった。
 <世界>とはもちろんあらゆる全体の事である。だが誰しも幼い頃、この問いにぶつかったに違いない。『<世界>はなんであんのよ?』『この<世界>の外側って何よ?』。高校の時も飲み会中にこの話になって皆が異常に“何か”を恐れた覚えがある。そうだ、確か石神井公園の“スマイリージョウ”という胡散臭い焼き鳥屋だった。小学校の時のホワイトデーに嫌いだった子に“意思”ならぬ“石”を丁寧に包装紙に包んでプレゼントするという今となっては駄洒落にもならない暴挙に出たように幼い頃から神をも恐れぬ少年であったが、この“スマイリージョウ”では<世界>の外側という事柄に鳥肌が立つほど戦慄したものだった。
 だが、『<世界>は何故あるの?』『この<世界>の外側って何よ?』という問いは答えを突き詰めると必ずパラドクスに陥る。何故なら、創世の神は<世界>のどこにいるのかと考えた時、<世界>の中にいたら<世界>を創れない。とはいえ外にいたら、ありとあらゆる全体が<世界>だという定義に反し、また<世界>の外に事物を人は認識できないので、神の概念は宙に浮いてしまうのだ。
 もっとも、あの焼き鳥屋で<世界>の外側に戦慄した少年itu君の悩みは、数年後にゲーデルの不完全性定理と出会う事により無矛盾な形式論理で<世界>は完全に覆えない事に気付き解決する。要するに“<世界>は規定不可能なのだ”と。
 だが、そういった<世界>の本源的未規定性ゆえに、自己完結した<社会>の中に不意に名状しがたい<世界>が閲入する時がある。それは特定宗教の装置的機能を持った説明原理としての“神”如き存在とは異なる意味での<世界>だ。その<世界>を感じた時、<社会>の外が突如可視的となり、同時に、<世界>の中にたまさか<社会>があるに過ぎないという事が露になる。
 もうすぐ、桜が咲く。それらが芽吹くのを少し覗いてみるだけでも、おそらく<世界>は少し顔を見せてくれるに違いない。そして、そういった時にこそ<世界>の外側等という大袈裟なものではなく、生物学者レイチェル・カーソンが言う“sense of wonder”のように<世界>そのものの断片々々が奇跡的だという事に気付いて驚嘆せざるをえないのだ。

《今日のお薦め》 
センス・オブ・ワンダー    Rachel L. Carson (原著), 上遠 恵子 (翻訳)

無音の世界

2006-12-30 07:44:25 | Weblog
 ゴーストタウン化したチェルノブイリを撮影したものを載せている比較的有名なサイトですが一応目を通しておいたほうが良いかもしれません。

http://www.geocities.jp/elena_ride/

自覚せよ

2006-06-26 02:11:32 | Weblog
 コンプ野郎に喝   

《今日のお薦め》
 
内省と遡行  柄谷行人(著)  
 ドイツサポーターはスウェーデンに勝って路上で喜んでただけなのにイングランドのフーリガンに写真のように殴られましたが、柄谷のおっさんも彼等に負けないくらい理不尽です。

sense of place and out of place or ...   

2006-06-08 03:17:43 | Weblog
“場所”というのは自分にとって、ひとつの大きなテーマになっている。ここでの“場所”というのは単純に物理的な意味でもあるし、共同体、スタイル、自分等といった一種の“場所”の事でもある。これらの場所に対して私達はどのような帰属意識や距離感覚を築くべきなのだろうか。もちろんこれを考えるにあたって、タイトルにある《sense of placeとout of place》のような二元論では片付けられない。なぜならその“場所”の種類によって私達の心的な態度は異なるためだ。国家に対して帰属意識を強く持つ者が自己に対しても同じような帰属意識を示すとは限らないように、様々なレヴェルにおける“場所”に対する私達の感覚は一様ではない。また、ある特定の“場所”においても、それに対する感覚の有無を単純に<YES/NO>の図式で分ける事もできないだろう。その“場所”に対して帰属意識を抱いていないわけではないが、微少にしかそういったものを抱けなかったり、あるいは次第に帰属意識が増していく場合があるように、グラデーション状に意識が変化してゆく事も考えられる。また、強い帰属意識を持っているにも拘らず、ある側面には違和感を覚える事があるように、一つの場所の中で私達の意識は葛藤する。
 タイトルにある“sense of place”。これは映画監督ヴィム・ヴェンダースの来日記念講演の題目である。そして“out of place”。これはオリエンタリズムという主著で知られるE.W.サイードの自伝『遠い場所の記憶』の原題となったものである。“場所の感覚”と“場所の外”。対照的な両者の主張をまず整理してみたい。

