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企業は何のためにあるのか

2021-10-27 19:58:45 | 日記

 

企業は何のためにあるのか❔

「資本主義の倫理化」

 

「資本主義の倫理化」を実践する具体的な方法は、

第一に企業が倫理的規範をきちんと掲(かか)げることです。

そして、「企業は何のためにあるのか」ということを、企業のトップが社員に伝えるのです。

松下幸之助は「会社は何のためにあるのか」ということを主張しました。

あの頃はまだ日本人の道徳心は少しは残っていたと思いますが、

今は道徳の遺産も使いつくし、あの時代よりももっと企業は道徳を失っています。

それだけにますます松下幸之助のような人が必要なのです。

「商人の道」を離れて資本主義の倫理はありません。

 

そもそも企業は何のためにあるのでしょうか❔

人々がいい製品を買うのは、それが役に立つと思うからです。つまり、企業活動はただもうけるためのものではなく、社会に効用を提供しているのです。

言い換えれば、企業は利益を追及するなかで

🌕️社会的な任務を果たしているのです。

そういう🌕️社会のもつ役割、意味を、社員の意識に徹底的に植えつけることは、重要な社員教育です。

 

道徳を家庭でも教わらず、

学校でも教わらず、

その上、会社でも教わらないとすれば、

人間には道徳など必要でなく、

「会社というのはただもうければいいものだ」と思い込んでしまうのも、無理はありません。

 

🌕️会社がただの営利団体ではないということを徹底すれば、倫理的にやってはならないことがあるという判断も出てくるはずです。

🌕️会社が自己倫理をもてば、社員に対しても倫理的行動を要求できます。

 

逆に、会社は、もうけるために何でもしていいということになったら、社員に対して倫理を要求することは不可能です。

 

改めて考えてみると、現在、企業が目的を失っているという面も見えてきます。

つまり、もうけること以外に目的が見つからないのです。

これは日本の国家に目的がないのと関係しています。

日本には「日本株式会社としての目的」はあるけれども、国家としての目的は見当たらない。

日本における企業の力は大きいですから、企業に思想も倫理性もないとするならば、国家に思想がなく、倫理性もないのは当たり前のことなのかもしれません。

❇️しかし、それでは生きていけない時代がきている。

「儲け」だけを追及する資本主義は危ないと考えざるを得ない時期に、われわれは足を踏み入れているのです。(梅原猛)

 

 

 

 

 


行き詰まりの時代

2021-10-27 05:58:13 | 日記

 

終章 「行き詰まりの時代」を開く方法--梅原 猛

 

 

社会主義の崩壊と資本主義の危機

 

