偶有性をどう捉えるか

2006-02-06 03:08:37 | Weblog
 宗教問題を考えるには、やっぱりコンティンジェンシー(偶有性、不確定性)が問題の核になる。今日は社会学的観点からそれを考えていきたい。宗教問題に関心のない人及び、特定の宗教の信仰がある人はスルーする事をお薦めします。
 社会学は『異なる人々がどうして互いにコミュニケーションを行う事ができるのか』という問題を出発点にする。社会学者達はこの問題を軸に自らの理論体系を構築しようとしたし、それはまた『社会秩序はいかにして可能なのか』という問題を考える事にも繋がる。社会的な場で何かを行為しようとすれば、自分の行為の選択は他人の行為の選択に依存し、同じように他人の行為の選択も自分の行為の選択に依存する。つまり、相互行為は不安定な状態にあると言える。
 これらの相互行為の不安定さに加え、個別の行為においても、現在行われている行為は、選択の結果であり、一般的に言って、選択は絶対的な必然性に基いて行われるわけじゃない。つまり、ある選択が行われた背後には、それと同様に選択可能であった、他の選択の可能性がつねに存在するのである。現実の選択とは異なる他の選択もまた可能であったのだ。ちなみにここで重要になってくるのがcomlexity(複雑性)という概念である。これはあるシステムにおいて多様な関係が可能であるという事実を指す概念だ。ここが宗教問題に大きく関わる。というのも、相互行為の場面において、過度の複雑性を前にすると、人々は行為の選択不能の状態に陥る。無限の選択肢を前にしては、行動の決定が不可能になってしまい広い意味での“不安”が人々を襲う。したがって人々の社会生活、コミュニケーションが可能であるためには過度の複雑性をなんらかのかたちで回避し、選択を制限しなければならない。
 宗教のようなあるシステムはこのような過度の複雑性を回避するために、複雑性を縮減する。これはもちろん裏をかえして言えば、環境にはシステム内部より以上の複雑性が存在するという事なのだが、宗教はある特定の行為に“意味”を与えることによって、実現可能な多様な選択肢のうちから選択を行う事を可能にする。例えば、自由意志を否定したキリスト教の“予定説”、もしくはある宗教での“真理”、“教義”なんてのも同じ働きをする。要するに、本来規定不可能なものを規定可能なものに変換する機能が宗教にはあるのだ。これがいわゆる宗教の一つの機能だろう。ある事柄を真理と規定する事で人々は“思考を介さず”善悪の判断を下す事ができる。真理や道徳のように絶対化されているものがいかに社会的に形成されたかを歴史的にたどろうとしたのがニーチェやフーコーだ。彼らについての詳しい説明は別の機会に譲るが、簡単に言うと真理や道徳とはこの世の複雑性を単純化して人々に掲示するための装置なのだ。
 もちろんこれには良い面、悪い面がある。ここに宗教の存在価値も欺瞞も集約されていると言っていいかもしれない。良い面はおそらく、ある共同体に秩序を与える事ができる面だろう。そしてそのシステム内では“意味”が限定されているため、人々に安心を与える。だって何が“良い”生き方か決められているんだから、自分で考える必要ないもの。悪い面も色々あるが、その最たるものがいわゆる宗教戦争に見るような、単純化から起きる自らのシステムの極度の絶対化だろう。もちろんナチのホロコーストもその類。ある価値が固定的になってるため、その他の価値観はその共同体では排除される。本来何が正しいというのは自明の理ではないのにもかかわらず。環境保護の胡散臭さも同じ理由からくる。つまり環境とは人間にとって都合が良い環境保護なわけで他の生物の立場からすれば虐殺にも生態系の破壊にもなりうるのだ。
 偶有性が排除される事で起こる、ある種のわかりやすさに安住するのか、それとも偶有性に憑いて回る広い意味での“不安”に耐えながら“生”に何かを見出そうとするのか。これが宗教に与するか否かの境目だろう。皮肉に聞こえるかもしれないが、勿論どっちが良いって言ってるわけじゃない。でも自分には、自らの価値観が絶対的に正しいと思い込んでる方々と議論する準備は無い。そういった議論は往々にして無意味に終わるからだ・・。うっぷ

《今日のお薦め》
市民ケーン 監督: オーソン・ウェルズ
 
 世界の映画監督が選ぶ20世紀ナンバー1にランクインされた映画です。一回くらい見てみるのもいいんじゃないでしょうかね。