《ヴィム・ヴェンダースの主張する “sense of place”》
  
 ヴェンダースの作品の撮り方やタイトル(“ベルリンの天使の詩”、“パリ、テキサス”、“リスボン物語”等)が特定の地名を含んだものが多い事からもわかるように、彼にとっての“場所”は特別な位置を占めている。
 彼の主張を要約するとこうなる。『ハリウッド映画を主流とする現代映画は物語中心の構成であり、場所やキャラクターは二義的な意味しか持たないものに貶められた。そういった状況においては何処で撮っても、誰が撮っても、誰を役者に使っても同じような映画が出来てしまう。それらは実体験の喪失と交換可能な映像の横溢を招いた。もし私達がそういった視覚文化の消費化に抗おうとするのならば、想像力や自尊心の源泉となっている“場所の感覚”の重要性を再認識すべきではないだろうか。』
 ハリウッド映画に対する彼の批判にはひどく共感できる。それらの物語は使い古され、ほとんど紋切り型でしかありえなくなっている。細部が異なるだけで、何回も何十回も同じ物語が再生産されているのだ。また、映画の撮影法に限らず彼の主張するような場所における内在的なあり方は、アイデンティティを保障する。例えば一つの“自分”という場所、“国家”という場所、“文体”という場所に内在している感覚。
 彼は講演の最後をこう締めくくった。
“場所が私達に帰属するのではなく私達が場所に帰属する事。それこそが大事なのではないだろうか” 

《E.W.サイードにおける“out of place”》
 
 サイードはエグザイル(故国喪失)を肯定的に捉える。

“エグザイルは知っている。世俗の偶発世界では故郷=家庭は一時的なものであることを。境界や障壁は慣れ親しんだ領域という安全圏にわたしたちを閉じ込めるものであったが、牢獄にもなりうるし、しばしば理由や必然性などおかまいなしに、守り通さねばならないものとなる。エグザイルは境界を横断する。思考と経験との壁を壊す。”<E.W.サイード著 故国喪失についての省察より>

 エグザイル的な在り方。すなわち、ある場所から外に出る外在的な在り方は、特定の場所に対する俯瞰的な見方を可能にする。サイードがここで述べてるのは主にナショナリズムの文脈での事だが、ナショナリズム的に帰属意識が過剰になる場所は何も国家に対してだけではない。それは自分自身やその他の事柄に対しても言えるのではないか。例えば先に述べた“アイデンティティ”や“宗教”や“言語”。そのような特定の“場所”から外に出る事で新たな可能性が見えてくるのも確かである。それらは自己の生きる世界の自明性を解体するという作用がある。サイードはある本でこうとも述べている。

“あるべきところから外れ、さ迷い続けるのがよい。決して本拠地など持たず、どのような場所にあっても自分の住まいにいるような気持ちは持ちすぎないほうがよいのだ”


《sense of place and out of place or...》

 前者が、ある“場所”における内在的な生き方であり、後者がその“場所”に対する外在的な生き方だ。これはあくまで便宜的な分け方であって、最初に述べたように<YES/NO>はっきり区別できる問題ではない。もちろん“場所”の種類によってもスタンスが異なるだろう。だが、あくまで私見を述べさせてもらうならば、あらゆる内在的な在り方は幸福であるか不幸であるのかは別にしてサイードの言うように“牢獄”なのではないだろうか。そこにはおそらく窓すらない。他の価値基準が犇く外界の素晴らしさはおろか、自己の基準からでしかその場所を理解する事ができない。そして、そういった在り方に必ず付いてまわるのが“排他性”なのだ。そこでは外界に開かれた他者性を感受しようとすらしない感性が養われる。では、外在的な生き方が素晴しいと言えるのだろうか。場所の外に出る事は自己の世界の自明性を解体する事で、元居た世界すらも異なる見方で見る事を可能とする。それゆえ生を解放し豊饒化すると言える。しかし、その生き方は“根無し草”の状態であるため、常に自己解体の危険を孕んでいる。そうであるならばout of placeすらも乗り越える必要があるのではないだろうか。外在的な在り方は、ある意味では自由であるが、自己や共同体の連続性が基盤となっている人間の存在の確かさのようなものが失われてしまうかもしれない。だからこそ内在的な在り方が再度必要となる。しかし、そこでの内在的な在り方とは外在的な在り方を通過する前の内在的な在り方とは全く異なる。なぜなら外の世界に出る事で今まで居た場所の意味もまた変わるからだ。つまり、内在的な生き方を外在的な生き方で超えて、さらにまたカッコつきの《内在的な在り方》で戻ることで、根を持ちながらも排他性を超え、他者性に開かれた、“生“がたち現われてくるのではないだろうか。

