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『人間を考える』松下幸之助 [著] PHP文庫

2022-02-04 13:33:09 | 日記
コラム①公民

「公民」は、もともとcitizen(市民)に由来しており、
公民社会はcivil societyと訳されます。

日本では一般に「市民」が使われていますが、
中ごくでは「公民」に新鮮な響きがあり、
また「○八憲章」のキーワードの一つです。

その定義は難しいのですが、
「公民社会」は一般に
「公」と「私」の間にあり、
共同の利益、
(共同の)目標、
(共同の)価値
などを共有する人々の社会集団、
組織、
活動
を意味し、
それを担(にな)うのが
「公民」となります。

完全な「公」でも「私」でもなく、
一定の自治と
それを行使できる権力・権利を
もつものとされています。

公と私の間の第三セクターとも言えます。

それは、 
❇️法的な権利意識に目覚め、
❇️権利擁護を求め、
❇️行動する自律した人々により構成される、
❇️国家権力から独立した社会的共同体とも
換言できるでしょう。

それは、具体的には、
🌕️学生自治会、
🌕️労働組合、
🌕️同業組合、
🌕️女性団体、
🌕️環境保護団体、
🌕️コミュニティ組織、
🌕️宗教団体、
🌕️ボランティア組織などのNGO、NPOがあり、
さらに、
🌕️それらを包括する公共圏も指します。

もちろんNGOなどは、
中ごくでも以前からありましたが官製が多く、
それとは別に
❇️自発的に草の根から生まれ、
❇️しかも活発に広がってきました。それに伴い
❇️社会生活の内実や質は豊かになったり、
❇️また意識も高まりました。
👆️
◎これは大きな変化です。
中ごくでは伝統的に
(👧残念)「民」は主体としての資格は与えられていませんでした。
「民」は心を労することなく、
❌自分自身さえ管理せず
「蒙(もう)」の中に
眠りこまされる存在でした。
(👩魯迅が『とっかん』の中で同様の状態を述べている。
きっと魯迅の引用なのだろう。) 

言わば社会は群衆の集まりでした。

また「公民」の類義語に
庶民や民間人を指す「老百姓」
がありますが、
これは軍人、
政府職員(官員)、
党員
と区別されます。
つまり「老百姓」は
官権の下に
位置づけられるのです。

また「人民」は基本的に
労働者や
農民で、

資本家階級は
「人民の敵」とされます。

毛●東は「中ごく人は立ち上がった」
と1949年第一回政●協●会議の開会挨拶で宣言し、
中●人●共●国が成立したときから
「人民」は「新国家の主人公」とされました
(ミニ解説「新中ごく」も参照)。

しかし、その意味には、
いかにも政府に従順で、
主権在民や人権擁護など考えようとしない没個性的なニュアンスもあります。

さらに、文革期に濫用(らんよう)され過ぎたため、
あまり使われなくなりました。

それに代わって「公民」が登場してきたのです。

ちなみに1954年と1975年の憲法では、
「公民」は一回しか使われていませんが、
1982年憲法では第2章「公民の基本的権利及び義務」が設けられ、
52回も「公民」が「国民」という文脈で用いられました。
(『「○八憲章」で学ぶ教養中ごく語』(集広舎)より。)




蒙(もう・コウブリ)=暗い。物事の判別・判断ができないこと。






👧土曜日は明日が日曜日だから
サラリーマンが夜更かしが出来て
悩むことができる日なんだ。

逆に日曜日は、
「明日頑張ろう❗」と思える熱血系ドラマでないと
サラリーマンは見ることができない。

👧あたしは土曜日系ドラマが好き。
いろいろ考えたいから。

土曜ドラマ『おい、ハンサム‼️』#4話
『別れ話にコーヒーゼリー食べる男と五番街のマリー』

「(長)ネギをちょうど使い切ることなんかできないんだ。
ぴったりに囚(とら)われるな❗
もっと大切なことがある❗
もがけ❗
きちっと悩め❗
人生には必ず終わりが来る。
・・・・・・❇️❇️❇️❇️・・
誰にとっても必ず途中で終わりが来る。
・・・・・・❇️❇️❇️❇️・・
だからやり残したことを
後悔してもはじまらないんだよ。
ぴったりが何だ❗
ある時点でぴったりだったとしても
明日からどうする⁉️
やり残しを恐れずに
前向きに生きろ❗
前向きに倒れろ❗
やり残してこその人生だ❗
娘たちよ❗
やり残しのある人生こそ、
素晴らしい人生だ‼️」