戦後活躍した多くの日本の思想家は、多かれ少なかれ社会主義体制というものを認め、それに荷担する方向を向いていました。

マルクス主義の立場に立たない人でも、社会主義国、ソビエト連邦や中ごくには好意的な発言をする人が多かったのです。

そういう流れのなかで、私はマルクス主義と社会主義体制を批判してきました。

「社会主義体制は人間に幸福をもたらすものではなく、むしろ人間の自由を抑圧し、人間社会に憎悪をまき散らすものだ。

マルクス主義の思想の根底にはルサンチマン(抑圧された人間の憎悪)というものが隠れていて、

そういう思想では人間は幸福になれない」。

こういうことを語ってきたわけです。

当然のことながら、

「国家主義者」「反動」と、

厳しく糾弾(きゅうだん)されました。

ところが、ソビエト連邦を始め多く社会主義体制が崩壊してしまった。

批判していた私でさえ

これほど早く社会主義体制が崩壊するなどとは、まったく予測することはできませんでした。

こうした事態に際して、

「それ見たことか」

という感慨はありませんでした。

もちろん、社会主義の崩壊に痛みを感じることはなかったけれども、

積年の敵が敗(やぶ)れ去ったと喜ぶ一部の思想家とは違った思いを抱いたのです。

1つには、社会主義の崩壊があまりに早かったことに驚かされたということ、これが正直な感想です

そして、もう1つは

資本主義もまた危機に直面しているのではないかという予感です。

ソビエト連邦をはじめとする社会主義体制の崩壊に対して資本主義万歳を唱え、

は資本主義体制が最後の勝者として末永く繁栄するだろうという声が、一方では上がっています。

ちょうど日本がバブル景気の最中にソビエトの崩壊が起こったのですが、

バブル景気万歳とはしゃいだ人もいました。

しかし、私は資本主義体制の勝利を喜び万歳を唱える人たちに与(くみ)しません。

それどころか、資本主義はうかれていられる状態ではないという危機感のほうが強いのです。

実際、バブル景気のなかにあった資本主義というものは、どうにもならないくらい危険な代物(しろもの)でした。

もちろん、マルクス主義に基づく社会主義体制よりは住みやすいし、自由があるだけましです。しかし、諸手(もろて)をあげて歓迎できるようなものではない。

これは、今や資本主義もたいへん危ない水域に漂っていると考えなければならない、ということです。

社会主義崩壊の次には資本主義崩壊が起こるのではないか。そういう予感を否定することはできませんでした。

ほその思い--資本主義への危機感--は現在も続いていて、消えるどころか年を追うごとに強くなっています。

資本主義の危機を示す兆候は、バブル景気の崩壊とともにますます顕著になっているように感じています。

社会主義の崩壊の次に資本主義の崩壊がくるという予感は、当たってほしくないのですが、日々、真実味が増しているといわざるを得ません。

 

 

「原点に帰る」ことが求められる時代

 

この資本主義に対する危機感は私だけのものではありません。

京セラの稲盛会長も同じような危機感をもっていることを、今回の対談を通じて感じました。 

そして、現役の経営者である稲盛会長が考えた、危機感を克服する道は

「資本主義の原点に帰れ」ということだと、私は理解しました。

私の言葉で言えば、「資本主義の倫理化」ということです。

これは、現在の資本主義が道徳的にかなりたい廃していて、

そこに危機の原因があるという認識から導き出された結論です。

「資本主義の原点の帰れ」という稲盛会長の思想は、まさにその通りだろうと思います。

マックス・ウェーバーは「片手に聖書、片手に算盤(そろばん)」といったけれども、西欧における初期の資本主義はとにかく片手に「聖書」をもっていた。

この「聖書」が意味するところは「宗教的限定」であり、

つまり経済活動に倫理的な限定があるということです。

具体的にはプロテスタンティズムにある禁欲主義、自分の欲望を抑えて仕事にはげみ、社会に奉仕するという倫理だったと思います。

ところが、今の資本主義には聖書も何もない。両手にそろばんという姿です。そろばん以外に人間の行為を決める基準はなく、資本主義の精神はとにかく儲(もう)ければよいという不健全なものになっています。

いつの間にか、倫理もない、文化もないという姿に、資本主義がすっかり変わってしまっているのです。

とりわけ今日の日本ではお金をもうけることはインターナショナルな活動として、せこには何ら抑制がない。

その意味では、日本人のアイデンティティが「普遍的儲けの哲学」になった観(かん)さえいたします。

実際、今の日本人の生活を支配する規範は「もうかればいい」ということでしょう。後はゴルフをやり、カラオケをやり、頭のなかが空っぽであればあるほど今の世の中は暮らしいい。実に恐ろしい精神状況に、なりつつあるといわざるを得ません。

もう一度、われわれは資本主義の原点に帰るべきです。

ヨーロッパでいえばプロテスタントの倫理ということになりますが、

日本でいえば江戸時代の町人文化が発展する過程で生まれてきた心学となります。

心学は、儒教や仏教など日本にあったさまざまな倫理を綜合(そうごう)し、当時の民衆にわかりやすいような日常的な教訓として示された「人間の倫理」だったと思います。

商人たちは片手に心学、片手にそろばんを持って、ビジネスに取り組んだのです。

 

また、近代に入ると、福沢諭吉が「近代の商人」における道徳を説きました。

独立自尊という自らを尊敬するという意識、倫理観がそうです。

経済活動において片手にそろばんをもつのは当然としても、もう一方の手にはそろばん以外の規範、倫理というものをもっていなければ、アンバランスになってしまうのは日本の理(ことわり)というべきでしょう。

その自明の理をふまえて生きることが今の日本人に必要なことだと思うのです。

 

 

企業は何のためにあるのか❔