おめでとうございます。

2006-04-26 01:29:21 | Weblog
 自分は中学生時にサッカーのクラブチームに所属していたのですが、その頃のチームメイトが、今度めでたく結婚するらしいです。しかも、嫁さんは妊娠中らしくダブルおめでた。話を聞いた時は本当にびっくりしました。
 ちなみに彼は、ガチャピンに似ていると昔は評判だったのですが、嫁さんのDNA次第では“リアルポンキッキーズ”が可能となるはずです。しかし、もし仮に二人のガチャピンがこの世に存在するのならば、もはやリアルではなく、ある意味“メタポンキッキーズ”って事にもなるのでしょうか。(←全然なりませんね。ごめんなさい。言葉の響きが気に入ってしまっただけです。)是非そちらの方も検討していただきたいところです。
 というのは悪い冗談で、本当におめでとうございます。心より今後の御幸せをお祈りしております。また二人の間に生まれてくる新しい命にも沢山の幸が訪れますように。

《今日のお薦め》
ベンヤミンの生涯  近年社会学の分野でも再評価が高まりつつあるベンヤミンですが、これまた例の平凡社ライブラリーから。絶版になってますが、言ってもらえば貸します。

ヴィム・ヴェンダース来日真近

2006-04-24 23:52:40 | Weblog
 もう少しで来日しますねヴィム・ヴェンダース。5月2日に池袋の新文芸座で行われるヴェンダース特集のオールナイトチケットを何とか今日入手しました。残りのチケット数は10枚以下だとか・・。行きたい人はお早めに。彼には中々会えないと思います。当日は大好きな『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を始めとする、『パリ、テキサス』、そしてまだ見たことがない『ランド・オブ・プレンティ』も上映されます。もちろん監督自身のトークショーもあるようなので、今から凄い楽しみです。ヴェンダース監督の日本好き、というか小津安二郎好きはかなり有名で、笠智衆や小津に縁のあるスタッフにインタビューしたり、煩雑な現代の都市としての東京を、過去の長閑な東京と比べるという、いかにも外国人的でノスタルジックな見方で撮った映像を『東京画』という作品で展開していますが、海外での小津評価を高めたのは彼の功績もかなり大きかったと言えるのではないでしょうか。墓の中の小津安二郎も感謝の念を伝えるためにさぞこのチケットが欲しいに違いないでしょう。でも小津に頼まれても絶対あげません。なぜなら自分は小津作品に勝るとも劣らず、大ヴィムヴェンダース作品ファンでもあるからです。
 何はさておき小津作品を外国人映画監督にあそこまで大事にされると、小津安二郎の単なる一ファンである自分さえも何だか無性に嬉しくなってしまう。小津が今生きていたらどんな作品を作るんでしょうかねぇ。ちなみに明日の新文芸座の上映スケジュールは小津の『お茶漬けの味』と『麦秋』だそうですよ。

《今日のお薦め》
ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出  ノーマン・マルコム(著)

 ちくま学芸文庫についで、良書が多いのがこの平凡社ライブラリー。平凡とか言っておきながらラインナップが全然平凡じゃない。むしろハードコア。岩波も古典は充実してますが、この類の本を出版できないのが岩波の弱点。これはウィトゲンシュタインの弟子であるノーマン・マルコムによって書かれたウィトゲンシュタインの伝記みたいなものです。文体もやわらかくスラスラ読めるので、あまり馴染みのない人に是非ともお薦めしたい一冊です。

