ちょっとHな隠喩的ボランティア論

2007-03-23 23:32:56 | Weblog
 自論において、いわゆるボランティア活動には大雑把に分けて二種類ある。比喩を使うならonanie的ボランティアとsex的ボランティア。前者はボランティアを徹頭徹尾利他的な行為だと主張するタイプで、無償の愛や優しさを提唱するタイプ。後者は利己的な欲求を認識したうえで利他的行為をして他人が幸せである事が自分も幸せであると感じるタイプ。もちろん前者も後者も結果的にはボランティア活動を通す事で他者にプラスの要素を与えているという意味で、見かけ状は変わらないように見える。
 しかし、である。ここからは美意識の問題にも関わってくるのだが、見かけ状は変わらない二つのタイプのボランティアは結果的には大きな差異を持つようになる、というのが私の自論である。
 sex的ボランティアは自分の利己的な欲求、すなわち自尊心や快楽そして他者の評価等、に自覚的に行為する。一方、onanie的ボランティアはボランティア活動を純然たる他者だけのためであって、自分の利害には関係無いと主張する事で利己的欲求を抑圧してしまうという陥穽に嵌りやすい。これをsexとonanieという性的行為の本来の意味からわかりやすく、AV男優とAV女優、そして視聴者という比喩を使って説明していこう。ここではもちろんAV男優がボランティアでAV女優がボランティア活動を被る側の人間(老人ホームの老人、病人etc)である。そして視聴者とはボランティア活動を見る第三者のことだが、今は便宜的に私であるとしておこう。ここでのAV男優はさっき見たように二つの立場がありえる。つまりsex的ボランティアとonanie的ボランティアである。もちろんsexとonanieという本来の語彙の意味とはやや異なり、両者ともAV女優と絡んでいるという意味において、sexしているという点で一致しているのに注意してもらいたい。確かに両者はAV女優とHをしているわけだが、両者のHの仕方は大きく異なる。一方は女優を逝かす事で自らも満足し自らも逝く、もう一方は自分の快楽を考えず相手を逝かす事だけを考える、というわけだ。前者がsex的ボランティアのメタファーである事はすぐにわかるであろうが、後者がonanie的ボランティアであるというとこれを読んでいる人は首を傾げるかもしれない。何故後者がonanie的であるのか今から説明しよう。
 その前にまずこの事を述べておかなければならない。人間は100%の純度で利他的に行為する事は不可能である。もちろん、その純度が極めて高い利他的行為も存在するのは確かである。マザー・テレサの例を挙げるまでもなく、身近な例で言えば私達が人を愛する事で“己”が希薄となり相手に施しをせずにはいられないように、一見すると利己的欲求から離れているように見える純度の高い利他的行為というのもあるものだ。だがその利他的の純度というと決して100%というわけではない。そもそもその人間が“生きている”という厳然とした生物学的事実が100%ピュアな利他的行為を不可能にしている。というのも“利他的な行為”という概念自体がその行為を行う主体を前提にしているため、自己と他者の区別がつかない自他未分化の状態においては厳密な意味での利己も利他もないわけだ。そうであるならば、他人の利益のために行動するにはその主体の生命が無ければ何かを行為する事すらできないだろう。人間が何かの行為を行う時には意識的であれ、無意識的であれなんらかの原因がある。普段私達がニューロンの発火を意識して夢を見るわけではないように、必ずしも何かを行為する時にその原因や動機が本人でさえ正確にわかるわけではない。もう一度繰り返そう。人間が何かを行為する時には、何かしらの原因がある。
 そこで話をさっきのAV男優とAV女優、そして視聴者の話に戻そう。思い出してもらいたい。比喩とはいえ、AV男優には2種類あると先ほど述べた。sex的ボランティアとonanie的ボランティアである。復習をするならば、sex的ボランティアが利己的な欲求を認識したうえで利他的行為をして他人が幸せである事が自分も幸せであると感じるタイプ。これは自分の利他的行為が利己的な動機に基いていると自覚しているタイプだと言えよう。一方、onanie的ボランティアはボランティアを徹頭徹尾利他的な行為だと主張するタイプであり、自らの利害とは関係無く、つまり自らの利益は利他的な行為をする動機とはなりえないと主張する立場である。これをAV男優を使ってもっとわかりやすくリアルな比喩で説明するとこうなる。sex的ボランティアの立場をとるAV男優は相手も気持ち良くして、こっちも気持ち良く射精したい。このタイプをAさんとしたい。一方、onanie的ボランティアの方は相手を気持ちよくするためだけにピストン運動する。ただし射精をしないように性器に施錠をかけておく。これをBさんとする。もちろん二人のAV男優はsexをしてAV女優に満足を与えているという点では共通している。絡みの後、Aさんは満足そうだ。Aさんは絡みの後のインタビューでこう言う。『いや~女優さんも逝ってくれてうれしかったし凄い気持ち良かったっすよ』。一方Bさんも絡みの後の表情は射精しなかったにもかかわらず何処か誇らしげである。絡み前と変わらず性器はまだ勃起しているようだ。『僕、チ○コに鍵かけてるじゃないですか?僕射精できないし、第一全く性欲無いんですよね~。えっ?何でAV男優になったかって?理由はありませんよ~。女優さんを逝かせればそれでいいんです。』だがその一連のそれぞれのsexをテレビ画面で見ていた視聴者はBさんのsexに何らかの違和感を感じてしまった。