(👧以上、主役のお父さんのセリフ、
あまりに気に入っちゃった‼️

要は今すぐ悩め❗
明日死ぬかも知れないから。
一個一個悩んで、
やるって決めたことを
最後までやる。
そうすれば悔いが残らない。


👩五番街のマリーが
いま困っていたら、
昭和の男は
すぐに助けに行くの‼️
「マリーをこんなに苦しめやがって‼️」
と言って。



👧どんな問題にも当てはまることを言っているのが
とてもいいドラマだと感激した。
今までのドラマでこんなのある❔
👩ない。
トレンディ・ドラマが○○みたいに思える。
👧それも時代の具現化だから仕方ないよ。







人の苦しみや
喜びといったものを
理解できる人でなければ
意義ある仕事はできないし
人を導くことも
幸せにすることもできない
(松下幸之助)


👧この言葉通りなら
強権国家のリーダーは
意義ある仕事はできないし
国民を導くことも
幸せにすることもできない。



 


👴👨『衆知』とは❔
『衆知』について考えた。

1人や2人ではない、たくさんの人の知恵。

「衆知」の「衆」という字は、
「多くの人」や「民」という意味を持っています。
「衆知を集めて危機を乗り切る」
「この成功は衆知の結集によるたまものだ」
「以前とは違い、衆知を集める重要性に気付いた」
のように使われます。)

(抜粋)

人間の偉大さは、
個々の知恵、個々の力ではこれを
十分に発揮することはできない。

古今東西の先哲諸聖をはじめ
幾多の人々の知恵が、自由に、
何のさまたげも受けずして
高められつつ融合されていくとき、
その時々の総和の知恵は
衆知となって天命を生かすのである。

まさに衆知こそ、
自然の理法をひろく
共同生活の上に具現せしめ、
人間の天命を発揮させる最大の力である。

まことに人間は
崇高にして偉大な存在である。

お互いにこの人間の偉大さを悟り、
その天命を自覚し、
衆知を高めつつ
生成発展の大業を
営まなければならない。

長久なる人間の使命は、
この天命を自覚実践することにある。

この使命の意義を明らかにし、
その達成を期せんがため、
ここに新しい人間観を提唱するものである。

昭和47年5月
松下幸之助



『王者・支配者・君臨』について

この「新しい人間観の提唱」においては、
ややもすれば弱いものと考えられている人間を、
『偉大なる王者』として認識しようとするものです。

したがってここでは、
人間は王者としてふさわしい責務、行動を
自ら実践しなければならないということになります。

真の王者であるということは、
いいかえれば自己の感情、
欲望、愛情などにとらわれず、
正しい価値観につとめて、
人間として万物それぞれを生かし、
ひろく共同生活を向上進歩させようということです。