映画人気質

2006-04-22 19:05:22 | Weblog
 今年も大学の映画の授業に山田洋次が来た。相変わらず五月蝿いおっさんである。寅さんの台詞みたいな事はさすがに言わないが、やっぱり渥美清演じる寅次郎はこの人の頭の中から出てきたキャラクターなんだなぁと実感。その何ともいえない古風なユーモアを交えた話し方に寅次郎の姿が見えたような気がした。まだ山田洋次本人とは直に会った事は二回しかないのに、昔からの知り合いであるかのような錯覚を覚えたのは、幼い頃から山田映画に幾度となく触れてきた事とおそらく無縁ではない。
 そんな彼がこの日使った教材は『ローマの休日』。映画を解釈する時の主観的な強引さにやや抵抗を覚えたものの、ワンカットずつ丹念に解説していく姿に職人気質が色濃く出ていて感心させられた。彼曰く『フェリー二のような天才的な映画監督が作る芸術作品を製作する才能は僕にはない。』との事。確かにヒッチコックやフェリー二のような繊細なカットで魅せる技術や発想は彼の話を聞く分にも出てこないような気がした(ヒッチコックの『ロープ』は1カットが長いので10ミニッツムービーと呼ばれるが)。では、戦後日本の映画界を支えてきた彼の作品の何が多くの日本人の心を捉えたのだろう。それは大衆性に裏打ちされた“平均的な感動”を呼び起こすことができるという才能を彼が豊かに備えていたからであると思う。要するに良い意味で平凡なのだ。平凡というと聞こえが悪いかもしれない。しかし自分が言いたいのはそのような悪い意味での平凡ではない。
 自分が大好きな小津安二郎も小栗康平もある観点から言えば極めて“平凡”な作品を作る映画監督だ。では彼らの平凡と悪しき平凡を隔てる境界は何であるのか。それは平凡の“仮面”をしているか否かにあるのではないだろうか。小津映画なんかを見てみればわかる。ストーリーは単調で何か大きな事件があるわけでもない。しかし、動かないカメラ、その構図、カットのタイミング等、それら全てが実は恐ろしく周到に用意されたものであると分かった瞬間にその平凡な仮面のうちにある小津安二郎の微笑が浮かんでくるのだ。
 彼らは表面的に“奇を衒う”のではなく、見るものを意図的に平均的な方向に誘導する技術に長けている。その表面的な平凡さのなかに、あたかも罠を設置するかのように製作者の本意を忍ばせるのだ。それらは見るものにこう小さな声で語りかけてくる。『わかってくれなくてもいいんだぜ。あひゃひゃ。君の最初に感じた通りに解釈すればいいじゃないか』。
 山田洋次の作品は小津や小栗に比べると確かにややストレートな感がある。だが、この日会って感じたのは、ほっとするような人情映画を作る温厚な人柄というより、言葉には出さずとも自分の限定的な才能を極めて熟知した上で計算的に、確信犯的に平凡なプロットを採用しようとしてきた山田洋次のもうひとつの顔だ。 
 やはり一流の映画監督は観客をうまく誘導する才能を持っている。それは“仮面”という名の映画人気質であり、また、それをカッコつきの“ユーモア”と呼ばずして何と呼ぼう。

《今日のお薦め》
定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー 山田宏一・蓮實重彦(訳)

 値段は多少高めですので、図書館等にあったら是非手にとってみてください。ここまで詳細にヒッチコックの技法について学べる本は稀有です。そしてヒッチコックにインタビューするのはゴダールと共にヌーヴェル・ヴァーグの旗手であるトリュフォー!しかも訳者が『友よ・映画よ』という名著で知られる山田宏一、そして東大元総長の蓮實重彦という何とも豪華な顔ぶれ。もちろん中身も超一級品。映画製作に興味がある方は必読です。

天魔、外道それによりて障碍を“なさず”

