感じた事があるのではないだろうか。例えば小学校の頃の学芸会。与えられた役を演じる事、役になりきる事によって自分が他者性を帯びていく。そこには何故か快感が伴う。その役になりきればなりきるほど、自分の喋り方、動作、表情、その全てが普段の自分とは全く異なる存在になっていくような錯覚を覚えるからだ。それは鎖に繋がれた『自分』という存在から解放されている事を意味しているからかもしれない。ほんのひと時だとしても。
styleという英語は多義的だ。それは“様式”や“文体”、あるいは“個性”といった意味を持っている。『スタイルが良い』という時に使う日本語的な“体型”といった意味は本来無い。“様式”、“文体”、“個性”。いずれにしてもそういったものは全て経験的に蓄積されたものを事後的にそういった名称で呼んでいるにすぎない。もちろん生まれたての赤子はスタイルを持っていない。
『自分』。これもスタイルみたいなものだ。身体レベルの習慣、意識レベルの習慣。そういった反復や蓄積によって出来たグジャグジャなもの中から選びとった平均値みたいなものを私達は『自分』と呼ぶ。そういった『自分』をどのような存在かと問われたら、みんな一様にしたり顔で『これが俺/私の個性だ』と特徴を列挙していく。言葉で。貧困な言葉で。
文章を書いてるといつも感じてしまう。自分の文体によって与えてしまう特定のイメージに対する違和感を。それは自分の文体が与える特定のイメージから逃れたいというより、自分の文体に“飽きる”からなのかもしれない。
他者に『自分』を晒す事。つまり社会的な生活を営むという事は『自分』を言葉で他者に捕まえさせる事だ。普段の行動や会話でそういった『自分』という名のスタイルは他者の記憶に蓄積される。その蓄積によって出来たイメージを私達はその人の特性として言葉で理解する。理解される側も他者が抱く『自分』に対するイメージによって行動が限定される。社会生活は各成員に一貫した主体を要求するからだ。いや正確に言うと一貫しているように“見える”主体を要求する。
私達はそういったものから時々自由になりたくなる。社会から、あるいは自ら解釈する事で雁字搦めにしてきた『自分』にうんざりして。だから人は演技をする。日常においても。もちろんどれが本物でどれが演技かといった区別はあくまで便宜的なもので馬鹿げているのだけれども。
演技と言うと悪い印象を与えるかもしれない。でもこれを読んでいるあなたも『自分』を日々演じている。もちろん、世間でいう『成長』や『成熟』と言ったものだってそれに類するものだ。それらは一種のスタイルの崩壊であり、新しい意識や身体の習慣がスタンダードになったという事だ。だから特定の『自分』に囚われすぎるような人は成長を遂げられない。一時期流行った、くだらない『自分探し』とか言ってないで、いいかげん目を覚ましたらどうだろう。特に十代の人達。
そろそろ以前から書くと言ってた“アイデンティティ”と“自分探し”に関して本格的に書こうと思うが如何せん試験中で時間がない。以前書いたものをここにアップしても多分さらにわかりにくい。もうちょっとわかりやすく書いたものを2月までに書けたらと思う・・・。いずれにしても今日の話の延長線上にあるわけだが。今日はそれのためのプロローグと解釈してもらえたら・・・。まぁ乞う御期待という事で今日は失敬致す。
《今日のお薦め》
記号と事件 ジル ドゥルーズ (著)
ドゥルーズ、フーコー、デリダ。そこら辺に興味ある哲学好きな方への入門書としてどうでしょうか。