また支配・君臨するということは、
自然の理法をにもとづいて、
万物に順応するということです。

いいかえれば
万物にしたがいつつ
万物を導き生かすこと、
これに徹することが、
支配・君臨するということです。

『王者』ということば、
『支配・君臨』ということばなど、
過去の通念をはなれて、
いま一度この
『新しい人間観の提唱』を
ご高読いただきたいと思います。




序章

なぜ「新しい人間観」を提唱するのか


多くの偉大な聖人、
哲人といわれるような人がでて、
人としての道、
人間のあるべき姿について
すぐれた教えを説き、
人心の強化向上をはかってきました。

釈迦やキリスト、
マホメットもそのひとりでしょう。

また中ごくには、
孔子とか老子、孟子
というような人がおりましたし、

古代のギリシャにもソクラテスや
プラトンなど今日まで
名を残している数々の賢人が
出ています。


さらに時代をへて、
東洋では朱子とか王陽明など、
西洋では、カント、マルクスという
ような人たち、

また日本に限っていえば、
聖徳太子、最澄、空海、
親鸞、日蓮などといった哲学者、
宗教家、思想家が、
それぞれにすぐれた説を残しています。


そうした(親鸞や日蓮のように歴史の)
記録に残されている人だけでなく、

それ以前の先史時代にも、
ここ(上)にあげた人びとと同じような偉大な哲学者、
宗教家、思想家という人が数多くあったと思います。

そのように先史時代、歴史時代を通じての
さまざまな教えによって、
人間の共同生活も改革され、
高められ、また
多くの人びとが救われ、
人間は互いに愛しあい、睦(むつ)みあい、
許しあうことの大切さを
逐次学んできたのです。

さらにその間に
文学、美術、音楽などの
各分野にわたってすぐれた技術も創造され、

また 
❇️高い道義道徳が説かれるなど、
❇️さまざまなかたちにおいて
❇️人間の心を高め、
❇️精神をゆたかにするための努力がなされ、
❇️成果をあげてきました。

かつて人間は、たくさんの小さな集団にわかれて
互いに争うことがたえなかったといわれています。

しかし、そういうことをくり返しつつも、
長年にわたって、
知恵をつみ、
体験を重ねてきた結果、

今日では、だいたいにおいて、
世界の各国が互いに交流、
友好を保つようになってきました。。

さらに、第二次世界大戦のあと、
❇️国際連合というような組織も生まれました。
❇️あの戦争の惨禍を
❇️二度とくり返さないようにということで
❇️世界の国々が相寄って
👑国際連合が結成されたわけです。
❇️そして(国際連合)創設20数年の間、
❇️世界の平和と幸福をめざして
❇️数かずの尊い努力が重ねられてきました。
❇️そうした努力によって、
❇️世界全体の平和という点においても
❇️いろいろな成果がもたらされたと思います。

(👩そんな尊い使命を担う🇺🇳国連。。)

書籍名 『人間を考える
・・・・・新しい人間観の提唱
・・・・・真の人間道を求めて』
著者   松下幸之助
出版社  PHP文庫
発売日  1995年01月19日
定価   657円+税

かつて「なんじ自身を知れ」と語りかけた先人の問いが、
今ほど重みをもってきた時代はない。
人間とは何か、そしていかに生きるべきか❔

著者(松下幸之助)の事業と思索のなかで
到達したひとつの結論がここにある。

宇宙の理法から人生の真理まで、
❇️人間としての意識革命を迫る一冊。
各界著名人52名による読後感想文も
併せて収録。



(👴👨ブックオフ創始者の坂本孝さんが
2022年1月26日 死去。 
ご冥福をお祈り致します。

大型書店さん、
松下幸之助さんのこの書籍、
『人間を考える』は、
貴方のお店に置いてありますか❔

松下幸之助さんもまた、
私たちにとって重要な“The Miracle Worker”、
『奇跡の人(鬼籍の人)』。

松下幸之助さんは
たとえばヘレン・ケラーのような三重苦の人に、
サリバン先生のように言葉と愛を教えてくれる先生です。

そして人間は、他の動物とは最初から異なってつくられており、
人間はもともと『理解することができる』ようになっている。
その人間の尊いほうの力を使わずして生きてはならないと。

松下幸之助さんは、
私たち人間に言葉と、
人間としての使命倫理道徳を説きながら
私たちの心の中に深く働きかけ、
いつの日か『永久の世界平和』という
奇跡を起こす偉大な先人です。

私たち人間は目も見え、
口もきけ、耳も聞こえる。

であるはずなのに、

見ているのに見ていないときがある。 
見てみぬふりをすることがある。

話しているのに大切なことをいっていない。
またはまったく逆の、真理に反することを言っている。

聞いているのに聴いていない。
ノイズ雑音として聞き流してしまっている……

だから松下幸之助さんが伝えたい、
人間にぜひ目指し続けてほしい平和、
知ってほしい平和の尊さ、
平和の有り難さが
私たち人間にわからないはずがありません。)