2006-04-07 15:29:05 | Weblog
  皆様いかがお過ごしでしょうか。ご無沙汰しております。というか相当更新をサボってました。 三月は正に悠々自適の生活を満喫していたわけですが、気がつけばもう四月で桜も散りかけてますね。この時期は花粉症の症状が酷いため、例年はインドアでの自堕落生活に拍車が掛かるのですが、幸い今年は殆ど症状が出ていません。以前春が嫌いだった理由というのは、テニスに勤しむ爽やか青年の笑顔からキラリと見える白い歯のような、ともすれば不快に見えるほどの爽快さが好きになれなかったというのもあるのですが、その大部分の要因を占めていたのはおそらく“花粉が多い”という事だったと思います。と言うより間違いなくそれに尽きるのでしょう。そんな自分だったためか、花粉の少ない今年は都合良く春の心地良い陽光の下で快哉を叫んでいるわけです。
 ところで沖縄へ行った時に思った事ですが、やはり温暖な気候というのは人に対して明朗な要素を与えるように思いました。それは民謡に色濃く出ていて、『これは北海道みたいな雪国では絶対生まれない音楽だなぁ』と沖縄民謡を聴いた時、そう率直に感じました。もちろん一概に温暖な気候=明るい音楽だとは全く思いませんが、音から伝わってくるものが以前、北海道に住んでる時に聴いたアイヌ民謡のコンサートで耳にしたものとは全く異質のモノであったのです。個人的な印象からするとアイヌの民謡に“強さ”と“哀愁”が聞き取れるのに対して、沖縄の民謡には先程述べた“明朗さ”、そしてアイヌのそれとはニュアンスの異なる“暖かい哀愁”とでも言うべきような、ある種矛盾した要素を感じました。どちらの民族も“本土”から一線を画され、さらには淘汰されてきた民族なだけに哀切きわまる歴史が深い“染み”として民族の文化に影を落としているという共通点があるのは確かですが、やはり沖縄の音には、そういった“染み”を融解させてしまうほどの明朗さを聞き取れました。それが単に気候の温暖さに起因するものかどうかは自分には分かりかねますが、沖縄の朗らかな陽気に触れて、その一因に成っていると直感的に感じたのです。
 文化と同じように風土もまた人格形成に影響力を持つのだから、その人格の創作物である音楽にもまた影響が及ぶのは当たり前であるはずなのに、そういう認識が何故か最近は鈍っていたように思います。それは、この“東京”という街からあまり外に出なかったせいなのかもしれません。今回の旅行では、旅という非日常的な経験は、異なる文化や伝統を持つ地域の人々や自然と文字通り触れ合う事で、普段忘れていた当たり前の事が現前する一種のショック療法であるという事を教えられたような気がしました。

《今日のお薦め》
エレンディラ  ガルシア=マルケス(著) ノーベル賞作家による大人のための残酷な童話。名状し難い気分に襲われます 笑 お薦めと言っておきながらなんですが、明快なプロットが好きな方にはとてもお薦めできません。 

鬼 

2006-03-03 00:27:58 | Weblog
 最近見てませんねぇ

《今日のお薦め》
ヴェーユの哲学講義  女子高でヴェーユが行った講義を収録した本です。心理学の基礎的な事から、国家、身体などに対しても考察しているかなり『ため』になる一冊。

ある意味オーガズム

2006-02-12 17:24:32 | Weblog
 逝ってらっしゃい。


《今日のお薦め》
音楽  三島由紀夫(著)
 

良い夜明けじゃったわい

2006-02-11 08:07:35 | Weblog
 と笠智衆が言っております。

《今日のお薦め》
ビゴーが見た日本人  去年の夏に横浜美術館に行った時にこの人が書いた諷刺画を生で見たのですが独特のタッチで、見てるとニンマリしてしまう。岩波文庫からも素描集が出てると思うので興味がある方はそちらもどうぞ。

a kind of report

2006-02-10 07:29:28 | Weblog
  ちょっと待て。冷静に考えて、なんでこんな字数を掛けてブログを書いてるんだよと自分でツッコミを入れてしまった。前日のなんてレポートに匹敵するかのような字数だ。2000字書くのに約一時間を要するからとんでもない労力である。一度文章を書くと切りどころに困る場合がある。でも一つの文章に色々な要素を散りばめようとすると大抵失敗する。どこかのエッセイストが一つのエッセイで言いたい事は一つで終わらしたほうが良いと言ってたが、自分も経験的に学んだ。やっぱり何でも潮時というのがあるものだ。

《今日のお薦め》
さようならギャングたち  高橋源一郎(著)

 超有名な一冊ですが、小学校の頃のマトモな読書は兄貴に強制的に読まされたこの一冊から始まったと言っても過言ではないので記念碑的一冊として。もっとも、この本がマトモであるのかと改めて考えると・・。というよりこんなもん小学生に読ませるな馬鹿タレ!当時は無邪気に読み進めていました。