 視聴者は何故Bさんのsexに違和感を感じてしまったのだろうか。検証していこう。いきなり核心に入るならば、そもそもsex《行為》は本人の勃起した性器《主体》がなければ行えない。そして何故勃起するかというと興奮した脳の命令《原因》によってである。つまり勃起するためには脳の命令という名の利己的な欲求が必要になるわけである。Bさんが勃起しているのにもかかわらず、射精もしなかったのにインタビューの質問に心底満足そうな顔で応えたのは何故か?それは女優が逝ってくれた《他者の承認》からである。当たり前だが、他者に承認されるのはもちろんその行為を行ったBさん自身である。という事は射精《利己的欲求の表面的な発露》をせずに、一見すると性器に施錠をしてまで利己的にならないようAV女優だけのために《徹頭徹尾利他的に》献身的なピストン運動をしてきたBさんのsexする動機は結局の所、射精とは違った形での満足、すなわち他者の承認による満足から来るものだったのである。私はこれを、自らの真の欲求を抑圧及び隠蔽しているという意味で『他人の体を借りた、別の形でのonanie』だと申しているのである。もちろん射精はしないので本来のonanieとは異なるわけだが、施錠をしているという点に潔くないというか、ある種の卑しさを視聴者は感じてしまうのだ。これが美意識の問題である。
 ここからが重要である。というのも一番の問題はBさんが厳密な意味で自分と他人の欲求の区別がついていないという点である。自らも勃起(自己を承認して欲しいという欲求や自らの快感に対する欲求)しているし、AV女優の承認が本来的な無意識レベルでの欲求であるのにもかかわらずAV女優に行うピストン運動は他者だけのためにある行為であると誤認している、もしくは真の欲求を抑圧しているため、いわば他者を自己と同化して認識しているのだ。ここには相互的な方向性ではなく一方的な力が作用している。
 Aさん、つまりsex的ボランティアの行うsexは相手も気持ち良くして自分も気持ち良くするというものであるため、矢印は相互的なものとなり、“対話”的であるのに対して、onanie的ボランティアであるBさんのsexの矢印は一方向的なものとなるため“モノローグ”的だと言える。まとめるなら、sex的ボランティア=Aさん=対話ベースのコミュニケーション、一方はonanie的ボランティア=Bさん=モノローグベースのコミュニケーションとなる。
 そろそろsexという比喩から離れよう。実際の様々な行為に置き換えても、対話ベースとモノローグベースの行為には大きな差異が生じる。わかりやすく自然保護運動の例を使ってみよう。その自然保護の主張がonanieであるか否かを分けるのは『私達の利益にもなるからこそ、環境や動物を守る。それが仮に人間中心的なものであり、時にそれが生態系の破壊になる保全や保護になるとしても、極力バランスが良くなるような道を試行錯誤で模索していくべきだ』というような『人間と自然』という対話べースの視点や認識を通した主張であるかどうかにかかってくるだろう。onanie的な自然保護の主張は人間という存在を考慮に入れない、もしくは抑圧して自然保護を高らかに謳歌する。何故か?それは利己的である事を隠蔽したほうが他者の承認を得やすいし美談になるからだ。本当は自分達のためでもあるのにも関わらず、そこに目を瞑るからモノローグ的な主張になる。それは対話ベースではないので独善的な価値基準の下での(必ずしも生態系にすら良き影響をもたらさないような)行為となりやすく、(利他的な仮面をした)美談になりやすい行為をするため何処か空回りな、滑稽で、卑しいonanie(中国の山間部におけるペンキで緑化運動等)に終わる事が多い。そういうonanie的な行為がボランティア活動においては押し付けがましいものに変わったり、日常においては適度な距離感を失う幼稚な人間関係に変わったりする。広い意味で、真に他者のために行動するためには徹底的に自己と他者の差異を認識したうえで、利他的行為が利己的欲求の基に成り立っている事を自覚しなければならない。そういう意味で、ボランティアのような活動において『onanie(モノローグ)ではなくsex(対話)をしろ』という事を言いたいのだ。マザー・テレサの与えた行為がいかに一般的な俗的美談になろうとも空回りしていない理由は、『この世で最大の不幸は“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。』というマザーテレサのこの言葉からもわかるように、彼女が利他的行為が利己的動機に基いているという事を深く認識していたためであろう。20世紀の利他的行為の代名詞となった彼女のような人物が利他的行為の背景として自分が他者や神の承認を得る必要があったという事を自覚していたというのは何とも示唆的ではないだろうか。“相手を気持ちよくさせる”というだけの抑圧的な主張、それに対して“相手も気持ち良くして自分も気持ち良くなる”という、悪く言えば、利己的動機の開き直り、良く言えば潔いと取れる主張。私が提唱している立場は言うまでもないだろう。あなたの立場はどちらの立場に近いだろうか?この文章をネタorベタとして捉えるかどうかは読む方の度量に任せるとして、私は今せっせとキボードを叩くのである。カタカタ。

※以前、地元の友人と飲んだ時にonanieとsexというこの二項対立の概念を使ってボランティアを始めとして、愛や人間の良心等に関する自論を説明したのだが、この悩ましい二項対立ゆえにか誤解や曲解をされて当人の文章に引用されていたので注釈的説明となったら幸いです。それと意図的であるのか否かは別として、受け売りである事を明示しないだけではなく正確に引用しない(しかも俺が利用していないmixiにおいて) のは不愉快であるのでやめていただきたい。自身のフェアネスが問われると思うよ。