(抜粋つづき)

現在の地球上に、
40億近くの人間がいます。
そして、その中にあって
多くの人々がさまざまな思想を持ち、
互いにものの考え方を異にしています。

というよりも、
何百万年という人間の歴史を通じて、
なんらかのかたちで、
いろいろな思想や考え方が
存在してきたわけです。

そういうものの考え方や思想というものは、
本来人々の幸せをめざし、
社会の発展をめざして、
そのために生みだされてきたものだと思います。

したがって、個々の思想には
それぞれにそれぞれのよさがあり、
それなりの真理が含まれていると思います。

だから、そういう、
ものの考え方を異にすることによって、
お互いに見聞きし考えあって研究し、

そこから個々のよさが互いにとり入れられ、
高められて、
ともによりよくなるということであれば
まことに望ましいわけです。

そして過去においても、
また現在もそういう好ましい面が
少なからずみられることはたしかです。

しかし、その反面に、
一方の思想が他方の思想を、
誤ったものと断定して非難したり、
排斥したりするということも
これまた起こっています。

そういうことが1つの国の中で起こってくるだけでなく、

世界全体としても、
民族と民族、
国と国の間においても見うけられるのです。

考えてみれば、
これまでの人間のあゆみというものからみても、
人間には、互いに力や技を競い合い、
競争し合うといった競争心、
闘争心というものが、
天与のものとしてそなわり、
はたらいているようにも思われます。

そういうものがはたらき、
それによって、互いに他より
ぬきんでようと切磋琢磨しあって、
向上してきたのは事実です。

しかし、その競争心がすぎ、
それにとらわれると相手に対する憎しみも生まれ、

❌また時にはさらに物欲、権勢欲などにもとらわれて、
❌相手を抹殺しなければすまないというようなことで、
❌人間同士が殺戮し合うといった姿にも陥ってきます。

そうした事例は、
記録に残されている五千年の間でも、
枚挙にいとまがありません。

おそらくそれ以前の何十万年、
何百万年という時代の生活においても、
同じようなことを行ってきたことでしょう。

人間始まって以来、
一面には非常に文化が進んできてはいますが、
その反面では、そのような不信の姿、
悲惨な状態というものが、
ずっと続けられてきたのです。

そして、そのような状態は科学が発達し、
文明が進歩した今日にいたってもなお
続いています。

しかも、ただ続いているだけでなく、
むしろ、文明が進めば進むほどより大規模に、
より深刻なかたちにおいて(深刻なかたちで)
くり返されているともいえます。

この百年の間には、
世界の各国が互いに相争う、
いわゆる世界大戦というものが
再度にわたって行われています。

日本いっこくだけを考えてみても、
4回の戦争を経験しています。
勝った場合もあれば、
負けた場合もありますし、
またその原因というものも
いろいろありましょう。

しかし、こうした経験をしてきたことは
事実です。

そのように日本だけでなく、
多くの国々が世界大戦のほかにも
互いに幾度となく戦争をくり返し、

❌そのつど無数の人が
❌あるいは傷つき、
❌あるいは命を失うという
❌悲惨な姿に陥っているのです。
🌕️これは人間の真の幸せとは
🌕️とうてい考えられません。

❌世界の人口40億のうち、
❌その3/4(4分の3)あまりは
❌貧困な生活をしており、
❌何億という人々が飢餓に
❌瀕しているといわれています。
🌕️物の面だけをみても
🌕️まことに不調和な状態が
🌕️そこに見出されるわけです。

❌そして、それによって何百万、
❌何千万という多くの人々が、
❌あるいは倒れ、あるいは傷つき、
❌家族を失い、財産を失うなどの
❌不幸に陥っています。

しかも、当面のところ世界的な戦争がない、
いわば全体としての平和的な姿であるというものの、
そのよってきたるところは、

1つには核戦争にたいする恐怖からだといわれています。
原子爆弾、水素爆弾というものが発明され、
そのわずか一発で大きな都市を破壊し、

❌何十万、何百万という人々の生命が奪われる危険もでてきました。

そして今日までにつくられ蓄えられている
核兵器の総量は
世界中の人々を絶滅させ得るもの(量)であるといわれています。

そこから、このような💀💀💀💀💀
人間を滅ぼしかねない大量殺戮兵器の
出現によって、
人間はその恐ろしさにおびえ、
平和を保っていくようになるだろう
という考え方も出てきています。

たしかにそれも1つの見方でしょう。
また、事実この20数年間、
世界の各所で頻発した戦争が
いずれも局地的なものに
とどまることができたのは、
いわゆる核の抑止力、
つまり原水爆にたいする恐怖によってである
ともいわれています。  

しかし、もしそのように
核兵器のこわさによって、
やむを得ず大規模な武力の行使を
押さえているとするならば、

そういう姿を
はたして真の平和といえるでしょうか❔

また、そういうようなことで
いつまでも平和を保っていけると
安易に考えていいものでしょうか❔

過去において、人間は、
たとえば大砲とか爆弾といった、
それ以前のものからみれば
画期的な破壊力を持つと考えられる兵器を生みだしてきました。

それを行使すれば(兵器を使えば)、
人間の上にこれまで以上に
悲惨な状態がもたらされることは、
それら(兵器)が発明された当時の人々も
知っていたことでしょう。

しかし、それにもかかわらず、
やはり戦争は起こり、 
平和は維持されなかった。

つまり、そういう兵器は
戦争をなくすことは
できなかったのです。

それと同じように、
核兵器でも、
何かことがあった場合、
あえてこれ(核兵器)を使おうとする人が
でてこないともかぎりません。

そういうことを考えてみると、
核兵器というものは決して
真の平和を保証するものではないと思うのです。 

やはり、真の平和というものは、
単に戦争がないという、
かたちだけのものではありません。
人びとの心と心がかよいあい、
お互いに助けあって、
知恵と力を供与しあうというような
ところから、はじめて実現してくるものでしょう。

そのような意味からすれば、
今日の世界の姿は、
まだまだ真の平和には
ほど遠いといわなくてはなりません。

そのようにいろいろのことを考えてみますと、
人間はその長い歴史を通じて、
宗教、
科学、
道徳、
教育、 
政治をはじめ、
さまざまな学問や社会の制度など
あらゆる面において大きな進歩を生んできましたし、

また今日もさまざまな努力を重ねていますが、
いまだなお、好ましからざる姿を
少なくしていくことができないでいることがわかります。

いったいこれはどういうことなのでしょうか。
文化が進み、
文明が発達してきたにもかかわらず、
人間は同じような不幸をくり返している、
というよりも、
文明の進化に反して不幸が大きくなってきている面さえみられるわけです。
なぜこのようなことになるのでしょうか。

一つには、
人間というものは結局
そういう宿命を持っているのだという考え方があります。
これまでにのべたように、
ある面では進歩を生みだしながら、
他方ではたえず争いをくり返し、
自ら不幸を招来している、
それが人間の本来の姿なのだとする考え方です。

もし、そういう考えに立つならば、 
お互いがいかに研究し、努力したとしても、
しょせん人間生活の上に、
真の幸せというものはもたらされず、
人間は調和ある繁栄とか平和、
幸福を望みつつも、
それをおたがいのものにすることができない
ということにもなります。

しかし、はたして人間とはそのように、
つねに弱く愚かなものでしょうか。

そうではないと思います。

人間の本質はもっとほかにある、
人間は本来もっとすぐれたものである。

調和ある繁栄、平和、
幸福を実現し得るものである。

ただそこにそれなりの原因があって、
いまだなおその立派な本質を
十分にあらわすことができないでいるのだ。

そういうことを十分に認識し、
人間の本質を正しく自覚するならば、

人間の共同生活は
必ず好ましいものになるのだ、と、
そう思うのです。

なぜそのように考えられるのか、
その本質はどのようにすれば
発揮することができるのか、

それについての1つの考え方を示したものがこの、
「新しい人間観の提唱」なのです。